僕らが思い出にすると決めた日(全2話)
第4話 2024/2/15 午前
男二人で出掛けるのに準備などほとんど要らない。でも昨晩は風呂に入らず寝てしまったから、僕はシャワってクリスのタンスの一番下の引き出しから私服を取り出した。んー、裸を見られてる。今は恋人設定だから、手出ししてくれて構わないんだけど。ま、お前には無理だよね。
服を着て歯を磨く間、クリスはいつものように僕の髪をドライヤーで乾かす。大きな手が無遠慮に僕の首筋を往復する。このドライヤー、どうすんのかな。クリスは自分では使わないから、僕のためだけにあるやつなのにね。持ってっちゃおうかな。
……別れのことは、今は考えないようにしよう。普通に泣きそうになるから。
背後のクリスにもたれかかる。
「リノ、それ乾かしづらいからまっすぐ立って」
「や、だし。これでどう?」
くるりと向きを変えて胸の中に顔をうずめ、抱きついた。髪はフリーになったはずだ。
「これならまあ、乾かせなくはないけど……」
クリスの鼓動が伝わる。僕に抱きつかれて体が火照ったのか、ふわりと好い香りが漂ってきた。同じ十六歳のクセに、体ばっか大人になりやがって。狡いよ、お前。僕も大人にしてよ。僕、今ならお前の恋人役、上手くやれると思うんだけどな。
この香りは、クリスの体臭か。血縁が近いと嫌な匂いに感じるはずなんだけど全然気にならない。ずっと引っ付いていたい。
「終わったぞ、リノ」
「んー……良い匂い……」
「ちょ、なに嗅いでんだよ……」
「好きだから良い匂いに感じるのかなぁ」
「!! っ、」
あー、抱きついてると一発で分かるな。
「クリス……」
「や、これは生理現象だから……、気にしないで……」
クリスの腰が引ける。あんまり弱ってるとこ見せんなよ、狩りたくなるだろうが。
「そんなんで今日大丈夫かよ、僕お前の恋人役だぞ」
「俺から手を出したら終わる、リノが俺に惚れてくれないと……」
「まだそんなこと言ってんの?」
お前がそう思ってるうちは、僕達は交わらない。男なら分かるだろ。僕のこと何もかもぶち壊してやる、くらいの勢いをつけさせるには、この程度じゃ足りないようだ。
今日一日が勝負。
起死回生の一手に繋ぐのだ。
トイレに十五分ほどかけてからスッキリした顔で出てきたクリスは、僕の髪を梳かしはじめた。お前、ちゃんと手は洗っただろうな……?
「平日に出掛けるの、なんか新鮮だなー! リノどっか行きたいとこあんの?」
「んー、割とある。映画とか、ゲーセンとか、カラオケ、本屋、ボーリング、スケート、バッセン……」
「待て待て待て、あり過ぎだろ!」
「だから、どこでもいーよ。お前のセンスに任せる。インカーちゃんとの予行演習だと思って?」
「げ、分かんね……いや、お前はインカーじゃなくてリノだろ。なら、リノの好きなことしよう」
「へぇ、今のいーじゃん。好感度高い」
「マジで? やったねー!」
「でも他の女の名前出したから駄目」
「リノが言ったんだろー!?」
抗議しつつ、丁寧に三つ編みにしてくれる。僕は自分でも出来るけど、クリスがやった方が長持ちするからいつも任せている。
大丈夫……クリスがいないと生きていけない要素は、ない。
「じゃー、スケートかな。小学生以来だし」
「そんなにご無沙汰だったっけー? いいよー、動くと暑くなるから重ね着しとけなー」
そういうとこ、ちゃんと気が利く奴なんだよな、お前。僕は僕の良いところは顔と頭と分別くらいしか思いつかないが、お前の良いところは誰よりも沢山知ってる自信がある。そしてその数少ない僕の美点のひとつ、分別については、今日捨て去る気でいた。
「びっくりするくらい貸切だなー!」
クリスがレンタルのスケートシューズを履きながらリンクを眺めて喜んでいる。僕はシューズを履く方に集中した。別にリンクを見るまでもなく当然の帰結だ。
「そりゃド平日の朝だもん」
「大学生とかいるかと思ったよー」
「お前大学ナメてんの? 授業あるだろ大学も」
「そーゆーこと? むしろ朝起きられないから居ないのかなって思ったんだけど」
「そういう人達もいるだろうね。朝起きられる真面目な奴は授業に出る、起きられない奴はサボりに来るまでもない」
「リノは無理そうだよなー」
「お前に起こしてもらうから平気」
「……全然独り立ちする気無いですね?」
「その話、今はしないで」
クリスに差し伸べられた手を掴んで立ち上がる。カコ、カコとコミカルな音を立ててリンクまで歩き、ブレードのカバーを外した。
氷上に立つ。
足に余計な力が入っている。
久々だから仕方ないけど、ちょっと焦る。
大丈夫、仕組みは理解してる。氷の表面には滑りやすい擬似液体層があって、その縁で融解と再結合を繰り返す。ブレードに付いた液体はこの擬似液体層上を摩擦なく滑らせ、進行方向では融解を引き起こす。だからブレードは力のかかる方向に容易に加速されるのだ。つ、ま、り、体重の掛ける方向に気をつければ、よくて、転ぶ前に、足を出せば──!
「どした、リノ。滑り方忘れたかー?」
生まれたての仔鹿のように足を震わせていた僕を、クリスが後ろからさっと抱えた。
「……なんか、足が長くなり過ぎてて、分かんなくなった」
「頭で考えて滑ろうとするからだろ……」
呆れた声が頭上から降ってくる。悔しいけど、腰を支えてもらえると滑りやすい。そう、思い出した。こうやって足を動かすんだった。リンクの上は冷たくて、クリスのスピードが上がると頬を冷気が刺してゆく。でも、僕の顔は冷えなかった。クリスの体温が背中と腰に伝わる。ずっとこうしているのも良いな、と思う。ずっと滑れないフリをして、僕はクリスの荷物のままで。
ああ、でも、僕も滑りたくなってきた。
思い出した。昔手にしていた自由を。
見様見真似で会得したジャンプを。
幼い頃見いだした僕の可能性を。
僕の滑りを褒めそやすお前を。
なあ、もう一度、僕独りで、生きていけるかな。
クリスの手をそっと押しやり、僕は体重を少し前に掛けた。スピードを上げ、風を切る。クリスから離れ、夢中で足を動かす。もう迷わないで行きたい方向に動けることを確認した僕は、片足だけで滑ってみたり、重心を移動させて滑りがどう変わるかを試してみたりした。
うん、理解できた。もう怖くない。いける。
頬が上気する。体中が筋肉を主張して火照っている。パーカーを脱いで、腰に巻いた。
両手を拡げバランスを取りながら、一気に体を捻って。
氷を蹴った。
「やばっ」
思ったより高く跳んでしまい、回転もかかり、どう着地すれば良いのか分からなくなる。とりあえず右足で氷を掴んで、左足でカバーしようと咄嗟に決めた。着氷、衝撃を殺して、左足。回転をいなして、そうだ、いっそこっちに曲がってしまおう。右足が更にフォロー。ふう、なんとか立て直せた。
僕は安心してちょっと気が抜け、そのまま減速して腹までの高さのリンクサイドに突っ込んで体を預けた。
なんで、跳びたいと思ったんだろう。
跳べそうだったから、跳んだのか。
まだ心臓がドキドキしている。結果的に怪我はしなかったけど、格好の良いジャンプではなかった。尻もちをついて泣きを見る可能性だってあった。
できた! という喜びと、もう二度とするもんかという自戒で、僕の心はぐるぐるしていた。このぐるぐるに決着をつけるのは。
「すっげー! リノ、今一回転半くらいしてたぞ!」
「ふ……そう? 二度とやらない……」
そうか、お前、僕が跳んだところ、ちゃんと見てたか。
なら、いい。僕はこの先二度と跳ばない。僕が跳んだところを見たのは、僕が跳べたことを知っているのは、お前だけだ。
「昔もジャンプ練習してたよねー! また練習したらいい線行くんじゃないか?」
「しない。お前に見せたかっただけ。お前が僕の隣からいなくなるんなら、もう意味無いし」
「……んな悲しいこと言うなよ」
「お前が言わせてんだろ……」
「なぁ、なんで恋人じゃ駄目なんだ」
「僕のシュミじゃないから」
「そう言う割に、リノは彼女作らないじゃん」
そう来たか……。確かにそれは、矛盾してるよな。
「……単に理想が高いだけだよ」
「そっかぁ……」
納得させてしまった。違わないけど、違うんだよ。僕の趣味がおかしくて、僕の理想は赦されなくて、それにお前を巻き込みたくないんだ。
言いたい、けどお前に引かれて嫌われるのが怖い。このまま秘密にして、可愛いリノちゃんとしてお前の欲望ばかりを満たすことも考えたけど、今のジャンプで分かった。僕はきっと、我慢ができなくなる。やりたい、やれそうだ、と思ったらやってしまう。僕はそういう人間なんだ。
だから、これが最初で最後のデート。
お前に良い夢を見させて、僕らの思い出にして、終わろうね。
「ね、クリス。一緒に滑ろ」
「いいよー」
手を繋いで滑り出す。二人だけの遊び場。追いかけたり、逃げたり、方向を突然変えて翻弄したり、押したり、引いたり、押されたり。
僕は声を上げて笑っていた。ああ楽しい。お前といる時間は、何をしていても、何もしていなくても、こんなに楽しいんだ。どうしてこれだけじゃいけない? 僕らがお互いに我慢して、我慢し続ければ、この楽しい時間はずっと守られる、のに。
クリスを突き飛ばしたはずが、体重が軽くてよろけたのは僕の方。体勢を戻せなくてそのまま背中から落ちる。だん、と腕を出して受け身を取ったけど、勢いの方は止まらなくて僕はそこから背中で少し滑走した。天井の純白のライトが眩しい。そんな明るくしなくても良いのにね。
「大丈夫か、リノ!」
クリスが駆け寄って僕のそばでぎゅっと止まり、大きな影が僕の上に落ちた。ひざまずいて僕の顔を覗き込む。
「……このクマ野郎、素直に押されろっつうの」
「俺が責められる要素あったー!?」
「ムカつく……」
僕はそう言ってクリスの首に両腕を回して起き上がり、
いけそうだな、と魔が差して、
クリスの分厚い唇にキスをした。
驚いて固まったクリスが、躊躇いがちに僕の背に腕を回す。
ああ、嬉しくて、泣きそうだ。
「……あったかい」
「リノ、めちゃくちゃ冷えてる……。そろそろ上がろうか」
クリスが顔を真っ赤にしながら僕を引っ張り上げて立たせる。ありがとうとか嬉しいとかいうコメントはクリスから出ない。当然だ、僕は悪い奴だ。趣味じゃないと言ってる口でキスをするなんて。冷静になった僕は突然冷や汗まみれになった。唇をギュッと結んでおかないと、寒くて震えそうだった。
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