第3話 2024/2/15 朝
起きたら天使が腕の中で眠っていたので、俺はいつものように金色のふわふわで良い匂いのする頭にキスをしてから、昨日俺がリノに対して言い放ったことば達を反芻していた。
……リノ、かなり動揺してたよな。家に来るなと言ったのが駄目だっただろうか。
リノは父親と折り合いが悪い。悪い父親というわけじゃない、むしろとても愛されているんだけど、有名人を親に持つと、家すら落ち着かない場所になる。特にリノは目立つから、もうとっくに独立した俺の親父、つまり年の離れた上の兄弟達と違って絶賛世間の興味の対象だ。小学生の時は学校にまで取材がついてきたこともあった。それもあって、リノの父親、つまり俺の祖父さんは、リノが俺の家に入り浸っているのを容認している。
でも、もうリノも高校生だ。俺のように、独り暮らしくらい許して貰えるだろう。まあ、独りで生きていけるだけの生活能力がリノにあるかと聞かれたら、……厳しいものがあるとは思うけど。
それならそれで、例えばモルガンの叔父貴んとこに転がり込むとか、色々助けてもらえそうなアテはあるのだ。俺達は恵まれてる。選択肢がいくらでも用意されている。その中で俺を選んでいるのは、リノが、俺のことを好きな証拠だった。
……この、好きが、俺の好きと同じであれば良かったのに。
俺に彼女が出来たと報告した時は憎らしいほど平気そうにしていた。リノが動揺したのは、家を追い出されると知った時だ。実際のところ、追い出すつもりはあまりなかった。ただ、リノにもう少し俺のことで心を動かしてほしかったんだ。それはもう、馬鹿な俺の執着でしかなくて、俺も俺で淋しいとも思ってしまっている。
でも、このままずっと一緒にいたら、俺達の関係はきっとこのままだ。このまま、リノに対して俺だけが、汚い欲望を圧し殺して接することになる。リノにももう気付かれてるし、応える気はないと明言されているから、きっと本当に何も変わりっこない。
そんなのは、無理だ。
今はまだ耐えられているけど、もっと体が大人になって、酒も飲めるようになって、もっとどうしようもなく獣になってしまったら、俺はきっとリノに手を出してしまう。リノのことを傷付けてしまう。リノは繊細な奴だ。体も、心も、綺麗なガラス細工のように華奢なままだ。俺が無理に押さえつけるときっと折れてしまう。俺の愛した峻烈で美しい獣が、壊れてしまう。
今がちょうど良い、潮時なんだ。
恐らくインカーは聡い。だから自分に近づく人間に下心があると無意識に深く関わらないように壁を作ってしまうのだろう。人当たり良く付き合いながら、失望を繰り返していたということか。その点俺は幸か不幸か、ずっとリノにぞっこんだったから、インカーとは何の
でも、もう間違えたくない。
俺のことなど特別じゃないと言うリノ。
本命だと言ってくれたインカー。
迷う方がどうかしてるんだよ、クリス。
そうだろ。
そうだよ。
お前は人並みに幸せになりたいと願っている。
それなら、僕のことは諦めろ。
「リノ……」
俺の心の中で、俺のリノが優しく諭す。妄想の中でさえ一度も愛を囁いてくれなかったリノは、今日も夢を見させてはくれなかった。
起き出して、テーブルを見る。昨日作っておいた夜食にも、リノは手を付けなかったようだ。仕方なくそれを食べながら朝飯を準備する。リノはベーコンの焼ける匂いでしか起きてこないのだ。
冷凍室で保存しているネットで買った冷凍ロールパンの大袋から三切れ取り出す。リノ、俺、俺の順でトースターで温める。その間にフライパンでベーコンを炒りつつ、今日は卵をどうするか考える。あ、昨日の晩俺しか食べなかったから残り三つだ。全部入れてスクランブルエッグにしてしまおう。
もそり、とリノの動く気配。リノは、朝はいつも幽鬼のようだ。しばらく寝返りを打った後観念したのかふらふらと立ち上がり、台所に水を飲みに来る。
「……何でいつも通りなんだよ、お前」
そう言って睨みつけてくるリノの目は赤かった。
「泣いてたのか」
「……。悪い?」
「いや……ごめんな」
「適当に謝んないでくれる? 不愉快」
「ごめ」
ん、と言い切る前にリノの右足に足の甲を狙われる。寝起きのリノに踏まれるほど俺の運動神経は鈍くないのだが。
「クッソむかつく」
「リノにしては珍しく朝から血巡ってんじゃん」
「なに、喧嘩別れしたいの?」
「んなわけないだろー! もうすぐ出来るから座っててー、あさはん食べてから話ししよ」
「……目玉焼きがいい」
「この段階で無茶言うなよ……」
呆れて思わずリノの顔を見る。おおかた困らせようと言ったのだろうけど、どこか心ここにあらずという感じだった。
「……ぐちゃぐちゃになる前の状態に戻せる魔法があったら良いのにね」
「……ねえよ」
「じゃあ、黄身と白身を分離させて目玉焼きっぽい形に直す機械」
「限定的過ぎるだろ……」
「そうかな。無理矢理形を思い通りに出来る技術があったらさぁ、……」
リノは途中で黙りこくってしまった。いつものように、思索に夢中になったのだろう。俺はその間にスクランブルエッグを完成させ、ベーコンと一緒に二枚の皿に盛り、ミニトマトを洗って添え、焼いたパンを乗せた。
「リノ、食うぞ」
「……ん」
今日は学校はサボりの予定だ。でも、朝のルーチンは崩さない。健康的な思考は、健康的な生活から生まれる。これは親父の受け売りなんだけど。
このくらいの朝飯なら俺は一瞬で片付けてしまうので、冷凍の白飯をチンしておかわりする。その間、リノはぼーっと食べ物を口に運んでいた。まあ、何も思わないわけじゃないが、食べてくれているだけで良しとしよう。
……うん、その、あれだ。別れることが決まってるカップル、みたいな。そんな空気感。いや、体験したことあるわけじゃないけど。一番近いのは母方の祖母さんの葬式の朝、かな。あの時も、こんな感じだった。
「……リノ。トマトのヘタから二個目は生えない」
リノが食べ終わり、ミニトマトのヘタをくるくると弄っていたので俺は軽く注意した。
「……もう無いの?」
「ん? いや、洗えばあるよー。欲しい?」
「違う、トマトじゃなくて……」
リノはそこで言葉を切り、目を泳がせた。俺はリノの思考を邪魔しないように黙って様子を伺う。やがて頬杖ついてそっぽを向きながら溜息を長々と吐き出し、横目で俺の方を見てきた。
「……もう、僕の居場所って、無いの?」
「……っ、リノ……」
お前はいつもそうだ、
そうやって俺から理性を剥がしていく。
俺はその度にお前に狂わされてきた。
それでも良いと思っていた。
俺の大切な天使が嬉しそうな顔をしてくれるなら、
俺の気持ちなんて些細なことだった。
「……居場所が無いわけないだろ。俺がお前のこと諦めるだけだよ。お前は今まで通りでいい。俺が変わる。それだけだ」
「……ふぅん? じゃあ、彼女が来てもここに居て良いんだ?」
「それは……遠慮しろよ、流石に。友達ならさ」
「あは、そりゃそうだよね。……。もう来んなって言ったのは?」
「来たら、追い出す。俺の中で何か踏ん切りみたいなのがつくまでな。俺がインカーのことちゃんと特別に思えるようになって、お前のことただの友達だって思えるようになったら、別に遊びに来るのは大丈夫」
それは多分、強がりだった。俺はリノを手放すことなんか絶対にしたくないのだ。友達として割り切って付き合えるようになるというのは、未来の俺への無茶振りだった。そんな俺の浅ましさを見透かしてか、リノがフンと鼻で笑う。
「馬鹿じゃねえの……ま、いいや。そーいうことなら、僕来月留学するから」
「へー、そうなん……留学!!?」
「先生から誘われてたんだよね、迷いながら準備だけはしてたんだけど。丁度良い」
「き、聞いてねえよ……いつまで?」
「二ヶ月」
「短いな!?」
「うち進学校だから、成績に影響出るレベルで空けさせたくないんじゃない?」
「そういうもん……?」
「成績上位者しか行けないらしいし。多少授業受けなくても追いつけるようにってことだろうね」
「流石リノちゃん……東大理三の男……」
「勝手に僕の将来決めつけないでもらえる? 不愉快」
無理とか言って怒るんじゃなくて選択肢が狭まることを怒るあたり、当然の如く「あり」なんだろうな。俺は改めてこの小さくて可愛らしい叔父を眺めた。生きる世界が違うとは、このことだ。
「……良いね、留学。応援してる」
「別に応援してもらう必要無い。二ヶ月遊んでくる……いや、知見を広めてくるだけ」
「どこ行くの?」
「最初はNY。暫くそこで観光してから、ヴァージニアの姉妹校にお邪魔するんだって」
「面白そう……いいなー!」
「だからせいぜい彼女……インカーっての? その子と仲良くなってなよ。僕も可愛い女の子引っ掛けてくるから」
「俺は遊びじゃねーから!」
「あっそ、どーでもいい」
ホントにこいつ、夜中泣き腫らしたのか? 今のリノは悔しいくらい普段通りのリノだ。俺のこと馬鹿にして、突き放して、都合の良い時だけ甘えてくる、魔性の天使。
「……なあ、こんなにあっさり受け入れるんなら、なんで俺今日学校休まされたの」
「決まってんじゃん。彼女への嫌がらせだよ」
「お前なー!!」
憤る俺を見てケタケタとリノが笑う。
「あと、試してみたいこともあってね」
「何だよ……」
「今日一日、お前と恋人みたいにイチャイチャしてみようと思って」
「ハァ!!?」
「デートしよーぜ。勿論体のアレは無しだけど。もしかしたら僕の気が変わるかもしれないし? クリスも最後の思い出にはいーんじゃない?」
「リノ、リノちゃん……」
それは願ってもない展開なんだけど。
今更リノの気が変わって俺と恋人になってみようかななんて思われても、困るんだけど。
まあ、きっと、そんなことにはならないのだろう。
本気で最後の思い出作りに協力してくれようとしているだけだ。
デートの最後に、「うん、試してみたけどやっぱ無理だったわ。彼女と仲良くね」なんて言われるオチしか見えない。
それでも、俺は。
「……行こう、最初で最後のデート。お前の気が狂うくらい最高にカッコいい俺を見せてやんよ」
どうにもリノの前では、格好がつかないのだった。
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僕らの壊せない三角 千艸(ちぐさ) @e_chigusa
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