第32話 2024/8/29 昼

 八月二十九日。乙女座の私の誕生日だ。乙女座なんてガラじゃない、一ヶ月早ければ獅子座だったのにな。

 十六日に、突然彼氏から電話が来た。アイツは学校で生徒会の作業をしているはずで、私は家で課題をしている時だった。


「インカー! なんで誕生日近いって言わなかったんだよ!」

「え? スッ……スは知ってたけどそういやリノは知らなかったか」

「そうだよ! 言ってくれなきゃ分かるわけないだろ!」

「えぇと、なんかゴメン?」

「簡単に謝んじゃねえよ!」


 こういうところ、私の彼氏、本当に面倒くさい男になってしまったなと思う。でもなぜか嫌いになれないのは、私が支えてやらないといけない、と思えてしまうからだろうか。


「とりあえずさぁ、今からで悪いけど、二十九日空けられる?」

「門限までに帰れたら大丈夫」

「分かった、十一時に迎えに行く。じゃあね」


 迎えに行く? バイクの二人乗りはまだ駄目なはずだけど。駅で待ち合わせの方が効率良いのにこの暑い中わざわざ家まで来るなんて、リノらしくないな。

 ……そう思っていた私は、当日家の前に停まったベンツに息を呑んだ。



「リノ……!?」

「おはよー、何も言わなくても気付かれちゃったか。迎えに来たよ」

「おはよ、って……これ、ナニゴト……」

「兄……じゃなかった、父さんの会社の運転サービスだよ。気にしないで、どうぞ乗って」

「お、おう……」


 運転手さんが後部座席のドアを開けてくれる。ベンツを見て慌てて母さんのシルクのショールを肩から羽織ってきたけど、大丈夫だろうか。安っぽかったり似合ってなかったりしないだろうか。

 せっかくのフカフカのクッションを楽しむ心の余裕もなく固まっている私の隣でリノが微笑む。


「インカーの私服、可愛いね。エスニック風ってやつ? よく似合ってる」

「あ、う、はい……」

「はいじゃねえよ、なんでそんな余所余所しいんだ」

「いや、失礼があっちゃいけないと思って……」

「絶賛僕に失礼なんだけど」

「いや、運転手さんに」

「何それ。インカーは僕だけ見てれば良いんだよ」


 そんなこと言われても、こっちは高校生で、これはいわゆる成功した大人が乗る車で、運転手さんにだってきっとプライドがあって。生まれつき慣れてるリノには分かんないかもしれないが、こういうの、正直不釣り合いだと思う。

 多分クリスならこんなことはしなかった。きっと駅に集合で、ラウワンのシャトルバスが来るまで適当なところでランチして、ラウワンでひとしきり遊んで、プレゼントあるからうちに寄ってってーなんて言われて……。

 その先は、ちょっと想像つかない。その先を想像しようとすると、途端にリノに切り替わる。

 悔しいけど、淋しいけど、仕方なかった。

 だって私を今愛してくれているのは、リノなのだ。

 リノは、不機嫌そうに窓の外を見ている。私の取った態度が悪かったんだろう。

 私の誕生日なのに。

 そう文句を言えるだけの関係では、まだない。

 こんなに近くで秘密を共有しているのに、お互いに何も知らない。


「……ごめんな、リノ」

「人の機嫌取ろうとして適当に謝るのやめてくんない? 不愉快」

「ごめん……」

「ああ、もう……。インカーは何も悪くないだろ」


 リノが尚もうんざりした顔で私を見て、手を差し伸べてきた。


「インカー、手、出して」

「手?」


 傷でも付けられるんだろうか、とちょっと怯えながら手を重ねる。すると、キュッと握られてシートに降ろされた。

 温かい。

 我ながら単純だなと思う。でも、リノの不器用な優しさが確かにそこから伝わってくる気がした。


「……僕、ホント、ク……あいつと違って優しくないからさぁ。慣れた相手ほど考えなしに傷付けてしまうし……最低な奴だと自分でも思うんだけど。

 ……今から行くとこね、車で一時間弱かかるんだよ。それか電車とバス乗り継いで、ちょっと大変だから、車頼めば良いやと思ったわけ……。驚かせるつもりも、ビビらせるつもりも無かったんだよ。配慮が足らなくてごめんね」


 リノがクリスの名前を言いかけてやめる。ああそうか、今はクリスとして運転サービスを依頼してるから、クリスじゃないってバレるといけないのか。

 それにしても、リノが凹むとクリスより情けない顔するんだな。クリスはいつも前を向いているというか、失敗したらすぐにどう挽回するかを考えているようなフシがあるんだけど、リノは駄目駄目だ。多分、今こいつの脳内は自己嫌悪で一杯なんだ。不機嫌そうに見えたのも、私より自分の方への苛立ちが大きかったんだろう。

 ……天才のクセに、困った奴。お前がそんなに可愛いのは、きっとその分クリスが強かったからなんだろうな。これからは、私の役目か。


「……私のために考えてくれたんだな、ありがとうな」

「ん……」

「遠出して知らないとこに行くんだ? 楽しみになってきたよ」

「そう? まあ、インカーが知らないとこかどうかは分かんないんだけど。僕が興味あったから」

「今から行くってことは昼飯か?」

「うん。イラン料理屋なんだって」

「へぇ! 家以外で食べるの初めてだ。わざわざ探してくれたのか?」

「まあ、そう……外さないかなと思って。メニューも色々ありそうだったし」

「そっかそっか。ありがとう」


 そう言うと、リノは頬を緩めて私の手を握ったままシートで何度か弾ませた。機嫌が直ったのだろう。思考回路を理解してしまえば分かりやすい奴で助かる。

 見て、ぶどう狩りだって。お前もぶどう好きなんだ? でも、もうちょい季節が良くなったらかな……。そうやって、私達の会話は緩やかに続いた。

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