竜の孤城Ⅱ/相克

 静寂の広間で、「下がれ」と短い命令だけが通る。

 兵士たちは槍の矛先を『彼』に向けながらも、少しずつ後退していく。

 人の波が引き、二人の狭間にある者はいない。


 城主は玉座の前に立ち、同じ顔を持つ『彼』を見据える。

 温もりを失った冷徹な瞳が、諧謔の笑みを浮かべる『彼』に注がれる。


「再びお目にかかれて光栄だ、我が君主ヴォエヴォダ。このような異地でも会えるとは、宿縁とは恐ろしい」


 かつての君主……ヴラドは視線を下げて口を開けた。


「その身なり、本当に人になったつもりか。よ」

「時も経てば世相も私も変わる。名もだったが、そう呼ばれるのはむず痒い」

「……完膚なきまでに葬ったつもりだが、殺すだけでは足りなかったか」


 言葉を無視し、ヴラドは言う。『彼』も応じる。


「死んださ。あの丘で抹消され抹殺され、全ての咎をあなたが背負い、私は殺された。完膚なきまでに」

 しかし、と『彼』は言う。


。私は生きている。彷徨の果てに死に、今再び宿敵あなたの前にいる」


 緊張が走る。兵士たちは知らず慄き、身を引いている。

 二人を隔てるものはない。だが言葉の中に、決定的な断絶がある。

 決して交わることのない、此岸と彼岸の断崖が二人の間に存在する。


「……なら問おう将軍。四百年の流浪に何を得た」


 ヴラドは『彼』に問うた。『彼』も応える。何度も繰り返した問答を。


。幾年を経ようと、望んだ解は得られず」

何故なにゆえに永らえる」

。幾年を重ねようと着かぬ願いに至るため」

「最後に、何を望む」

「愚問なり。この身に魂が宿るなら


 単純な願い。誰もが本心の底から願う生存欲求。

 その答えにヴラドは、瞳を閉じる。


「……変わらんな。愚かな造物主プロメテウスどもが創りし落とし子よ。破滅的で独りよがりの願いを持つ、哀れなことだ」


 刹那。

 音が鳴った時には、既に遅かった。


『彼』が音を超える速さで、ヴラドの喉元に己が手刀が迫る。

 閃光が瞬く。王座を中心に円陣が輝く。

 壁のようなものが『彼』の手刀を弾き返す。貫手は喉首を裂くことはなく、焼き爛れた右手のみが『彼』に残った。


「ギッ────!」

「無駄だ。この世界の術式はおまえにも通用する」


 城主が動く。大きく、けれど無駄のない動作で十字の槍を構える。

 一切の躊躇なく、ヴラドは『彼』を突き刺した。

 胸の中心。心の臓腑を鉄の槍が穿つ。

 苦痛の叫びも血を出さない『彼』に、ヴラドは言う。


「彷徨を経て、一度の死を経て、二度の生を経ても尚、おまえの願いは叶わない。。夜に産まれし化物、偽りのアダム。おまえの征く道は地獄そのもので、地獄がおまえを呼び寄せる」


 冷酷な串刺し公が、槍を上げる。槍と共に徐々に、天に掲げられていく。

 串刺しにされた罪人のように。断罪された異教徒のように。

 神の供物かのように。


「受け入れろ吸血鬼ノスフェラトゥ。塵に還れ。姿


 拒絶の言葉を言い放ったヴラドの手に、血が流れてくる。『彼』の胸から生じ槍に絡まる黒い血。

 静寂に包まれた主人の間に、血の落ちる音が天に届く。


 否。

 否、否、否。否である。


 たった一つ、たった一人の笑い声が、空間を震わせる。

 地獄の底を歩く旅人の、狂乱した声が。


「本来在るべき姿? 棺に押し込められ、暗い土の中で眠る伝説になれ、と?」


 くつくつと笑う。白い髪が揺れて、顔を隠している。

 ヴラドは見る。

 垂れた髪の奥底で楽しそうに笑みを浮かべる『彼』を。


「死んでも、お断りだね」


 言い放った、直後だった。

『彼』の肉体が、破裂したのは。


 内側から大きく膨らんで引き裂かれる。血が飛び散り黒い血が広間を覆う。

 だが血が床に落ちることはなかった。

 気がつくと目の前には、空間を埋め尽くすほどの蝙蝠が飛び交っていたのだ。


 空間を黒が塗り潰す。兵士たちは平静を失い、ヴラドは己が右手に目を写した。

『彼』の血に濡れた右手に、意識を向ける。

 濡れた右手は、何も変化はなかった。


「相変わらず抜目ない。そこが弱点でもある」


 どこから発せられたか分からない声が響き渡る。

 ヴラドは視軸を広間に戻した。既に飛び交った蝙蝠たちの影すらなく、悪い夢から覚めたような静けさだけがあった。

 兵士たちが周囲を見渡す中、声が再び聞こえてくる。


「此度はここまでにしよう。再会を血で濡らしたくはない」


 広間の壊れた窓に目を向ける。雲一つない夜空には、点々と黒い影が飛び交っている。


「さようなら君主。今生こそ、私は願いを成就させる」


 その言葉を最後に、声は無くなった。同時に広間を支配していた威圧感も。

 脱力する兵士たちを隊長が叱咤する。追え、と怒鳴る隊長に従う兵士たち。


 一人、ヴラドのみが広間に残る。

 己の右手に濡れた血を見つめ、握り潰すように拳を作った。


「……たった一人を求めるために、おまえは皆を地獄に落とす気なのだな」


 ヴラドは忌々しげに呟く。


「そんなにも恋しいか、魔王よ」

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