第34話 2024/8/29 夕刻

「じゃ、そろそろ帰ろう。車待たせてるし、家までまたあの車でいい?」

「いいけど、今日だけな。あんま毎回こういうことで迷惑かけたくないから」

「分かったって。次からタクシー」

「お前ホント金銭感覚おかしいのな……」

「ぶっちゃけ本当はクリスの方がおかしいよ。僕は必要経費だと思ってちゃんとコスパ考えてるけど、あいつはあるだけ使って良いと思ってるから。あいつが派手な暮らししてないのは、僕と違って小遣いが絞られてるからだよ」

「えぇ……聞きたくなかったな」

「いや、今聞いといて良かったと思ってよ」


 笑いながら車に乗り込む。緩やかに動き出し、雲のようなクッションが背中を包む。確かにお金があるんなら、これに支払うのは悪くない選択だとも思える。でも、贅沢に馴れるのは怖かった。

 結局、家から百メートルほど離れたところで降ろしてもらった。前まで送るよ、とリノが一緒に降りて付いてきてくれる。そういうことされると、別れづらくなるんだけどな。



 二人で腕を組んで歩いていると、家からライサが出てきた。

 慌てて離れたけど、見られてしまった。


「……女臭えな、インカー。色気づきやがって」


 ライサが睨め上げて舌打ちしてくる。


「ライサ。今日は私の誕生日だぞ、デートくらい別に良いだろ」

「やめとけって言った奴にまんまと引っ掛かりやがってよ……遊ばれてんの分かんねえの? お前に女としての魅力なんかねえんだからさァ」

「クリスはそんな奴じゃない」

「インカー、誰?」


 私が身を硬くしている隣で、リノが静かに低く囁く。ああ、リノもキレてるな、これ……。最悪の状況だ。


「ライサは私の兄貴だ」

「おう、インカーの兄貴のライサだ、園芸科三年だからテメェのこともよく知ってらぁ。雷野クリス、この女ったらしの浮気性のクズめ」

「ご挨拶じゃん、センパイ。僕は生まれてこの方インカーとしか付き合ってないよ」

「うちの妹に手ェ出すなっつってんだよ!」


 ライサがポケットから鈍く光るものを取り出した。小型のナイフだ、コイツこんなものどこで!?

 そのままリノに飛びかかる。リノは一瞬でそれが何かを理解したようだった。でも、避けるには近すぎる。

 次の瞬間、リノは左手を握り込み、ライサの刃を下から拳で受け止めていた。そのまま振り上げてナイフを弾き飛ばし、余った右手でライサを地面にねじ伏せる。

 圧倒的な体格と力の差。ライサは首を抑えつけられ唸りながらもがいているが、リノの腕はびくともしなかった。


「ナイフとかイイ趣味してんじゃん、センパイ。人を傷付ける道具を持つってことは、自分も傷付けられる用意があるってことだよな?」


 リノが血まみれの左手をナイフに伸ばし手繰り寄せ、掴み直す。

 コイツ、本気だ。

 血が、人の苦しむ顔が、涙が好きだと言っていた、お前が。

 こんな格好の状況、逃すわけがない。


「リノ、やめろ……! 同類になるな!」


 私は思わずリノの右腕にしがみついた。顔を覗き込む。リノの目が獰猛に光っていた。

 怖い。

 ヒッと私の喉が鳴った。その音が聞こえたのか、リノが私の方を見た。


 ああ、しまった。


 リノの目から怒りが、憎しみが、熱狂が、歓喜が、潮のように引いていくのが分かった。

 それでも、と思ったのか。最後にナイフをライサの首に当てて、少し、ほんの少しだけ切り傷を付けて。

 赤い血が、じわりと滲んで。


「……クソが。二度とインカーを傷付けんじゃねえ」


 ……その言葉は、リノがライサに言ったもののはずなのに。

 リノの方が、つらそうな顔をしていた。



 リノがライサのナイフを握ったまま、ふらりと立ち上がる。ライサは腰を抜かしでもしたのか、まだ地面に寝転がっている。


「……帰る」

「リノ、手当てさせろ」

「いい。このまま押さえて止血して、車で病院行った方が早い」

「リノ……」

「お前は兄貴の方の手当てしてやれ」

「でも……」

「良いから! 警察沙汰には、すんなよ」

「……分かった」


 リノはそのまま待たせてある車の方に歩いていった。

 大きい背中が、幽霊のように頼りなく揺れていた。

 私は多分、間違えた。

 今のアイツの背中に掛ける言葉なんか、きっと無い。

 ごめん、と口にしかけて。

 謝ったら、また叱ってくれないかな、と思って、やめた。



「……ライサ、大丈夫か?」

「……アイツ、何なんだよ……」


 ライサを助け起こしながら家に戻る。

 リノの本性は、血に飢えた獣なのだろう。

 それを驚異的な理性で普段は抑えているのだ。

 私との児戯なんかじゃ到底満足できていなかった。

 今更そんな当たり前のことを、思い知らされるなんて。


「アイツは、リノだ。クリスの裏の顔。私はリノに協力してる。だからライサ、お前はもう、私とアイツとのことに首を突っ込まないでくれ。次同じことがあったら、庇わないぞ」


 そう言うと、ライサは右首の傷をそっと押さえた。


「……アイツ、マジの奴だぞ。目がイッてた。ナイフのこと全然怖がらなかったし……素手で受けるなんて……」


 不良だから余計にそういう、相手が本当にヤバい奴かどうかが分かるのだろう。私は何も反論できなかった。


「……インカー。あんな奴やめとけよ。今までと違って、俺じゃ守りきれねぇ」


 傷の手当を受けながら、ライサが珍しく弱音を吐く。

 今までと違って、か。薄々気付いてはいた。ライサが私に近づこうとした男達を追い払っていたこと。今まではそもそも、自分には彼らの期待に答えられるだけの価値がないと思っていたから、惜しいとも思わなかった、けど。



「……嫌だよ。私はもう、アイツと離れたくない。今のアイツには私しかいないし、私も……アイツのことが好きで、どうしようもなく好きで、仕方ないんだ……」



 兄の前で私が伝えた本音は、後から自分にどう言い繕っても、クリスじゃなくてリノに対する思いだった。

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