対談Ⅱ/朱に沈む睡蓮
灯影が揺らぐ中で、乙女と化け物は向かい合う。
さて、と『彼』は言う。
「最初の疑問を解消するとしよう。この世界についてだ」
世界、とソフィアは繰り返す。足を組み直す『彼』とは対照的に、彼女は両手を膝に置いて背筋を真直ぐ伸ばしていた。
「何もかもを知りたい。私はこの大地では飛ぶのもままならない雛鳥に過ぎん。ならば歩く知恵をつける必要がある。場所を知り、言葉を知り、文化を知る。相手を知らねば戦えなどせん」
笑みを浮かべて話す『彼』を、ソフィアは目を細めた。
「何か?」
「……随分と楽しげだな」
幾分か興奮は収まったとはいえ、ソフィアの方は気が気でない。いつ首根っこを掴まれて組み伏されるか分かったものじゃない。
なのに少し気を抜くと警戒を解いてしまいそうになる。目の前の『彼』がそういう気配を漂わせてこないからだ。
「手玉にとって余裕があるからか?」
「それもある」
嫌味を肯定され、がくりと頭を下げるソフィア。「だが」と『彼』は言う。
「それだけではない。会話は愉しい。女性と話す時は特にだ」
純粋に言う『彼』に呆気に取られていると、『彼』は話を促す。
「聞かせておくれ。私はきみの言葉で世界を知りたい」
柔和な笑みを浮かべる。戦場で高らかに嘲笑った人物とは思えない、悪意のない青年の微笑。
「……調子が狂う」とソフィアは呟く。自身の頬が少し赤く染まったのを、彼女は知らない。
──会話は基本的にソフィアが話し手に回っていた。『彼』は質問手に回り、彼女の話を適当な相槌を打ちながら聞いていた。『彼』の機嫌は良かった。「女性と話すのはいつだって愉しい」と言うのは本心なのだろう、とソフィアは思った。
……ソフィアの言葉をまとめると、次のようになる。
【ここはハイモスという大地で、異邦者(『彼』を含む)から異世界と呼ばれている】
【ハイモスには人間だけでなく、亜種族……長命にして弓の名手たるエルフと、鍛治術に長け『神秘壊し』の異名を持つドワーフがいる】
【この大地では長期に渡り戦争が続いている。東から侵攻する戦士たちの帝国と、聖方教を信仰する聖方諸国が相争っている】
【帝国が聖方諸国の一角を滅亡させ領土を拡大、以降はこの砦を境に一進一退の攻防が続いている】
つまるところ、よくある侵略戦争だ、と『彼』は思った。
世界は違えど戦う動機は変わらない。略奪し自分の領地とすること。食料を奪い飢えを癒すことから、教化させて利潤を得る。個人から国家へと規模が変わっただけだ。古今東西、争う種は至極単純なものなのだ。
それに拍車をかけ熱狂的にさせるのが宗教。信仰とは、人の弱さを肯定し且つ補強する役割を持つ。生き方の疑念。境遇の疑念。苦悩の疑念。「何故このような目に遭わなければいけないのか」に一つの答えを出すのが信仰だと『彼』は思う。
成程、確かに道標にしては目が眩む。
神のために戦え。死ねばあなたに天国の階段は拓く。自分の生を信仰で補強した者にとっては、これ以上ない動機だろう。たとえそれが、国家を運営する資金調達する上でも綺麗事だとしても。
信仰を得て人の血を流す。昔から神というのは、碌でもない武器商人だ。
まあいい、と『彼』は息をつく。食傷気味になるほど擦られた動機など興味にない。
次に、と『彼』は言う。ここからが『彼』にしてみれば本題だった。
「これについて聞こう」
手に持っていた
「これはこの世界の武器じゃない。これもまた流れ着いたものだ。私と同じように」
ソフィアはそれで得心がいったのか、頷いた。
「あなたが訊きたいのは」
「召喚。私をこの世に喚んだ儀式」
彼女の言葉を継ぐ形で『彼』は答えた。
「私も
「……私もよくは知らない。元々異界との交信に用いる術だったらしい。それが聖方に渡り呼び寄せる術儀に落ちた。聖霊や幻獣……あなたのように、異なる世界の異邦者を使い魔に落とし込む。あれは邪法だ。
「随分と言い切るのだな」
「当然だ。召喚とは呼び従える業。人の手中に落とし込む行為だ。人智を越える存在に仮初の肉体を与え、あまつさえ使い魔にするなど、冒涜以外の何物でもない」
成程、と『彼』は一人納得する。
人智を超えた存在に仮初の肉体……つまりは分かりやすい存在に置き換える。自然を人型に置換し、現象に妖怪の像を与える。
「偶像。確かに零落というのは神威を陥れる行為だ」
しかし、と『彼』は口元を手で摩る。
帝国という名称と、偶像を忌み嫌う信仰。そしてこの戦況。
まるで。
(かの
思考を頭の隅へと追いやり、『彼』は口を開く。
「しかし
「……その通りだ」
ソフィアは顔を強張らせる。
「こちらは減衰の一途。加えて退路も断たれている。ここに籠り敵を迎え撃つしかない」
「増援は? まさか無策で籠城戦をするほど愚かではあるまい」
「無論、帝都に向けて伝達を出した。だが……」
「潰された。全て筒抜けというわけだな」
両手を重ね足元に置くと、『彼』は続ける。
「それほどまでに手強いのかね、聖方諸国とやらは」
「
今戦っているのは、とソフィアは苦虫を噛み潰したような顔をして言う。
「敵は、聖方の国璧である公国だ」
「公国──」
「公国は断崖と樹海に囲まれてるが軍事力は脆弱。
「それが阻止され、劣勢に追い込まれた……成程、そういうことか」
得心がいき、『彼』は頷いた。
「あちらも召喚したのだな。
「……少なくとも将軍は変わっている。幻獣の投入なんてこれまでなかった」
「それはいつからだ」
丁度一ヶ月前、とソフィアが言うと『彼』は鼻を鳴らした。
「一ヶ月弱で兵を預ける愚か者などいない。無能とて己の剣を他人に預けん。領主とはそういうものだ」
そういう時どうするか、と『彼』は生徒に教えるように言う。
「兵を握るにはただ一つ、国を乗っ取り自らコトを運ぶのみ」
「……待て。だとしたら」
「国王だか貴族だか知らんが、もう殺されているな。しかも
権力者の最期というのは、往々にして悲惨だ。
簒奪した新権力者が自分の立場を示すために、強固な基盤とするために、見せしめに前権力者を殺す。
逆らえばこいつのようになる、と誰もが分かる感情……恐怖を植え付けるために。
成り上がりの権力者は人望ではなく、
『彼』もまた、心当たりがある手段だった。
「国を乗っ取り更に趨勢を覆す。向こうのは余程の
しかし、と『彼』は考える。
「同じ余所者か。言葉が通じる人間ならいいのだが」
楽しそうに言う『彼』を、やはりソフィアは怪訝げに眺める。
「何故笑う。この状況でどうして笑えるんだ。怖くはないのか」
「残念ながら、感じたことはない」
口にした途端、否、と『彼』は自ら発した言葉を否定する。
「最初から無いのだ。脆さを持たず、弱さを身につけず。私は恐れを知らない。それが疵でもある」
「……贅沢な悩みだな」
吐き捨てるようにソフィアは言う。
「恐れが無ければ迷うこともない。迷いは弱さを生み、大切なものを守れなくなる。そんなものは戦士に相応しくない」
「人たらんとしているのが恐れだとしてもか?」
「だとしてもっ」
声を荒げ、少女は立ち上がった。
「王の下に生まれながら、臆病風に吹かれる者を誰が敬う? 誰が慕う? 誰が続く? 戦場を知らぬ戦士など、ただの腑抜けではないか」
「蛮勇と勇気は違うとよく言うがね」
「同じだ。どちらも勇ましいことに変わりはない」
自らを責めるような口調で呟き、彼女は沈むように椅子に座り直した。
「もう、弱いままは嫌なんだ……」
吐露した言葉は、少女の本心そのもの。拳を力強く握り、自身の中から溢れ出す劣等感を必死に抑え込んでいる。
そんな彼女の本音を、『彼』は一蹴する。
「……哀れな子だ。もうきみは、強さ以外のものを持っているのに」
「なんだと?」
顔を顰めるソフィア。再び殺気立つ彼女に「さて、お嬢さん」と『彼』は静かに立ち上がった。
近寄り、片手で少女の肩に優しく触れる。椅子に座ったままのソフィアを『彼』は優しく見下ろす。
なっ、と声が漏れた。眼前にある美貌を前に戸惑いが生まれる。
「お、おまえ。な、にを」
「何を言う。
「ぁ、た、確かにそうだが、こ、この流れで!?」
「この世はいつだって唐突だ。刻は待ってくれないよ」
彼女は目を『彼』に向ける。優しげな表情を浮かべ、艶やかな吐息を漏らす青年を注視する。
まだ、まだだ、と胸の中心が早鐘を打つ。気持ちが定まらない。一度は決めたことなのに、直前で揺らいでしまった。
待ってほしい。もっと話すことがあるはずだ。でも抵抗はできない。肩を掴んでいる手が、何より妖しく見つめる双眸が、彼女の体を縛りつけて離さない。
そうだ、と彼女は咄嗟に浮かび出す。訊ねることはあった。どうして今まで思い浮かばなかったのか。
名前。
あなたの名前は────
思い浮かんだ言葉が、口に出ることはなかった。
血の気を失っても妖艶な青年に口付けされたのではない。
ただ、音があった。
さくっ、と果実を裂くような音が。
「……ぁ、え?」
じわっ、と果汁が溢れてくる。生温かさが広がり不快だった。
力が抜けていく。弛緩し両腕両脚が鉛のように重く言うことを聞かない。
顔を下す。震える歯を抑えられない。何故、こんなにも寒いのだろうか。
胸の中心は不快で、こんなにもあたたかいのに。
どうして。
どうして私は、血塗れになっているのだろうか。
視界の中心に映るのは、赤く濡れた短剣だ。彼女が『彼』に構えた剣が、胸の中心に深く刺さっている。
柄が赤に濡れ、衣服が緋に濡れ、命の糸が途切れようとする。
ソフィアは目の前の影を見据えた。霞む中で蝋燭の火に浮かぶ『彼』の輪郭を。
「急所を刺したんだが、存外丈夫なお嬢さんだことだ」
意外そうに口にする『彼』。影が遠ざかり朧げになっていく。
「どうかね、これが生死の感覚だ」
「────、────」
何かを言いたい。思いつく限りの言葉を叫びたいが、口から溢れるのは迫り上がってくる血反吐だけ。
「安心しろ。すぐ忘れる。痛みも、苦しみも、きみの死も。全て無かったことになる」
光が強まる。まるで最後の瞬間を目に焼き付けるかのように。
「一旦のお別れ。今は瞼を下ろし、眠るといい」
幻視する。『彼』の笑う顔が、彼女を支配する。
「おやすみ眠り姫。次に見える時は、新しいきみであることを願おう」
それが、最後に聞いた言葉だった。
体が急速に力を失う。伸ばしかけた手はだらんと落ちて、瞼が急に重くなる。
音が拾えない。閉じかける瞼の隙間、彼女が見るのは、翳を帯びた青年の顔。
そこには笑みを浮かべた悪魔の青年がいて────
それを最後に、ソフィアは死んだ。
一人になった『彼』は、小さく息を吐く。
椅子に座る、先程まで対話していた少女に近づき、自らが刺した短剣を躊躇なく引き抜いた。僅かな血が飛び散り、『彼』の服を汚す。
「本当に眠り姫のようだ」
静謐な空間で、『彼』はそう言った。自ら殺し、血塗れになった少女の亡骸を視界に入れて。
「このまま死なせておくには、惜しい」
右手を口元まで運ぶ。手首を口に這わせ、徐に開いた。
獣のような牙が、手首を噛みちぎる。
歪んだ表情が『彼』に浮かぶ。震える手を口から話すと、手首には歯によって削られた痕が生々しく刻まれ、ドクドクと血が溢れ出していた。
手を下す。掌を通じ血が拳全体に広まり、指先から滴り落ちる。
自らの手から溢れる血を見ながら、『彼』は亡骸へと目を向ける。
「羨ましい限りだよ」
先程の会話を思い出して、一人ごちた。
弱いままは嫌だ。強くなりたい。目の前の少女はそう言っていた。
彼女は弱い。化け物の『彼』からしても、皇帝に従う戦士たちからしても、同様の想いを抱くだろう。
しかし。『彼』は血が流れる腕を上げ、左目の下を親指で拭う仕草をする。
彼女が拭おうとしたものを、払い除けるように。
羨ましい、と『彼』は再度言う。
「きみはもう、私が終ぞ手に入れることのないものを手にしているのに」
ああ、だからこそ。
「きみならば、あるいは成ってくれるかもしれないな」
いや、と首を振る。
「今度だ。今この一度こそ、必ずや成してみせよう」
呟いて、手首から溢れる血を口に含んだ。
真っ赤に染まった口元を、少女の唇に近づける。静止、けれどまだ暖かい、桃色の柔らかな口唇に指を這わせ開かせる。
青白い少女に、男の吐息が当たる。
時間だ、と『彼』は言う。
「約束通り、その
背後頭を押さえ、体をしっかり固定すると、『彼』は少女に接吻する。
猛獣のような舌が、少女の口の中に入っていく。生暖かい舌が絡み合い、同時に流れ込む血。
弄ぶ舌先。水気に溶け合った血が口の中を満たす。
蹂躙されても動かぬ少女の口端からは一本の赤い線が伸びて、
動かぬ喉が────ごくん、と嚥下した。
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