妖火の樹海Ⅰ/屍律師

 帝国領国境付近・泣き女の樹海


 鬱蒼と広がる樹海の最奥では、空模様の変化すら掴めない。

 樹立した木々から伸びる枝葉が覆い被さり、自然の天蓋を作り出しているせいで、昼夜問わず天空を満足に見上げることはできない。加えて高く広がる木々は陽光を我が物にして、地表にその恩恵を僅かでも与えない。そのせいで新芽の発育は遅く、雨でも降れば土の泥濘ぬかるみは数日取れない。この前に大雨が通り過ぎたばかりで、ずんぐりと重くなる湿気が森全体を包み込んでいた。


 逆に言えば、隠れ潜むには十分は場所だった。

 柔らかくなった土を踏む。泥濘に足を取られないよう用心は必要だが、大闊歩しても音が鳴らずに巡ずることができた。


 森の中を歩く男二人の身姿は、兵士とは思えない出立ちだった。

 目元だけが露わな白い頭巾。穢れを知らない純白の衣を全身に被っている。帝国の戦士たちよりも軽装だが、趣きが異なる。

 純白の衣には、戦闘という概念が想定されていない。その下にも、刃を防ぐ鎖帷子を仕込んでいない。


 彼らに自ら戦うという概念は無い。必要が無いからだ。

 何せ彼らは戦士でも兵士でもなく、魔を操る術師なのだから。


 森の枝葉を慎重に掻き分けると、開けた場所に足がついた。

 天然が作り上げた森の中にそぐわない、人の手で作られた天幕。そこには二人と同じ服に身を包む人間が数人いた。


 鼻腔を擽る香りがする。

 柔らかく甘い、陶酔を覚えるような馥郁。

 青臭さが生い茂る森林には似合わない、宮のこうの匂い。


 木々に吊るされ揺れる洋燈状の香炉が、芳醇な臭いで包み込む。

 これは結界。外からくる人間の認識を誤らせ、決して踏み込ませない境界を作る領域。


 同時に、不快な臭いを隠すための処置である。

 天幕の傍で山積みに置かれた麻袋を眇め、二人は迷うことなく進んでいく。

 結界の中心から外れ、同時に人からも離れた隅。森の影が色濃く反映された場所。

 その切り株の上で、座る影が一つ。


「マエロド殿」


 一人が声を発した。抑揚の無い声の主は淡々と言う。


「香炉の設置が終わりました。回収した屍の準備を滞りなく」

「……ご苦労」


 陰を帯びた声音が必要最低限の言葉を伝える。


「調律が終わり次第に動く。分かったら戻れ」


 突き放すように言う。いや、事実突き放しているのだ。

 男……マエロドは伝え終わると、背後の二人をいない者として扱った。

 香炉の溢れる匂いに包まれながら、黒パンを噛みちぎり、大して噛んでもいないのに嚥下する。洋酒の入った水袋を仰いで一気に喉を通した。苦しそうな息遣いがマエロドの口から漏れる。


 よくもまあ太らないものだ、と先程伝達した男は思う。こうして戦場に出るたびに食べ物を放り込んでいるが、マエロドは痩けた壮年の男だ。どれだけ暴食しようと、この男が肥えたところを見たことがない。

 単に循環がいいのか、それとも……と逡巡した時だ。


「あの、マエロド様っ」


 上擦った声が聞こえた。隣にいる、道中を供にした術師だ。歳若く、まだ夢見がちな少年がマエロドに言う。


「やはり、せめて同国の者は弔いをさせて頂けませんか。これじゃあ余りにも」

「金次第で敵になる傭兵を弔い何になる」

「で、ですがっ、同じ公国の出が多いと聞きました」

「殿下は使えるものは使えと仰られた。勅旨に背く気はない」

「……余所者に俺たちのことは分かりませんよ。それにあの人だって、彼らの死体を使えと命じたわけじゃ──」

「黙れ」


 叫ぶのと同時に立ち上がり、振り返るマエロド。整えられた金髪は細く窶れ、顔は病的に青ざめてその両目は血走っていた。


「耳障りだ。貴様もなりたいか」


 覆面から覗く両目が、大きく見開かれた。何かに怯えるように。


「次に口を開けば、殿下より前に私が殺す。アレらのようになりたくないなら、二度と私に逆らうな」


 水袋を少年に投げつけて、マエロドは顔を背けて座り直した。

 少年は袋を抱えたまま、足早に天幕の方へ引き返してく。自分の末路を想像したのだろう。幾ら口で綺麗事を並べても、根底にあるのは自分事だけなのだ。

 残った男も少年を追いかけるように足早に去っていく。「全く」と厄介なことを押し付けられたような言葉を残して。

 苛立ちに任せるまま、マエロドは残った黒パンを口に放り込んだ。


「どいつもこいつも、愚図どもが」


 憎悪に塗れた一言を、広がる深緑にぶつける。

 マエロドは憎んでいた。夢想がちな見習いに、理解者ぶった術師も。この森林の鬱陶しさと自身が置かれた立場全てに。


 墓を暴いた罪で牢獄に閉じ込められた日々。異端として処刑を待つ身だったマエロドに光明が刺したのは、国を支配していた貴族連中が殺されたことだった。

 異世界より現れた異邦者が領主の座を奪い取り、マエロドは解放され、自由の身となった彼は、けれど自由とは縁遠い場所にいた。


 戦いによって死んだ亡骸を動かせる兵士にすること。それがマエロドに与えられた勅旨だった。

 彼からしたら、牢獄も戦場も変わらなかった。研究には戻れず、役に立たない愚図を率いらなければならない苦痛。様々な辛苦がマエロドに降りかかり、もう何かを食べていないと発狂してもおかしくなかった。

 だが。こんなにも自身を逆撫でているのはそんな些事ではない。


(竜……醜い獣め)


 昨夜、敵国の城砦を確実に落とさんとして投入された召喚獣。

 硬い鱗に覆われ、夜空を力強く飛翔する翼竜。口から吐く豪炎の明かりが夜を暴いたのを、今でも鮮烈に覚えている。


 忌々しい、と歯噛んだ。

 マエロドは竜を憎悪している。たとえ味方であってもそれは変わらない。故にあの竜が墜落したと聞いた時は、胸がすくうような気持ちだったのだ。


 彼にとって竜が落ちようが国が勝とうが負けようが、関係なかった。それはマエロドの人生で些事でしかない。

 彼にとって重要なのは、自分が死なないこと一点にある。


 故に、彼は恐怖する。

 あの光景に。自分を捕え処刑するのを待っていた貴族が、逆に処刑される光景を。

 いや違う。あれは処刑なんてものじゃない。

 あれは。


「────クソっ!」


 嫌な記憶が蘇りそうになり、マエロドは悪態を吐いた。

 懐を探り、折れた短い棒状の紙を取り出す。刻んだ植物を羊皮紙で丸めた煙草だった。


 口で咥えると、火をつけようと人差し指を先端に近づける。魔術で火を灯そうとしたが、慣れない環境だからかうまく練れず魔術式が起動しない。

 苛立ちが募る。その時だった。


「火をつけようか」


 背後から聞こえた声に、マエロドは頷いた。

 ああ、と口にしようとして、訝しむ。

 今、声をかけたのは誰だ。

 気付いたマエロドは振り返り────


「痴れ者が、誰に向かって────」


 検討外れの言葉を放った、その瞬間。




 視界が、赤に染まった。




 色々な赤が、黒い森を彩る。

 天幕の上で踊り盛る、劫火の明るい赤。

 炎の河に晒され、皮膚が爛れ激痛に踠く人影の赤。

 そして。

 火の中を、黒い蝙蝠の群れが辺りを飛び交っていた。


「……な、にっ!?」


 遅れてマエロドは視界に映る現実を認識した。驚愕を隠せず、ただ目を見開くことしかできなかった。


 ……卑小な男だが、愚者ではない。マエロドは戦地を移るたびに自ら結界を敷く。隠匿に特化した結界は楕円形に広大し、さらに起点を術者本人とすることで、結界を展開したまま移動することを可能にしていた。


 動く陣地。捉えることも感じ取ることもできない、無類の結界。

 故にこそ、マエロドは慢心していた。

 想像もしていなかった。己が施した結界術が破られることを。


 己の術義学術を過剰なまでに誇る。彼もまた、魔道を歩む術者が陥る伝染病に感染していたのだ。

 マエロドの知らぬ間に結界は破られており、

 夜を照らす火炎が、悲鳴を上げる術者たちを蹂躙する。


「マエロド殿!」


 炎の中から、一つの人影が現れる。報告を寄越した馴れ馴れしい術師だ。


「退却を! 逃げるんだ、化物が、悪魔がそこに……!」


 歩み寄る術師。マエロドは無言で息を呑んだ。

 素早く腕を伸ばし、術師の胸倉を掴む。狼狽する隙間を与えず、術師を引き寄せた。


 刹那。


 強い衝撃と共に、術師の体が揺れた。

 術師の口から、血が溢れる。

 背中から走る激痛。術師は瞳孔の開いた目を、自分を引き寄せたマエロドに向ける。


「っ、馬鹿な──どうし、マエロ……」


 言葉を最後まで発することなく、術師は絶命した。背中には剣が垂直に突き刺さっていた。

 それを眇めて、自身に覆い被さる術師の亡骸を損在ぞんざいに捨てる。


むごいやつだ。味方を盾にするとは」


 炎の河が、開かれる。

 まるで炎が意思を持ち、聖なる者の道を造らんとするように。

 ……そこを歩むのはよこしまの者で、開いた道には無数の焼かれた亡骸が転がる地獄の一本道だったが。


「どの世界でも術師とは難儀だな。大きな力を得るが、大きなしゅを抱える」


 拓いた道に、歩く影が一つ。


「香で隠そうが結界で覆うが、原始の者までは欺けない。かれらは感がいい。本能で寄ってはいけないのを感ずる」


 たとえば、と影は言う。


「腐乱に塗れる、死肉の多い墓地を」


 長い白髪を靡かせる青年。黒い外套を着込む青年は、赤に濡れている。

 原因は、その手で引き摺る術師だ。なすがまま地を這うのは、術師見習いの少年。

 手が動く。少年がマエロドの元に投げられる。確かめるまでもなく、少年は死んでいた。首元に大量の血の跡を残して。


 まるでそれは、獣に噛み千切られたかのように、毒々しい赤だった。

 マエロドは顔を上げる。歩いてくる影に視軸を向ける。

 邪悪な笑みを浮かべる影の口元は真紅に濡れていて、

 口から覗かせる歯は、獣のように尖っていた。


「残るは、首魁おまえ一人」


 えづくような血に塗れた化物が、人の皮を被る悪魔が、白い息を吐く。

「火遊びの時間だよ、死体漁り」

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