僕らが月を見た日(全4話)

第35話 2024/9 上旬

 ナイフを弾き上げた左手の甲を五センチほど縫った。

 指の関節にかかっていて意外と生活に支障が出たから、しばらく実家で世話になることになった。

 実家というのは普段からほぼ無人な僕の家じゃなく、クリスの家……兄のイナホとその奥さんのエミさん、つまりクリスの両親の住む家だ。


「エミさん、洗濯物できてたんで出しときました」

「あっありがとうね、……その、気を遣わなくていいからね」

「いえ、片手でできることはやるんで。お世話になってるんで」

「……リノちゃん。ホントに、大丈夫だから」

「……はい」


 つまり、部屋から出るなということだろう。

 僕は彼女から大切な息子を奪って、その皮を被って生活しているバケモノだ。義弟とはいえ、小さい頃からお世話になっていたとはいえ、許せないはずだ。

 夜中にはエミさんが兄に対してヒステリックに喚く声が廊下まで聞こえてくる。そのまま宥める流れで情事に突入するようで、指摘することはできない。

 年の離れた弟か妹でもできるかもしれないな。いっそできてくれた方が、この家族は幸せになるのかもしれない。

 針の筵のような家だが、だからって学校にも居場所はなかった。


 僕とインカーは、うまくいかなくなった。

 いや、分かってる。僕が一方的に壁を作ってるだけだ。

 あいつの誕生日に、僕の本性を見せてしまった。

 あろうことか、クリスの顔で、あいつを怖がらせてしまった。

 僕が許されることなんてないって、弁えていたはずなのに。

 刃傷沙汰になったことは、恐らくインカーの兄本人が言いふらしたんだろう、一瞬で学内に広まった。先生達は黙殺したけれど、僕の周りには溝ができた。クラスメイト達も僕の機嫌が悪い時は寄ってこなくなった。

 それってつまり、ほとんど常時だ。


 自室に……クリスの部屋に戻って、鍵を掛ける。

 スマホのアカウントをリノのものに切り替えて、左手の傷の写真を撮った。

 経過観察兼、観賞用だ。

 クローゼットの扉を開けて、扉の裏の姿見でベッドが見えるようにして、寝転がる。

 クリスの痴態を見て興奮する、僕は。


「っ、リノ……!」


 そう口にしながら果てる、僕は。


 一体、何者なんだろうか。




 泣き言はクリスにも僕にも似合わない。左手の痛みがある程度引いてきたら、僕は本格的に勉強を再開した。僕がエミさんに認めてもらうには、クリスとして挑戦する全てのことに、クリスが本来出す以上の好成績を収める必要があった。当然そんなことだけで認められるとは思わないけれど、最低限。

 過集中、を覚えた。

 今まで僕がやってきた集中とはまた違う、完全な没頭。

 管理する僕も俯瞰する僕も賭けを始める僕も、そこにはいない。

 楽しい。

 これはきっと、緩やかな自殺行為だ。

 マルチタスクができないなら、最初から他を諦めてしまえば良いのだから。

 でもクリスの体に無茶はさせたくないので、いつでもそれを止められるように、管理する僕は定期的に呼び出すことにした。

 例えば大問ひとつ解いたら周りをちょっと気にする、とか。

 五分進めるごとに耳に入ってきていた情報を処理する、とか。

 割り込み処理を設定することで色々やりようはある。

 過集中に悩んでいる人からは、そんなもの過集中とは言わない、と叱られるだろう。だからこれは僕なりの、僕だけに通用するノウハウ。


 クリスの脳内が、だいぶ僕のやりやすいように整理されてきたと思う。関連付けが甘くて丸暗記してる部分が多いのが原因だった。

 例えば古典、古語、漢語、近代文学、それから日本史、方言なんかは、全部スペクトラム上に配置すべきなのに、それぞれ独立して覚えてるせいで無駄や漏れが多かった。こんなんじゃ、文系苦手なのも当然だ。

 理数も、とりあえず公式を覚えているだけのものがいくつかあった。クリスの頭で理解できないようなモンじゃないはずだし、まあ、サボったんだろうな。こういうことするから、複合応用問題で欲しい道具が見当つかなくて失敗するんだ。高校数学なんて、解ける問題しか用意されていないのにな。

 化学はもっと酷い。電子スピンも知らずに分子結合を丸暗記するんじゃねえよ! え、公立だとやんないの? と思わず教科書を漁った。二年の後半、これから習う内容だった。でも、理解したいと思ったら自分で調べないか、普通?


 クリスの実家は勉強に没頭するにはかなり快適な環境だった。ご飯も風呂も自分で用意しなくて済む。お蔭でだいたいの勘は取り戻せたと思う。左手が完治する頃には、僕の学力はリノ並みに戻っていた。

 ひとまずこれで、受験までは大丈夫だろう。理数で満点以外を取るなんて、屈辱だったんだ。


 満足した僕は、次に僕の、リノの実家に戻った。父の学術書を読み漁るためだ。大学合格はゴールじゃない、僕のやらなきゃいけないことはその先にある。

 父は今は美容整形科をやっているけれど、昔は神経外科の医師だった。そのまま一線にいてくれれば、僕がわざわざ苦労することもなかったかもしれないのに。

 あの人も興味の人だ。心理学的なものから病理学、臨床エッセイやバイオテクノロジーにいたるまで、医に関係する書籍は節操なく集めているように思われた。

 ……こんなに、熱心なのに、最終的に選んだのが美容整形かよ。


 分かるよ。

 患者の治療って、治して終わりじゃないってこと。

 笑顔が一番見られるのは、美容整形かもしれない。

 でもさあ。

 特級の腕を持つ医者が命の現場から逃げるなよな。

 お前じゃなきゃ救えなかった命があっただろうに。


 やめよう。あいつのこと、僕は好きじゃないんだ。

 平和ボケしてしまった外見三十代の白髪の好々爺。

 利用だけさせてもらうよ。


 いや、でも、入れ替わりって不思議な現象だ。僕の、リノの記憶が確かにあって、覚えていたということは覚えていて、でもいざその内容を精査しようとすると、クリスの脳に引っ張られて思い出せない。キーワードとエピソードまではするりと出てくるんだけど、アンカーがないというか。リノの記憶を転写した時に深部のレイヤーを忘れてきたみたいな……。

 僕は思い出せない境界をノートに書き留めておくことにした。この先研究対象にするなら、少しでもデータを集めておきたい。高校入学時にもらった万年筆の出番だった。

 インクは紺色が好きだ。クリスの筆圧だと滲みがちになるので少し加減が必要になる。まだ九月で暑いからかもしれない。指に染みて取れなくなったインク汚れを眺めながら、赤だったらヤバかったな、と思う。クリスの手が血まみれになるような錯覚を起こす。だから、紺色がいい。

 僕は、僕を許せないから。

 僕を甘やかすようなことはしたくない。

 インカーのことも。

 手を出すべきじゃ、なかったんだ。

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