第26話 2024/6/24 17時半

 やがて、コンコンコン、と病室のドアがノックされた。


「お邪魔します」


 インカーの、声だ。

 心臓がドキドキする。


「やあ、インカー。来たんだね」


 クリスの真似はしない。鋭いお前なら、この発言だけで。


「……お前、誰だ?」

「……よく分かったな……さすが……」


 やっぱりね。

 お前なら、気付いてくれると思った。

 何だろう、この切ない気持ちは。

 理解者を、求めているのか。


「……どうなってこんなことになったのか、分かんないんだけどね……」


 ゆっくりと、インカーの方を向く。


「……どうやら、僕は……リノ、みたいだ」


 インカーの目が悲しみに歪む。

 ああ、そんな顔をしないで。

 僕の顔が伝染ってしまったかな?


「……スッスは……?」

「……分かんない。あの拍子に入れ替わった、のかも。もしかしたら、リノの体の中にいるんじゃないかな。生きてはいるけど……意識が戻らないって……植物状態になってしまってるって……」

「そんな……」


 インカーがふらふらと近づいてくる。

 その手が僕の頬に触れて。

 その途端、胸が苦しくなった。


 どうして?


 僕はお前のことなんか、ちっとも好きじゃないのに。


 お前に抱く感情なんか、申し訳なさしかないはずなのに。


 この痛みは、鼓動は、熱は、クリスのものだろう。


 僕が感じていい愛しさじゃ、ない。


「……インカー」


 口を開く。なんと言おう。なんて言えばいい?

 僕が混乱している間に、インカーもゆっくりと言葉を紡いだ。


「……スッスを、返して……」


 そのハシバミ色の瞳から、大粒の涙が次から次に溢れ出ていく。

 ああ、駄目だ。

 そんな顔を、今の僕に、見せないで。


 僕は彼女を抱き寄せ、キスをしていた。

 罪悪感と、喜びとで、気が狂いそうだ。

 ああもう、僕はどうしようもなく悪だ。

 こうやって、勝手に他人を振り回して。

 インカーの気持ちも分かっているのに。

 自分さえ良ければいい、最低の人間だ。



「……ごめん……」


 インカーに顔を寄せたまま、囁く。


「本当に、スッスじゃないのか……?」

「うん……僕は、リノだ。中身は、あの最低のクズ野郎のままだ。僕がこれで、クリスが……僕のせいで……。本当に、僕、もうどうしたらいいか……」

「……死ぬんじゃねえぞ」


 インカーが真っすぐに、強い視線で僕を射抜く。

 狂う。

 お前に、狂ってしまう。

 この体が、そうさせるのか。

 僕の心が弱っているからなのか。

 クリスの中の僕はリノじゃないのか。

 クリスの想いが、全身に残っているのか。


「……死なない。この体をクリスに返すまでは、絶対に死なない。それだけは、やらない」

「……そうか。なら、いい」

「インカー……」


 もう一度キスをしようと彼女の肩を抱く。インカーは抵抗した。そりゃそうだ、中身は僕だと理解してしまったのだから。


「……インカー。キスさせて」

「なんでだよ……リノなんだろ、お前」

「そうなんだけど……この体に残ってるクリスの想いが、お前を愛したいって叫んでるんだ。

 インカー。リノの体が回復して、クリスがこの体に戻るまで……このまま、今まで通り、恋人でいてくれない?」


 インカーの瞳が、動揺に震えた。

 葛藤、しているのか。

 嬉しい。

 悩んでくれてるのが。

 無理だと突っぱねられないのが。


「……リノは、どうなんだよ。スッスの気持ちを抜きにした、お前は」

「今の僕は、お前が好きだよ」

「即答かよ……」


 ハァ、と深く溜息をつかれる。

 それからインカーは、今度は自分から、僕にキスをしてきた。


「……正直、信じにくい。口調や態度は全然違う、確かにリノって感じがする。なのに、本当のリノなら絶対に言わないようなことも言う……。スッスが、リノのフリをしてるんじゃないかって、思っちまう。

 それならそれで、私は受け入れる。大切な人がどれほど変わり果てても、愛せない私じゃない。自分がリノだって言うんなら、それを尊重しようとも思う。

 でも……どんな形でも、戻ってきてくれて、良かった。

 嬉しいんだ。本当に……これだけは、本当に……」


 また、泣いた。

 あんまり泣かないでほしい。

 クリスの涙腺、思ったより弱いんだから。

 僕は自分の目を右手で拭い、そのままインカーの頭を撫でた。


「……ありがとう、こんな僕を受け入れてくれて」

「ちゃんと……返せよ、いつか」

「分かってるよ……僕、何でもするから。

 医者になろうと思う。この厄介な現象を解くために……ま、元々リノは医者志望だったし、体が変わってもすることは一緒だ。

 なんかちょっと、思ったよりクリスの体に引きずられてて、今までみたいに天才リノちゃんではいられなさそうだけど……」

「え、そうなのか……」

「……まあ、僕が本気を出すのに丁度いいハンデだよ。心配ない」

「……ふふ、お前、やっぱリノだなぁ……」


 こいつ本当に、口先だけじゃなくて、クリスの中の僕を受容する気なんだな。

 幸せが、ここに、僕の腕の中に確かにある。

 たとえ期間限定の、本当は僕に向けられたものじゃない愛情だとしても。


 約束だ。

 僕はお前を大切にする。

 クリスにちゃんと、お前を返す日まで。

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