1章17話: いずれ、私がかみさまに辿り着くために

 夢を見ていた。

 小さな沼に向かって叫び、苦しそうに嗚咽する夢。

 夢、なのだろうか。

 それにしてはやけに鮮明で、それでも僕はこんな経験をしたことはない。

 セピア色の世界でただただ泣き叫ぶ。こんな場所知らないのに。こんな感情も……ああ、いや、ついさっき味わったな。今はこの人の気持ちがわかる。失うのは辛いし、悲しいのも辛い。何も出来ないのはもっともっと辛い。

 沼の水面に映った顔を見てようやく気づく。


 僕だ。


 こんな記憶はない。けれどもその顔たちは確かに今の僕だった。大切なものを失って辛いその表情には怨嗟も混じっている。けれどそれ以上に、




「次は絶対、助けるーーーー」




 ああ、やっぱり、この人は僕と同じなんだ。


◇◆◇


 草木の香りで目が覚める。

 直感でわかった。僕は今、樹海にいる。


「なん、で……」


 最期の瞬間を僕は確かに覚えている。炎と樹の海がぶつかる世界で、彼女は僕に口付けして言ったのだ。




 ーー私を、見つけて。




 あの時の甘い味と共に、楔の如く打ち込まれた件の言葉が浮かんでくる。そしてクリアになる頭に、なんとなく今の状況に対する最適解が浮かび上がってくる。

 泣きたいくらい辛い。

 叫び出したいくらい辛い。

 吐きそうなくらい辛い。

 それなのに、僕の体は何故か辿り慣れた道へと進んでいく。まるでそうすることが本能的に刻み込まれているかのように。


「行かなきゃ、行かなきゃ」


 そう譫言(うわごと)のように呟く。

 "其処(そこ)"に着くのに時間は掛からなかった。

合計約8ヶ月に渡って生活拠点となっていた其処(そこ)は、僕にとって本当の家と呼べる場所となっていた。

 古めかしい階段を登り、見慣れた本殿が顔を出す。石灯籠と狛犬を通り過ぎて、月の光が集まる石畳にて歩みを止める。

 あの日、満月に照らされて神々しく輝く彼女が立っていた舞台に、僕は1人で立っていた。

 そして、不意に口が動き出す。僕の全く意図しない形で。


「あ、あははは、あはははははは、はは、なにこれ、おかしい、なんか、おかしい、あは、あはははははは!」


 自分が自分じゃないみたいだった。僕の中に知らない誰かが棲みついている感覚。

 おかしい。

 おかしい。

 おかしい。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。


 なんとか気を鎮めなくてはならない。そう思って神社に歩を進める。

 とにかく誰かに会いたい。僕が僕でいるために、誰か、たとえば、かみさま……。


「ぁぁぐっ、なに、ごれ……」


 その言葉を思い浮かべた時、得体の知れない感覚に襲われる。吐き気が止まらない。

 嫌だ。誰か。誰か。


 社の中には誰もいなかった。

 社務所。誰もいない。

 お風呂場。誰もいない。

 本殿縁側。誰もいない。 

 寝所。誰もいない。

 台所。誰もいない。

 トイレ。誰もいない。


「誰カ、ネぇ、ヰないノ? あレ?」


 不意にスマホの灯りが漏れた。どうやら落としていたらしい。

 それを拾おうとして、僕は凍りついた。


『2015年4月10日(金)18:56』


 それは忘れもしないあの日。

 樹海に迷い込んだ日付を指し示していた。


「ハ? なん、デ……」


 壊れたのだろうか。とにかくスマホを拾わなくては。

 そう思ってしゃがみこむと、なんだかとてもしゃがみ辛いことに気づく。布が擦れて動き辛い。何が……。


「エ……」


 白い着物が視界に入る。動き辛いのは当然だ。こんな仰々しい、重苦しい着物を着て歩いているのだから。

 何故『私』はこんな重い着物を着ているのだろう。おかしいな、早ク、赤いお部屋に行かなくちゃ。おかしいな。おかしいナ。


 頭が重い。体も重い。足も重い。

 それでも『私』はかみさまが眠っていたというお部屋を目指した。あの大きなピアノがあるお部屋。いいよね、ピアノ。『私』、眠る時はピアノの音を聞いて眠りたいんだ。


 ピアノ部屋の戸を引く。


 大きなグランドピアノ。

 そのピアノ椅子に、いつも座っていた少女は今はいない。代わりに『私』はピアノに向かい合って立ち止まる。

 そして、ピアノに映り込んだ姿を見て、『私』は……。



「ぁ、ぇ? これ、『私』?」



 髪に真っ赤な彼岸花が滴り、身体中に呪詛の書かれた包帯が巻かれ、口や目が張り付いたような真っ黒い手が体を覆い、足元には無数の鳥居と卒塔婆。

 


 ーーあの時見た禍神(まがつかみ)とまるで同じ姿をした化け物がそこに立っていた。



「ぁ、ああ、なに、こ、レ」


 驚愕してピアノ椅子から立ち上がり、部屋を見渡す。

 誰もいないはずなのに、『私』には大勢の声が聞こえる。

 みな歓喜していた。喜びに打ち震え、ケタケタと笑う。やがてその周りに火が灯り、お祭りのようになっていった。

 黒いマネキン、真っ白い浮遊霊、ケタケタと笑うガラクタ、動き出す日本人形、飛び回る篝火。各々が楽しそうに『私』の周りを舞い始める。


「や、やだ、やだっ!」


 篝火を払い除けようとするが、篝火はそれを避けて更に嬉しそうに飛び回る。

 やがて彼らは口々に言葉を発し始めた。


「あな嬉しや。かみさま、かみさま。

 山の神さまが生きながらえておいででしたか。

 ああ、めでたい。実にめでたい。

 しかし此度の山の神さまは男子であらせられる。このようなことがあるのかね。

 山の神さまは女子のみがなれるのでは。

 前のお方の意図など図りかねる。だが我らが神はここに居る。

 かみさま、かみさま。我らのかみさま」

 

 かみ、さま? 

 違う。それはかみさまのことであって、『私』じゃない。

 ……『私』? 『私』って誰だ? 『私』は確か男の子で、ううん、女の子で、あれ? いや、違う。違う、やめて。私じゃない。私、僕、私は、だれ、だれ? だれ、だれだれだれだれだれだれ。

 助けて、かみさま。

 




 ーーほの囮。大丈夫。大丈夫だから。





 声がした。

 かみさまの声……とは少し違う気がする。小さい頃に聞いたようなそんな声が。

 ただ一つ、その優しい声を聞いた時、僕はゆっくりと瞼を落として眠りにつくのだった。


◇◆◇


 なんだろうこの感覚。寝て起きたら全てがスッキリしていた。

 さっきまで自我がぐっちゃぐちゃになる感覚がしていた筈なのに、今は明瞭に自分を保てている。


「僕は犀潟ほの囮、15歳、男、そんでもってかみさまの巫女……うん、多分何も間違っていないはず」


 流石に2度目の起床ともなれば頭も冷静になってくる。とはいえ、目の前の光景に慣れるのは当分先になるだろうけど。


 部屋の中はさっきより静かになってはいたけれど、部屋の外には篝火たちがふよふよと飛び回り、黒いモヤモヤの人影もこちらをじーっと見つめている。

 あれだけビビり倒していたのに、こちらをじっと見つめる彼らのことがなんとなく愛おしく思えてくるのは何故なのだろうか。


「思ったより冷静。もっと僕が犀潟ほの囮なら取り乱している気がするけど」


 口に出しながら、僕は部屋に飾ってあった姿見の前に立った。

 長い黒髪だったが何故か暗い紫色のインナーカラーが入っている。紫の瞳はより深い紫紺の瞳に。顔は、もう男性とは呼べないほど女性的な顔立ち。肌は病的なほど白く、しかし唇は艶やかなピンク色。なんとなく地雷っぽい感じを彷彿とさせる顔立ちの美少女が写っている。僕だけど。

 問題はここからだ。

 真っ白な着物、凄く高そうなやつ。これは所謂『白無垢(しろむく)』というやつだろう。なんか和装婚がどうのこうのと話題になっていたから知っている。

 まぁ、その上からぐるぐる巻きつけられた呪詛っぽい文字が書かれた包帯や、髪に付けられた真っ赤な彼岸花、あと篝火なんかのせいで色々と台無しなんだけどな。『ハレ』の『ハの字』すら無さそうな不吉も不吉、超不吉装備である。

 これらの不吉装備と足元の鳥居や卒塔婆、そしてかみさまのあの言葉。


 ーーごめんね。醜いかな? あはは。でもこれが私。そして、これから君が成るもの。


 それを思い出せば、現状に関して概ねの結論が導き出せる。


 

「僕が山の神に成った……そういうこと?」



 あの時かみさまが見せた『神』としての様相は、今の僕とまるっきり同じものだった。それ即ち、僕がニンゲンではなくなったことを意味している。


「人間が神になることなんて……そんな、こと……」


 ないと言い切れるだろうか。

 されど人は古来より祖霊を神と崇めてきた事例がある。それを考えれば人が神になるなど珍しくもない話だけど、それは偉人とかそういう人たちの話だ。

 僕はただの凡人。なればやはり"ただびと"が神になるのはおかしい。つまり、


「山の神の方に、秘密がある」


 疑問はまだある。

 僕はあの時、8ヶ月後の北湊にいた筈だ。けれど先ほどスマホを確認したら、4/10になっていた。再びスマホを確認。時刻は、『2015年4月10日(金)22:15』。これはやはり樹海に逃げ込んだ日だ。


 時間が巻き戻った? 

 どうして? 

 いや、こちらも答えは出ているか。


 ーー遅くないよ。私がゲーム盤をひっくり返す。


 これは、かみさまがゲーム盤をひっくり返した結果だ。すなわち、


「時間、遡行?」


 憎き敵:色恋の神のゲーム盤に例えるとするならば、そのゲームを強制的にリセットしてしまったような状態。そんなことが可能なのか? という疑問については、今はあまり考えない。

 それは外に出ればわかる。何故なら今が4/10ということは、つまり、


 ーーち囮が、生きてる可能性がある。


 あの日、病院でニコラ配下の手によって殺された妹が生きているかもしれない。なにより樹海の麓が滅んでいないから、北湊が滅んでいない。それ即ち町民が全員生きているということになる。

 それを確かめるには、一度山を降りなくてはならないが。


「その前に、この子達をなんとかしないと」


 なんだか戸惑いつつこちらを眺める幽霊達に目を向ける。

 先ほどの言葉を聞くに、多分この幽霊達は山の神の配下的なもので、就任式的なやつを祝いに来てくれていたのだろう。そう考えるとなんだか申し訳なくなってきた。

 かみさまと下山したあの時は黒いマネキンがウヨウヨしてることに衝撃を受けたものの、今こうして眺めているとやはり愛くるしい。篝火なんかもエロゲとかでよく見るまるまるお目目がついててキュートである。


「……おいで」


 無性に撫でたくなったので幽霊達を呼び寄せる。

 すると彼らは嬉しそうにこちらに近寄ってきた。そのうちの1匹、いかにもオバケですと言わんばかりの白いやつに恐る恐る触れてみると、なんと触れた。モチモチしてる。可愛い。

 篝火はあったかいし、黒いマネキンもなんか動きが可愛い。ガラクタに憑いてる奴らなんて付喪神っぽくて癒される。うん、悪くない。


「よし、ちょっとパーティーは延期。ついてきて」


 そう言い聞かせると彼らはこくりと頷き、僕のあとに付いてくる姿勢を見せた。

 鳥居をくぐると、その先の階段を篝火が照らしてくれていた。なんかこれいいな……。

 そこから15分ほど歩くと神社があり、その境内からは北湊が一望できる。そこからなら北湊の無事を確認できる。

 ただ後ろにヤバい数の幽霊を付き従えている状況は、側から見たら百鬼夜行なのでさっと見てさっと戻ろう。なんて思いながら、僕は神社の境内へと辿り着いた。


 果たして北湊はというと、樹海に呑み込まれている、なんてことはなく滅亡前の姿でそこにあった。

 微かに街の灯りが見える。時刻は23時に近かったが、それでもコンビニやビルの灯りが見えた。

 まだ確定じゃないけど、でも北湊は滅んでいない。それなら、やはりこれは……。ともかく安心はでき……………。





「…………………滅ぼしてやる………………」





 あれ、あれ?

 いま、僕は、なんて口走った?

 ホロボシテヤル? 滅ぼしてやる? なに、を?

 思わずうずくまる。

 この街を見ていたくなかった。ただただ気持ちが悪い。理由はわからないけれど、僕の心の中をある一つの感情が支配していた。


 それは北湊という街への飽くなき憎悪の感情だった。


「絶対に絶対に許さない!!! お前ら全員殺してやる!」「ねえさまを返せぇぇぇ! 大人はいつもそうだ、いつもいつもいつも自分たちの都合で子供を犠牲にするんだあああああ!!!」

「どうして私を殺すの? おかあさん」「貴様らのせいで何人死んだと思っておる!? そんなことの為に妾を神に捧げたところで、あやつらは返ってこない!!!」「いだいいだいいだいいだいぃぃぃ!」「まだ生きたいよぉぉ!」「この街の連中残らず根絶やしにしてやるッ! これが我らの痛みぞっ!」「皆殺し、あは、皆殺しだよ。何千年経ってもこの恨みは忘れない」


 濁流の如く思考が流れ込んできて、意識を刈り取られそうになる。思わずえずき、その場にうずくまった。


「が、はっ、げほっ、ごぼっ、ぉえ、おええぇ、がはっ、はっ、はっ……なに、ごれ、ちが、ぼくじゃ」


 呪いのように降り積もってきた感情に思わず嗚咽し、そして嘔吐する。

 違う、これは、僕の感情じゃない。だとしたら、これは誰の? まさか、山の神の?


「こんな、気持ち、知らない……。しりたくない」


 口元を拭い、呼吸を整える。

 そして、もう一度だけ街の方を見た。

 今度は吐き出さなかったけど、胸の中にとてつもない憎悪の感情が湧き上がるのが分かる。これが山の神の本能的な拒否反応なのだとしたら、

 


 ーーかみさまは、こんな重い感情を抱えて日々を過ごしていたというの?



 僕は馬鹿だ。大馬鹿だ。

 何も気づかずに全てをかみさまに押し付け、そして北湊の滅亡を達成させてしまった。ここまでの呪いを背負っていながら、僕に明るく接してくれていた彼女の内心は今となってはもうわからない。

 わからないんだよ、かみさま。

 どうしてあんなふうに笑えていたの?

 知らなきゃ。

 知って確かめなきゃ。

 どうすればいい? どうすれば。

 考えて考えて考えて。


 僕は……僕のやるべきことはただひとつだけだと分かった。


 そして同時に僕は、僕が壊れる音を聞いた。


◇◆◇


 神社に戻ってくるととても落ち着く。これこそまさに実家のような安心感。

 一息ついたところで準備をすることにした。   

 お風呂に入り、身支度を整え直し、メイクを施す。

 かみさまと街で遊んだ時にメイクも一通り覚えて自分で出来るようになってきたので、特に問題なくこの世のものではない程綺麗な少女の顔を作り上げることが出来た。


「あ、いい匂い」


 厨房を見ると執事服を着た黒いマネキンが料理を作ってくれていた。なんでかみさまの時は居なかったんだろうか。こんなに便利なのに。

 それを白いテンプレお化けが運んでいく。僕もそれを追いかけてピアノの部屋に入った。

 

 入浴中、身支度中、メイク中、僕はずっと考えていた。何がどうしてこうなったのか。今僕がどういう状況に置かれているのか。

 まず間違いなく、僕は『山の神』を継承した。幽霊達が見えること、彼らを付き従えていること、そしてこの冴え切った思考回路からそれは明白だ。僕はこんなに頭が良くはない。ここまで思考が回るのは異常なのだ。


 そしてトドメはあの憎悪。

 僕は北湊が嫌いだ。こんな街にいい思い出なんて殆どない。けど一方で街に対して激しい憎悪を抱いたこともない。

 しかし実際には街を見ただけで憎悪の感情に支配された。これは……『山の神』のもつ本能的な性質なのだろう。かみさまはこの憎悪を持ち続けたことで北湊を滅ぼした。ではこの憎悪の元は一体なんなのか。


「その記憶が、僕にはない」


 僕は山の神を継承した。

 けれど僕は山の神について何も知らない。その成り立ちも、その経過も、この憎悪の意味も。


 ーー巫女はね、神の後継者の意味もあるの。いずれ神に至ると人身御供(ひとみごくう)にされたのが『私』……ううん、『私たち』だった。


 ーー私は……きっとどこにでもいる女の子で、それはみんなも同じで……私たちは一人一人、ただのどこにでもいる女の子。

 

 あの時一言一言絶対に頭から漏らさぬように耳を傾けたかみさまの言葉が蘇る。 

 かみさまはどこにでもいる女の子で、そしてかみさま以外にも山の神になった子がいた。それこそ今の僕みたいに。

 ここから一つの推論が導き出される。


 あの時のかみさまもまた、『山の神』の本能に支配されて北湊を滅ぼしたのではないか。


 それなら辻褄が合う。

 いや、僕はきっとそうだと思いたいのだ。

 かみさまが、今僕が感じる抗いがたい憎悪に苛まれて北湊を滅ぼしたのだと、人々を殺戮したのだと、そう理由が欲しい。

 僕は心から彼女が邪神だったなんて思っていない。そうでなければ僕を助けてくれる筈なんてない。僕には助けられる程の価値などない。


「ありがと。ピアノ椅子、調節してくれたんだね」


 幽霊がピアノ椅子を調節し、上蓋を開けてくれていた。これでいつでも弾くことができる。

 僕は白無垢の姿のまま、ピアノ椅子に座った。

 白と黒の鍵盤がずらりと並び、ピアノは厳かなまま鎮座する。ゆっくりと、ピアノキーカバーをめくりあげる。


「多分このピアノ、弾かれるの久々なんだろうな」


 時間遡行前は毎日弾いてたからその感覚はないけれど、かみさまが居ない今、恐らくこのピアノが弾かれるのは70年ぶりとかそんな話になる。

 いや、70年前の山の神がほんとうにかみさまだったのかもわからない。


 だから知りたい。

 彼女はどんな人で、どんなものが好きで、どんなものが嫌いで、本当は何を望んでて、僕に何をして欲しくて僕を山の神にしたのか知りたい。

 鍵盤に手を置き、手を動かす。

 ベートーベン:ピアノ・ソナタ第14番 <月光> 第3楽章。かみさまが好んで弾いていた曲だ。  

 思い出せ。彼女はどのように指を動かしていたか。

 思い出せ。彼女はどのようにこの音を表現していたか。

 思い出せ。彼女はどのようにこの楽譜を読み取っていたか。

 曲を最後まで弾き終え、ふっと息を吐く。すると、室内からまばらな拍手の音が聞こえてきた。幽霊達がずっと聴き入っていたらしい。


「ありがとう」


 素直に嬉しい。

 今この時から、僕は紛れもなく山の神として彼らの神となった。その自覚もできた。そしてこれからやるべきことの道筋も立った。


 僕は知らなくてはならない。

 かつて北湊で何が起こっていたのか。

 今、北湊で何が起こっているのか。

 未来で何故あんなことになってしまうのか。

 そして、


 ーー私を、見つけて。


 貴方は誰なのか。

 貴方を見つける為にも僕は、貴方を継ぐ必要がある。継ぐってなんだ? そんなの決まってる。貴方がやろうとしたことを、僕もやればいいんだ。


 ーーじゃあ駄目だ、君はこの未来に来ちゃいけない。


 ーーだけど君なら、こんな未来に辿り着かないかもしれない。


 ーー君は君の幸せを見つけてね。


 ごめんなさい、かみさま。

 貴方の居ない未来に幸せなんてありません。だからその願いは叶えられません。

 僕はあなたを継承し、そして貴方の幸せを求めます。

 貴方の辿ろうとした道筋を辿り、そして、貴方のいる未来に辿り着きます。


「ねぇ、君たちの言う山の神って名前はあるの?」


 幽霊達に尋ねる。幽霊達は困惑しつつも、闇の中から各々口を開いた。


「ゆゆか様……」

「ゆゆかさま」

「ゆゆかさまぞ」

「我らが幽々火さま」


「ゆゆ、か……。それが、山の神を示す名前……?」


 山の神が代々受け継がれてきたものだとして、それを最初に形作ったものがいる。ならば僕はそれに則って名乗るのが礼儀というものだろう。

 苗字は……笹神。お婆ちゃんの実家の苗字で、かみさまが一度関係性を匂わせていた家系。きっとこの家に、かみさまの、ひいては山の神の秘密の一部がある筈だ。


「笹神(ささかみ) 幽々火ゆゆか。うん、うん、可愛い。可愛くて良い名前。僕は……私は……笹神幽々火。犀潟ほの囮にとってのかみさま! あは、あははは、あははははははははは!!!」


 感情が昂る。 

 気持ちが抑えられない。

 今この時、『僕』は犀潟ほの囮で『私』は笹神幽々火だ。


「私は北湊を滅ぼすよ! いずれ、私がかみさまに辿り着くために!」


 ピアノに反射する僕の顔は、かみさまと同じくらい邪悪な笑みを浮かべていたと思う。

 僕も同じだ。この街が嫌いで、それならいっそ完膚なきまでに滅ぼしてしまっていいって思ってる。

 いつか街ごと僕自身が壊れたその時、きっと僕はかみさまに会える。故に壊す、僕ごとすべて、本当に何もかもを。

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