死の無い戦場/黒い蛇
生暖かい風が首筋を撫でる。
高所に吹く風は柔く、不気味なほど静寂に包まれていた。
まるで嵐の前兆のようだ、と思いながら。
砦の胸壁上部。戦場を見下ろした回廊を悠然と歩く。先の戦場の傷跡が残留する中で、苦悩を煮詰めたような顔をする人の親と対峙した。
回廊には二人しかいない。父親であり皇帝である男は、重い口を開く。
「……娘は、どうした」
眉間に皺を寄せたキュルシャトは言う。
「よく寝ている。余程疲れたらしい。慣れないことをせいだろうよ」
「………………」
息を呑むのが聞こえた。息だけではない。あらゆる感情を必死に呑み砕く音が、皇帝の喉から発せられる。
「これで貴様は……」
「約束通り此度の戦は始末をつけよう。無論、完膚なきまでの勝利を手柄にして」
一歩、踏み込む。
『彼』が、皇帝の眼前で諧謔の笑みを浮かべる。キュルシャトの顔が大きく歪んだ。
「悪魔めが」
「結構。その名ほど相応しい名はない」
嗜虐的で凶悪な微笑みが、青白い皮膚を歪ませる。
「悪魔がこの世を地獄に変える。この戦禍のように。さあ示すがいい皇帝。おまえの敵はどこにいる」
私自らの手で縊り殺そう。
赤子を抱くように優しく、だが呆気ないほどの残酷さで敵を屠ろう。
それがおまえが握る、血に塗れた剣の役目なのだから。
「敵など、そこら中にいる。予の眼界の先に広がる全てが、予の糺すべき異地よ」
キュルシャトはそう呟き「しかし」と言葉を翻した。
「今あるのは哀れみだ。敵など、
「ほう? それはどういう────」
問おうとした瞬間だった。
違和感。
身体の方向を変え、下界に広がる血みどろの戦場跡を見やる。
熾烈を極めた平野は無惨な光景と化していた。放たれた矢が大量に突き刺さったまま残され、血跡がこびりついた剣と槍が放棄されていた。竜が放った烈火の
凄惨さを物語る園。だが、足りないものがあった。
死の臭い。それを発する────
「死体が消えてる?」
地に伏せ、命の灯火が尽きた亡骸。祈りも悔恨も届かず朽ち果てる人間だったもの。
腐りゆく死肉が、そこにはない。一体として姿はなく、綺麗さっぱりと消えてしまっている。
「これが、奴らのやり方だ」
半壊した塀を掴み、在らん限りの力を入れる皇帝。顔には憤怒の情が浮かび、憎しみを込めた双眸が戦場を睨みつける。
「亡骸を辱め死してなお
そよ風が漂う。無いに近い、髪がふんわりと浮く程度の風力。
微かな臭いが、鼻腔を擽る。
そして『彼』は察知する。流れる香りに、僅かにえずくような臭いもあることを。
腐乱した死肉の、喉が詰まるような腐臭を。
「──生を全うした者を、醜い人形にするなどと」
「……生きた
得心がいったように、『彼』は言う。
「死肉を蒐集し、死肉を役する。成程、原材料は腐るほどある。だから人間を先に戦わせたな。意思を持つ人間より、意思を持たぬ屍の方が手繰りやすい」
哀れな尖兵、と『彼』は付け足す。
「死者が本命とは、あべこべじゃないか。──数は?」
「凡そ五百」
「たかが五百。されど死なずの五百。たち竦むほどの数だな」
「怖しいか?」
キュルシャトの問い掛けに、『彼』は首を振る。
「脅威的だが敵ではない。そもそも、単純な話じゃないか」
「なにっ?」
「
「どうやる。相手は魔道を歩む者、容易に姿を晒すとは思えん」
「知っているとも。こういう手合いは、隠れんぼがお上手だ」
だから、と『彼』はキュルシャトに確信に満ちた瞳を向ける。
「鬼がすることはただ一つ。端から端まで虱潰す。東から西まで縦横無尽にだ」
「……莫迦な……」
「確かに
刹那。
『彼』の身体が、指先から解け始めた。
「私は
指先から崩壊し、塵に還る。嫋やかな風に乗り、暗い天空へと舞い上がる遺灰。
直後、黒い影が喚き声を発した。
仄暗い空に、黒い影が浮かび上がる。歪な翼手を広げ、きいきいと耳障りな声を上げる、鼠のように矮小な蝙蝠の群れが。
灰が次々に蝙蝠に変化していく。羽ばたく黒い鼠は、狂ったように鳴き喚き、けれど意思を喪失せず群集となり旋回し続ける。
蝙蝠の竜巻が、半壊した城砦の頭上に形成される。
見方を変えれば────それはまるで、とぐろを巻く蛇のよう。
天を喰らう、悪魔の蛇。
────言っただろう。私はおまえたちとは違う。
『彼』の声が響き渡る。幾多にも重なった言葉が、キュルシャトの耳を通る。
────化け物は、化け物でしか開けない道を行くだけだ。
声が天を劈く。まるで豪雷の如き羽音を発しながら、蛇は天空を飛び立った。
いや、とキュルシャトは思う。
あれは。
(あれは蛇ではなく、竜そのものではないか────)
遠くなる蝙蝠の影を、キュルシャトはただ厳しい顔で見つめる。
黒い
茜色の淡い景色。それを飲み込むように、暗雲の帳が降りてくる。
陽が傾き、夜が始まる。
蝙蝠たちは歓喜するように、暗い木の葉が広がる森の中に消えていった。
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