僕がクリスの人生を生き始めた日(全3話)
第27話 2024/6/30 午後
僕は、リノ・ライノは雷野クリスとして退院し、クリスの家に帰った。クリスの母さんは僕を腫れ物のように扱ったが、兄は理解を示してくれたし、父も事情を説明すると納得したようだった。
クリスの人生を生きる。
その約束を全員とした。
インカーも含めて、だ。
「ああ、それから、お前生徒会長になったから」
「ッハァ!? 聞いてないぞそんなこと」
「選挙なんだから本人が居なくても通るんだよ」
「無茶苦茶だろ……他の候補者の奴らどんだけ人望無かったんだよ」
「スッスが人望ありまくりだっただけですぅー」
インカーがぷく、と膨れる。今はクリスの、いや僕の部屋で、クリスの高校に通うための……復学するための準備を手伝ってもらっているところだ。学校の地図や授業の進捗、先生の名前、最低限覚えておいた方が良い生徒の名前。覚えられないわけじゃないけど、正直面倒くさいし、記憶喪失です! って公表した方が楽な気がしてきた。
「……まぁ、分かるよ。こいつお人好しだもんな」
「そうそう」
「誰にでも懐くし、いつの間にか全員と友達になってるし」
「うんうん」
「そっちの高校じゃ首席だし、運動もできるし、格好良いし」
「それなー」
「唯一の欠点は、僕のことが好きすぎることくらいだった」
「確かに」
「確かにじゃねえよ!」
大真面目に僕の言葉を肯定し続けるインカーを指先で小突く。肩のつもりで突いたのに柔らかくてドキッとする。
「いや、本気でそう思ってるよ、私は。きっとスッスはお前に狂わされ続ける人生だったんだろうな。でも、お前がいなけりゃきっとクリスはスッスにはなってなかった。お前もいないと駄目なんだ、リノ」
「……もう、分かってるよ……」
インカーは事あるごとに、リノもちゃんと生きろと僕に言ってくる。僕の本性は伝えたはずなのに、どうしてそう僕を受け入れられるんだろう。
それとも、実感できてないだけなのか。
ここで押し倒してしまえば、傷付けてしまえば分かってもらえるだろうか。
「……僕は、リノだよ」
「それこそ
「リノなのに、お前はクリスみたいに扱ってくる」
「そんなことはねえよ。スッスならもうちょいこう、照れがある」
「っふふ……聞きたくないな」
つまり僕との距離感はこれで友達、ということか。
苛々する。
馬鹿はクリス一人で十分なのに。
「……実はクリスと自在に切り替えられるんだよって言ったら、どうする?」
「えっ……そうなのか?」
「インカー。好きだ。俺らのことで迷惑掛けっぱなしでごめん」
「あっ……えっ……?」
ちょっと口調を真似てみただけで、インカーは面白いくらい動揺した。これは悪い遊びだ。だからこそ、僕は止まれない。
クリスが毎朝僕にそうしてくれたように、優しく抱擁する。インカーの体は小刻みに震えていた。困惑して怯えているんだろうか。
可愛い、被食者だ、お前は。
指を絡み合わせ、インカーの腕を僕の顔の前に持ち上げる。ぢゅう、と吸ってキスマークを付けてみせた。
「……っ、あ、何……」
「何ってキスマだけど。俺のものって証」
「や、やめろよ……」
「なんで?」
「……」
インカーの顔が紅潮して、目が泳いだ。
「……もう夏服だから、見えるとこに付けんな……」
「つまり見えないとこなら何しても良いってことだな、オッケー」
そう言って僕はインカーをベッドに抱え上げた。
「……お前、したこと無かったのか」
僕は取り返しのつかないことをしてしまった。インカーにも迷いがあったんだろう、痛いと騒ぐ割に、抵抗はほとんどされなかった。そして今は布団の中で静かに泣いている。それをそっと抱き締めるくらいしか、今の僕にできることはなかった。
「クリスのことだから、てっきり……」
「……ねえよ。スッスは、リノのことが好きだったから……」
なら、この体に宿る想いは何だというんだ。インカーが傍にいるだけで扇情される僕は。
少しだけ腕に力をこめる。この欲は、僕のものだろうか。インカーは溜息をついて、話を続けた。
「……だから、私に手を出すのもできなかったんだろう。どっちにも悪いって思ってたんじゃねえかな。アイツはお前と違って……」
「そうだね。クリスは僕と違って善人だから……」
そう言いながらインカーに付けた傷を触ると、腕の中で身を捩って逃げられる。逃げられやしないのに、その無駄な抵抗が健気で、僕の嗜虐心をくすぐる。
クリスが侵さなかった聖域を、僕が闇に染めていく。インカーは本物のクリスを知らない。クリスはインカーを知らない。僕だけが、二人ともを手に入れたんだ。
インカーへの嫌がらせがこんなに楽しいとは。
クリスのものってことは、さぁ。
僕のものってことで良いんじゃないか。
僕はクリスになったんだから……。
「……逃げんなよ」
「いや痛いし。普通に逃げるよ」
「俺の彼女のクセに」
「お前が俺って言うとキモい。真似すんな」
「クリスを演じろって教えに来てくれたんじゃなかったのかよ」
「私の前では……二人だけの時には、やんなよ」
「じゃあ、お前も二人だけの時にはリノって呼んでくれる?」
「呼んでるじゃねえか」
「さっきはクリスとしか呼ばれなかった」
「……、あー」
恐らく、念願、だったんだろう。
好きな男がようやく自分を求めてくれたと。
親しみを込めてスッスとは呼べない微妙な相手だけど。
思い描いていたような幸せは得られなかったかもしれないけど。
酷なお願いだとは僕も分かっている。
でも、正直な話、僕だって怖いんだ。
僕がクリスになってしまうのが怖い。
クリスが僕になってしまうのが怖い。
クリスになりたいなって思ったこともあった。でもそれは人格までまるごとクリスだったら幸せだろうなという意味であって、こんなグロテスクな状態になるとは思ってなかった。
リノって誰かが呼んでくれないと、僕が僕だと認識できなくなりそうだという予感がするんだ。
「……リノ」
「何?」
「私……泣いちゃったけどさ……今のお前に求められるのは、別に嫌じゃない。……嬉しかった。ありがとう」
「お前……底なしのお人好しか何か……?」
「そんなんじゃねえよ。……だって、苦しんでるのはお前だろ」
「……っ、インカー……」
馬鹿だよ、お前。ホント馬鹿。お前もクリスも頭おかしいんじゃないの。
「僕が可哀想だから、許してくれるってこと……?」
違うって分かってるけど、口をついて出るのはそんな皮肉で。
ああ、僕って本当にみっともない。
「お情けとかじゃねえって。ただ……お前の苦しみ、私なら分かるから。事情も、気持ちも、だいたい全部。だから、甘えていいぞ。私なら平気……こんくらいの痛みなら、全然気にならない」
「この傷は僕が苦しんでるからとかじゃなくて単に僕のシュミなんだけど」
「そーいやそーだったな! あとで手当てしろよ」
「ん。ごめん。今、する」
「違っ、それは手当てって言わない、っひあ、痛っ……」
インカーは、今度は最後まで僕のことをリノと呼んでくれた。
シャワーを浴びて出てきたインカーの体を手当てする。絆創膏の在庫が無くなってしまったから、買いに行かないといけないな、などと考えつつ。
「……明日は、八時に学校に着くように送ってもらうけど。インカーもついでに迎えに行く?」
「いや、遠慮しとく。兄貴が面倒くさいし」
「インカーお兄さんいたんだ?」
僕が何気なくそう言うと、インカーはちょっとつらそうな顔をした。
「……いるよ。兄貴としては何も尊敬できねぇ奴だけど」
「ふーん、僕みたいだね」
「リノの方が優しいレベル」
「それはかなりだな……」
だからこんなに優しい子になったのかな、と僕はインカーの頭を撫でた。クリスが僕といることで優しい奴になったみたいに……。いや、元から優しいから、こいつらが割りを食うのかもしれない。そこの機序はちょっと分からなかった。
「……だから、スッスのこと好きになったのかもしれない。スッスが気付かせてくれたんだ、私が兄貴に傷付けられてるってこと。あいつが優しくしてくれたから、私は……自分の異常さに気が付けた」
「インカーの異常さ、かぁ」
そうだな、クリスは本当に太陽みたいな奴で、いつも僕らを照らしてきて、僕は見たくもない僕の異常さをいつも見せつけられている心地がしたものだけど。
それが救いになることも、勿論あるんだろうな。
「……良かったね」
「うん。……リノも、スッスと似てるとこあるよな」
「えっ!? どこが!?」
「そうやって、相手のことを否定しないところ。どこも異常なんかないじゃんとか頭ごなしに言わずに、すんなり受け入れてくれる。そりゃ、私が間違えてる時は指摘されるけど……なんか、一緒にいて気が楽だ」
「ふーん……クリスと似てるなんて初めて言われたな」
つい、ニヤけてしまう。僕とクリスの共通点なんて、苗字と性別くらいしかないと思ってた。
「……リノが笑うとやっぱちょっと表情違うな」
「へぇ、そうなんだ。直した方がいい?」
「どうやって直すんだ?」
「鏡とか見て、練習して」
「お前……さすが、基本的に努力家なんだなァ……良いよ別に。笑顔って無理して作るもんじゃねえし。お前はクリスじゃなくてリノなんだから、気にすんな」
「どっちの方が可愛い?」
「……難しいことを聞くんじゃねえよ……」
「てことは、僕の方が可愛いんだ」
「うーん。スッスは犬っぽくって、リノは猫っぽい」
「素直に僕の方が可愛いって言えばいいのに」
「なんで可愛いにこだわるんだお前は。言われたら嬉しいのか?」
「んー。リノからクリスの体になって減ったもののひとつだから、かな」
「なるほどね。まあ、可愛すぎるくらいがちょうどいいよ。お前黙って真剣な目になってるとめっちゃ怖いもん」
「……ふーん?」
「それそれ。リノの時のクセか? その半眼。それが怖い」
「そうなんだ。気をつけるよ」
そう言って僕は自分の思う限り一番の笑顔をインカーにおみまいしてやった。
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