第16話 2024/5/18 午後
土曜日の午後。結局、インカーは俺の家まで来てくれた。パンパンになった鞄を持って、ガッツリ真面目に勉強する気満々のようだった。
「英語どうだったー?」
「うーん、私どうも単語数が足りてないっぽい……記憶力が悪いっつーか」
「あー、まあそこは単純に掛けた時間に比例するからなー。他の教科も頑張らないといけない時は仕方ないねー」
「その言い方、スッスは余裕だったのか?」
「俺は記憶力だけは良いからねー!」
「はぁ、さすが……行くの? 東大」
「はいー!? なんで東大!?」
「先生達が期待してるよ。今年の首席は文理どっちも強いから狙えんじゃないかって」
「いや期待しすぎでしょー……筑波とか考えてたけどー」
と言いつつ、東大ならリノと一緒に通えるかもな、とちょっと思う。いや、あいつの場合MITとかも普通にあり得るか……。留学中もどうせ英語ペラペラだったんだろうしな。
何気なくベッドの台座上に飾ったアポロの模型を見る。そしてその隣にあるものを見て、俺はドッと滝のように冷や汗が流れるのを感じた。
(なんでそこに鎮座ましましますの〜〜〜〜!!??!?!?)
そこにあったのは開封済のコンドームの箱。
いや、まずい。
何がまずいって開封済なのが最悪にまずい。
蓋がぺらーんと開いている。
いつでもどうぞ、と言っている。
俺、女の子と付き合ったことないって、インカーに言って、嘘じゃないんだけど、それじゃあなんで開封済なんだって話になって、え? あれ? リノの来た日は片付けなかったっけ? 片付け、たよな? もしかしてリノがもっかい出した?
(あの最悪野郎〜〜〜〜ッ! 余計なことしかしねえな?!)
いや落ち着け、掃除する時に気付かなかった俺も悪い。というかそんなことよりとりあえず今はインカーに気付かれないようにしないと。
「ああ、筑波大かー。てことはロボット? とか? そこにあるのも模型だよな……」
「いいいインカー!? 俺の進路の話よりですね! とりあえず月曜の数Ⅱからやりませんかね!? 時間は、有限なのでね!」
あぶねー! というか既にインカーあの模型見てたの!? じゃあもしかして隣の箱の正体にも気付いていらっしゃる!?
「何キョドってんだ……? まあ、良いけど……」
妙な顔をしつつも、大人しく教科書とノートを出してくれる。誤魔化し切れたとは思わないが、本来の趣旨はこっちだからな!
「インカーこれ、実は二項定理がそのまま使えて、時短」
「おう? おう、ホントだ……」
数学分野は多分、俺が一方的に教える側だろう。とはいえインカーも筋は悪くなくて、ただ直感で解いてる感じがすごくする。記憶力が悪いというなら、覚えるべき点を絞ってやればいいはずだ。
「式の形見てると、なんとなく解かせたい方向性が分かるんじゃないかなー」
「あー、確かにこれ綺麗になるわ」
「インカーはそういうの読み取るの得意そうだから、きっと少ないパターンさえ覚えたらそれの組み合わせで全部解けると思うよー」
「……スッスは褒めるの上手だなぁ、ホント」
「えっ? 別に褒めてるつもりもないよ! 真実を述べたまでさ」
「ふふ、それが嬉しい奴もいるってことだよ」
「えー、それなら俺も嬉しい!」
「そうかそうか、よしよし」
インカーがふわふわと俺の頭を撫でてくる。犬飼と飼い犬ってか。インカーの犬になら皆喜んでなりそうだな……俺が追い払わないといけないから、やっぱ大学はコイツと同じところかな……。
「インカーはどこの大学狙うのー?」
「ええ……私はどこって無いよ、遠距離にはなりたくないけど、就職とか将来ちょっと役に立つ勉強ができればどこでも……心理学系か経済系かなぁ」
「独り暮らしさせてもらえるとこがいーよ」
「なんで?」
「そしたら実質俺と同棲になるからー!」
「下心だったかぁ……」
「とまでは言ってないじゃん! なんか飲むー?」
「んじゃ、水か何かあっさりしたやつ良いか?」
「麦茶ねー」
グラスを二つ盆に乗せ、冷蔵庫から水出し麦茶をボトルごと持っていく。テーブルの上で二人分注いだところで、インカーが少し首を傾げて切り出した。
「あのな、私の父親がイスラム教徒でさ」
「ああ、じゃあ同棲とか無理かー」
「いや、私の宗教の自由は保証されてんだけど……まあでも、他の奴よりは考え方が古いかもしれないなと思うこともあって」
「うん」
「でさ、……浮気する奴とか絶対に無理なんだけど……クリスはそこのとこどう思ってるの」
「しないよー」
「枕元にさ」
「……はい」
「箱があっただろ」
「ハイ」
「あれ、何」
「インカーはアレが何か知ってるの……?」
「お前がトイレ行ってる時に、お菓子の箱かなと思って手にとって見た」
「手にとって見ちゃったかぁ~……」
お腹空いてたのかな、可愛いね……。
じゃなくて。
どうしよう、言い訳が思いつかない。いや、下手な言い訳や嘘は良くないよな。
「……あれはコンドームの箱ですね」
「うん。使ったことあるんだな?」
「使いました。……その……リノと」
「両想いじゃないんじゃなかったのか」
「俺の好きとあいつの好きは違う……けど、俺が惚れてるのはあいつも知ってるから、体だけ求められた」
「……う〜っ」
インカーが険しい顔つきになる。俺は申し訳なくて唇を噛んだ。
そう、だよな。やっぱ駄目だよな……。
「私と……付き合い始めてからは?」
「……ありました」
「あーあ……そうかよ」
インカーが麦茶を一気飲みする。やけ酒みたいな飲み方だ。たん、と軽快な音を立てて空のコップがテーブルに置かれた。
終わり、かな。
俺はインカーの次の言葉を覚悟して待った。
これでも、インカーを苦しめてでも、リノに応えたことは間違いじゃないと思う自分がいる。あいつには俺がいないと駄目だ。だから、やっぱり彼女とは別れた方が良いということなのだろう。
「……私、今日お前の誕生日だからってんでここに来たんだけどさ」
「うん」
そうだった。わざわざ祝って! ってお願いしたんだった。自分の厚かましさが情けなくなる。
「よく考えたら私ら、まだ付き合ってなかったわ」
「……へっ?」
インカーが突然口角を上げてそんなことを言ってきたので、俺は気の抜けた返答をしてしまった。まだ付き合ってなかったとは? 俺の、高二の春はどこに消えたっていうんだ?
「リノちゃんに会わせてもらうのが、付き合う条件だったから。まだ会わせてもらってない」
「あっうん、それは……」
「だから、別に気にしなくていいぞ。まだ浮気じゃない」
「えっ」
「私とお前はまだ友達。だからリノちゃんと何してようと、私が口出しする権利はない」
「インカー……でもお前の気持ちは」
「は? 知るかよ、どうでもいいわ。理屈が通ればそれでいい。納得できたら私は何も文句はない」
「だって、俺らお互い……」
「好きだよ。少なくとも、私はお前が一番好きだ。でも、まだ友達。あー危なかった、恋人だったら別れ話になるとこだったな」
インカーは俺と目を合わさないでまくし立てた。無理矢理に許してくれようとしているようだ。だったら、俺が言えるのはひとつしかない。
「……ごめん」
「だから、ただの友達だから……」
「ただの友達でも、腹が立ったら怒っていい」
「……!!」
バチン、と左頬を叩かれる。
熱い。
砂漠の国の灼ける太陽が、俺を睨んでいた。
俺を、見てくれた。
「……キスしていい?」
「駄目に決まってんだろ」
「ですよね……」
「お前ホント……馬鹿だなぁ……」
「……そうですね……」
理性とかすっ飛ばして好きが先に来てしまうから、俺はこんなことになっている。勉強ができるできないではなく、自制が足りていないという意味での、大馬鹿野郎だ。
インカーは俺の頬を殴ったのが痛かったのか、額に右手を擦りつけて、深々と長息した。
「……リノのこともそうやって手ェ出したのか」
「俺からじゃないよ、急に来て、抱いてくれって言われて」
「断れなかったと」
「あいつに関しては……俺は……何も断れない」
「よくそれで私と付き合えたな……ああいや、まだ付き合ってないんだった」
「ハイ……」
「向こうは私のこと知ってるのか?」
「バレンタインの日に伝えました」
インカーは、向こうも厄介そうだな……と溜息混じりに小さく独り言を呟いた。
俺も、そう思う。とか言うともう一発お見舞いされそうだったので、こらえた。
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