夜明け前/『彼』の名は

 帝国領・名もなき砦。

 光の刺す前の一番暗い刻。静けさが包み込む回廊にキュルシャトは衛兵もつけずに佇む。


 普段は朝霧が地平に延びているが、今は露の翳りもない。

 全て、あの地鳴りが原因だとキュルシャトは理解する。

 不自然に拓かれ、微かな火の匂いが漂う樹海。黒い火炎の煙波が呑み込んだのを、キュルシャトは眺めていた。


 まるで伝説の一端だ。キュルシャトの頭に過ぎるのは物語の一片。

 誰もが知るおとぎ話。攫われた乙女を助けるために勇士が悪竜に挑むお話。

 その悪竜の息吹が如き、全てを焼き尽くす黒い火炎。

 それを炎を発現させたのは、敵方ではなく────


 何かが、着地をする音がした。

 振り向くと、黒い影が片膝を折る形で帰ってきていた。黒い外套は影と同化し、白い長髪が存在を顕にする。

「存外、遅かったな」とキュルシャトが言うと、『彼』は頷いた。


「しぶとい相手だった。だが戦果は上々。暫くは向こうも仕掛けてはこれまいよ」

「……何をした?」

「なに、少しばかりの歓談を」


 短く返す『彼』にキュルシャトは何も言わなかった。『彼』の言うことが本当なのは、視界にある光景が証明しているから。


「終わったことはもういい。今後の話をしようじゃないか」


 キュルシャトは訝しげに首を傾けた。「どういうことだ」と問う。


「興が乗った。おまえたちの戦に馳せ参じたい」

「……どういう風の吹き回しだ」

「戦う理由ができた。他は気の向くまま、風の向くままという奴だ」


 明らかにはぐらかした回答。しかし追求する気はない。

 この悪魔が帝国側に回れば、形勢を覆すことができる。

 たとえそれが悪魔の契約だろうと、後の不幸も織り込んで頷くだろう。

 己が身が焼き爛れて、地獄の窯に落ちることになっても。


 その時は己だけではなく、目の前の悪魔と共に落ちてやる、と決めている。


「──いいのだな?」とキュルシャトは問うた。

「如何様にも」と『彼』は答える。


「おまえの手足となり敵を葬り、おまえの狗となって戦場を駆けよう。全ては皇帝の望むままに」


 片膝をつき、恭しく首を垂れる。それが如何に芝居がかっていて無礼千万だとしても、断罪されることはない。

 ならば、と皇帝は最初の勅命を下す。


「これは最初の命令だ。────この戦が終わるまで、娘に近づくな」

「ご随意に、皇帝陛下」


 呆気なく了承され、歯切れの悪さを感じるキュルシャト。

 彼はまだ知らない。もう既に種は撒かれたことを。


「他に無ければ、寝床に戻らせていただく。もう朝が近いのでね」


 立ち上がり戻ろうとする『彼』をキュルシャトは静止する。


「待て。貴様、名を何という」


 後ろを向こうとした体が止まる。『彼』は振り返り口を開く。


「名など無い。以前は伯爵、もしくは将軍と呼ばれていた」


 言葉にして逡巡する。そこでちょっとした思いつきを閃いた。

 四百年と余年の月日、元の名を棄てた『彼』に名前など無い。不便などないと『彼』自身思っていたことだ。

 だが。一つ考えていたものがあった。

 元の世界で終ぞ言うことの無かった名前が、一つだけある。

 それは借り物に過ぎず時代遅れだが。

 名乗るなら、これ以上にふさわしいものはない。


「違うな。名が無いのなら、名乗ればいいのだ」


 故に、無名である『彼』は自身をこう名乗る。


「私の名は────ドラキュラDracula


 名を告げた『彼』……ドラキュラは続ける。

 夜明け前の一番暗い刻に、初めての産声を。


「竜の息子である」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Re/D アナザーワールド・ヴァンパイア 秋竹芥子 @Akitake2774

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ