第2話 2024/2/14 夜〜未明

「へへー、実は彼女ができましたー!」


 僕がクリスのアパート部屋にいつものように上がり込んで勝手に冷蔵庫から茶を汲んでいる時に背後からそんなこと言われたものだから、危うく盛りこぼすところだった。


「彼女? 興味あったの、お前」

「あるに決まってるだろー!」

「僕のケツばっか狙ってるから女が好きじゃないのかと思ってた」

「酷くない? 俺がいつリノに手出したよ」

「出せなかっただけだろ」

「バレてらぁ……」


 勿論。お前が僕に惚れてるのは分かってる。最近じゃそれに性的な興味が含まれてることも……。

 キモいなとは思ってるけど、悪い気はしなかった。独りでいれば十分カッコよくて性格もいいクリスが、僕に入れ込んでるばっかりに青春を損してるのは、正直勿体ないけど嬉しくもある。

 こいつは僕が天才可愛い天使のリノちゃんだと思い込んでいる。僕の中身が本当はどれほど醜くて赦されないかなんて知りっこない。それは、僕がそう見えるように仕向けているからだ。

 ……でも、そうか。潮時か。


「ま、良かったじゃん。おめでと」

「え、素直……」

「は? なに、僕が嫉妬でもすると思ったわけ?」

「正直ちょっと期待してた」

「歪んでんね、お前」

「リノほどじゃないと思うけどなー」

「僕のどこが歪んでんだよ」

「俺のこと好きなくせに興味無さそうな態度で通すとこ」

「お前の好きと僕の好きは違うんだよ、お前は良いダチだけど、そういうのには興味無い。彼女とでもやってろ」

「俺が誰かと付き合うの平気なのか……」

「お前何様のつもりだったんだよ……」


 平気なわけない。この話題を続けているだけで無性にイライラする。クリスを射止めた女にじゃない、嫌だ、クリスは僕のものだと主張する自分の欲望に対してだ。

 クリスは僕のものにしちゃいけない。僕はこのまま大切な人とは付き合わず、大切な人を傷付けずに生きていく。


 僕が好きなものは傷。血。悲鳴。涙。命の震え。恐怖する瞳。苦痛に歪んだ顔。


 ほらね。

 大切な人に向けていい好意じゃない。

 僕はクリスにだけは手を出しちゃいけないんだ。


「いや良かった。リノがうわー僕のクリスを盗るな! って騒いだらどうしようかと思った」


 僕はその言い草を鼻で笑った。内心一部騒いでるけど大丈夫、お前のために僕が抑えつけといてやるから。


「でもそもそも、僕から離れらんないでしょ、お前」

「えっ、いや、さすがに駄目でしょ浮気は。だからリノのことは諦める。家にももう来ないでほしい」


 さすがに息が詰まった。性急、過ぎないか。僕の気持ちを整理する時間とか、さぁ。情けとか、さぁ。


「……それは聞いてない」

「だってリノがいると俺、駄目なんだよ。お前のことが好きすぎて何もかも捨ててしまいそうになる。そんな奴が彼女作ったら、不誠実だろ」

「作ってから言うなよ……」

「それは、そうなんだけど。今日できるとは思ってなくて……返事はホワイトデーでいいって言ったのに……」

「あ? なに、お前からコクったの?」

「そー」


 へぇ。クリスからとは意外だ。本当に、僕じゃなくても良かったんだな、お前。あれ? ちょっと、無理かも。待って。良くないな、これ。僕、僕は、今どんな顔をしてる?


「……おやすみ」

「えっ、もう寝るの!? メシは?」

「こんな気分で食えるわけないだろ。お前僕を甘やかすのもいい加減にしろ」

「え……あ、そうか……もう来んなっつったの俺か」

「悪いけどそれは今返事できない。寝させて。……僕のために明日ガッコ休める?」

「一日くらい、平気」

「じゃ、明日話そう。僕今日は気持ちの押し売りばっかで疲れたんだ、マジでバレンタインなんて下らねぇイベント滅べば良いのに」


 クリスのベッドに何の断りもなく入る。この場所が、明日からは知らない女に取られるわけか。いや、キッツ……。


「……リノ」

「何」


 横になったまま背中で返事する。顔を見たくなかった。


「リノにあげるチョコ、作っといたんだけど」

「お前自分が何してんのか分かってんの!? そんなにバカなの!?」


 そのまま寝入ってしまおうと思っていたのに、あまりの支離滅裂さに思わず起き上がってクリスにキレてしまった。クリスは僕が起き上がったので嬉しそうな顔をする。飼い主の気持ちなんか理解せずに遊んでもらえると喜ぶアホ犬のようだ。


「だってさー! 昨日まではリノ一筋だったしさー! 勿体ないじゃんせっかくリノのために作ったのに。それにこの気持ち自体は、変わってないし」


 そんな、都合のいい、言葉に、

 ……泣きそうになるな、リノ・ライノ。


「……明日貰う。今日はもう寝させて」

「分かった、ごめんな、リノ」

「……」

「……おやすみ」

「……ん」


 そうして僕は、自分をシャットダウンした。




 ……当然といえば、当然なんだけど。

 夜中、何時? まだ一時かよ。こんな時間にすっかりすっきり起きてしまった。クリスはテーブルに僕が起きたら食べられるようにおにぎりをラップして置いてくれていた。食べる気は、起こらなかった。

 いつものように、クリスはベッドの下に布団を敷いて寝ている。なんでこいつ、こんなに僕のことが好きなまま、他の女を選ぶことができるんだろう。なんで一番好きな相手を諦めて、手近な幸せを選べるんだろう。僕が同じこと出来ればどれだけ気が楽か……。

 クソ、最悪の寝覚めだ。


「……クリス」


 そっと声を掛ける。起こしたくはないけど、呼びたくなった。

 お前の名前をこんな風に呼べるのも、今夜限りなのか。


「クリス……」


 お前のことが好きだ。離れたくない。でも、それだとお前を不幸にしてしまう。

 どうしたらいい? そんなこと、分かりきってる。お前から言われるまでもない。僕が悪いんだ。生きてて、ごめんなさい。

 離れたくない、まだクリスに気持ちがあるって知ってるのに離れるなんて出来ない。僕はそんなに強い奴じゃない。お前とは違う。


「僕のこと嫌いって、言ってくれよ……クリス……」


 ベッドを降りて、クリスの隣に寝そべる。成長期の大きな手を取り僕の頬に添える。温かい。外は真冬、冷たい風の音がする。クリスの傍は温かいけれど、僕は明日、あの中に放り出される。


「クリス、僕……お前のためなら何でもするよ。お前のためだから、明日はちゃんと別れてやる。お前のためにお前を我慢し続けた僕だもの、そのくらい今更なんてことない。」


 そう口にして、自分に暗示を掛ける。明言しないと雪のように消えて無くなりそうな、儚い決意だった。


「だから、今晩だけは隣にいさせて。お前に嫌われる勇気すら出ないんだよ。時間も無いのに、そんなことで無駄にしたくないんだ。少しでも長くお前に触れてたい。好きだよ……こんな、こんなこと……なんで今しか言えないんだろうな……」


 小説とか映画なら、ご都合主義のようにクリスが起きてきて、やっぱりリノが良い、お前しか考えられない、なんて言って。

 僕のことを抱き締めてくれて。

 今なら僕も、素直に受け止められて。

 僕らは愛を確かめ合った、という流れになるんだろうけど。

 ──僕らはもうちょい、カッコ悪かった。


 クリスは健やかに寝息を立てている。気付くと僕は嗚咽を漏らしていた。

 悔しいな……。

 どうして僕は普通じゃないのだろう。

 どうしてクリスを諦めないといけないのだろう。

 もしあと十年クリスが待っていてくれたら、僕は医者になってこの血を求める本能にケリをつけるつもりでいた。でも、あと十年はさすがに長過ぎる。だから僕はこいつに気を持たせるようなことは避けてきた。そう……これが正解なのだ。僕が想定した通りの結末なのだ。

 分かってる、そんなことは。

 それが良いって信じてきたんだ、今日まで、ずっと。

 僕がクリスを傷付けることの怖さに比べたら、僕が傷付くなんて些細なことだと思っていた。

 いや、些細なことだ。僕が流してるこの涙は、僕がこの先独りで生きるための塗り薬だ。どうしようもないと諦めがつくまで泣き続けて良い。

 クリスの手を僕の肩にやり、僕は懐に潜り込んだ。同い年、同じ五月生まれなのに僕より十センチも大きな体に身を預ける。僕から抱きつくなんて記憶にある限り一度もない。いや、一度だけあったか?

 同じ中学に進学が決まった時。僕は嬉しくてこいつに飛びついた。こいつはポカンと掲示板を見ていて飲み込めていないようだったが、僕に飛びつかれて実感が湧いたのか次の瞬間には僕を抱き返してくれた。

 あの中学は中高一貫の男子校で、大学進学の成績は良かったけど内情はクソだった。僕は気色の悪い教師どもから逃れるために別の高校を受験するハメになった。クリスはよせばいいのに僕に付き合って高校受験をし、そして見事に落ちたのだった。

 あのままあの学校に残っていれば、彼女なんか出来なかったのかな……。いや、でもどうせ大学に入れば同じだ。僕は男で、こいつは叶わぬ恋をしていると思い込んでいて、僕もそれに合わせざるを得なくて。こいつはカッコいいから、僕さえいなければそりゃもうモテるんだろう。

 お前の好きは僕の好きとは違う。

 お前はこの言葉を、僕がお前のことを友人としてしか見ていないと言ってるように受け取っているのだろう。

 それで良い。

 僕だって、そうであったら良いと願ってやまない。

 ……僕の好きは、もっとくらくて、苛烈な。

 お前を泣かせたい、苦しめたい、カッコいい顔を台無しにしたい、一生消えない傷をつけたい、首を絞めてみたい。死の恐怖に震え本能に突き落とされて野獣のようになったお前に、死物狂いで無茶苦茶に抱かれたい。どこまでお前を追い詰めれば本気で僕に手を出してくるか、そんな妄想ばかりしている。お前は恐怖の中で尚も折れない強い男だと思うから。僕から与える痛みも苦しみも全部受け止めて愛してほしいと思うから。


 だから、だからこそ、僕はお前を諦めないといけないんだ。

 こんな思い、赦されない。


「大好き……クリス……」


 何度も何度も囁きながら、僕は再び眠りに落ちた。

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