鬼の寝床/少女の迷い
近づくにつれ足取りが重くなるのを、感じずにはいられなかった。
薄暗い回廊を灯り火が照らす。壁に写る影が足早に通る。それとは裏腹に「着かなければいい」とソフィアは思っていた。燭台を持つ手は、微かに震えていた。
時が過ぎるのは早かった。傷付いた戦士の治癒や胸壁の補強、残った装備の確認など、己が休む隙など与えられなかった。
けれど所詮は付け焼き刃に過ぎない。先の戦いで砦にあった戦力は大きく損耗していた。
理由は明白。あの竜だ。
公国側が召喚した黒竜。あれが現れたことで、戦士たちの勢いは完全に瓦解した。
当然とも言える。偶像とはいえ、伝説の写し身には変わりない。心髄を震え上がらせる咆哮。口から溢れ出す豪炎。アレを目の当たりにして正気を保てる者など僅かしかいない。ソフィアもまた、あの天空を支配する竜に恐れ慄いたのだ。
しかし伝説は、瞬く間に失墜した。
父王……キュルシャトが是とした召喚儀式。囚えた巫女により呼ばれた異邦者によって、伝説の如く竜は退治された。
いや、と首を振るう。
アレは伝説の再現ではない。争いには変わらない。ただ相手が人間ではなく怪物になっただけだ。
怪物と怪物の戦い。足元に群がる虫など気にもせず獣の争い。勝者がこちら側ということだけで、怪物が依然として存在しているのは変わらない。
その怪物が眠る場所に、彼女は赴く。
敷かれた石を踏む音が強くなる。響く足音がさらに焦燥を掻き立てる。
口の中が乾く。顔の上から全身の血が抜けるような感覚が襲う。早鐘を打つ胸奥が痛くて気が重くなる。
自分のしたことは間違いではないと思う。戦勢を覆すには、召喚された『彼』の助力が不可欠だったから。実際に局面は激変したのだから、誤ってはいない。
ただ。やはり怖いものは怖いのだ。
いくら意を固めたとて、我が身を捧げるというのは、十六歳の少女には重過ぎる。
(馬鹿っ、違うだろう)
頭を振るい己を戒める。
(決めたのは、他ならない自分じゃないか)
惑うな。迷いに揺れるなどあってはならない。それは己の中に流れる血を疑うことだ。
王の道に敗北は無し。疑心がある者に王道は歩めない。
ならばその迷いを捨てよう。この身体を怪物に捧げよう。
しかし心までは渡さない。身を捧げても、魂と血は帝国のものだ。
……揺らいでいた拍動が鎮まる。
息を吐いて、急足だった歩を止めた。
彼女が立つのは、地下奥にある武器庫。正確には武器庫
外に放られた武具に手を当て、開いた扉の前に立つ。木製の扉が仕切る境界線。簡素な扉が人界と魔界を繋ぐ門に思えてくる。
間違ってはいない。今から対峙するのは正に人外なのだから。
暗い倉庫部屋は今や、戦場で遊んでいた鬼の寝床に変わっていた。
この扉を開ければ、『彼』がいる。
頭に思い浮かぶ幻像を振り払う。意を決して、力強く握った拳で扉を叩いた。軋む音が振動してやけに大きく反響する。
よく見ると扉は完全に閉まっていなかった。鍵もされておらず、軽く押すだけで簡単に開いてしまった。
「不用心な」
眉を顰めて呟く。即座に否定する。
不用心というのは間違いだ。そもそも用心する必要がない。あれだけの力を目の当たりにしたら、謀殺を画策する者は死にたがりと呼ばざるを得ない。仮に決行したとしても、哀れなずた袋が転がるだけだが。
扉の隙間を縫うように中へ入る。夜目でも見渡せない黒一色の空間。ぼんやりとした輪郭だけが捉えられた。
蝋燭の灯りで部屋を照らす。埃が舞う散乱とした空間。
部屋の中心に、『彼』はいた。
粗雑な椅子に深く腰掛け、身体を丸めるような体勢で座っていた。
少し近づく。声をかけようとして口を噤む。
(眠ってる……)
微かな吐息が暗闇を満たす。俯く横顔を覗くと『彼』は瞼を閉じて寝入っていた。人が入ってきても気付かないほど深い睡眠。
苛立ちと呆れ、そして微かな安心感が同時にくる。
出向いて来いと言った本人がこれか、という苛立ち。寝るなら椅子ではなく寝台……わざわざ運ばせたものを……にしたらいいのに、という呆れ。そして、この人でも眠りにつくのだな、という安心感。
あれだけ暴れ回っても不夜ではない。この人も自分と同じく疲れたら眠るのだ。その事実がソフィアに幾らかの安心を与えた。
たとえ、暴食した獣が惰眠に耽っているとしても。
その微かな安堵が、『彼』へ目を向けさせた。
光が、落ちた。
目から溢れる一雫。綺麗に音もなくズボンに落ちる。見間違いと思ったが、灯る火が事実を告げる。
(涙?)
明かりによって煌めく一滴の涙。硝子のように透明な雫が落ちていった。
膝を折って、『彼』を見つめる。
(あの時と、同じだ)
数刻前、あの時に振り返ったのと同じことを思う。
あれだけ強いのに、あれだけ恐怖を見せつけたのに。
この人のずっと、寂しい顔を浮かべている。
あの強さも、あの恐怖も、あの哄笑も。まるで全部が、自分の心細さを紛らわすかのようにも思えてくる。
気付けば、手を伸ばしていた。何故か、その涙の跡を拭いとろうとして──
「生娘め」
声が、暗闇を震わせた。
衝撃が走る。背後から襲いくる鈍痛。遅れて自分が壁に叩きつけられたと気付いた。
燭台が手から落ち火が消える。視界には何も写らない。首を締め上げられる感触だけが、彼女を支配する。
暗闇が、喋る。
「慈悲など要らない。憐れみなどもってのほかだ」
声。『彼』の声が、部屋中に響き渡る。
「私の生涯を否定するな。優しさなどなくていい。それを向けるのは、私ではない」
言葉が終わるのと同時に、首にかかっていた力が消える。身体が解放され、呼吸が急激に再開される。ソフィアは膝を折り、何度も咳き込んだ。
苦しげに咽せる彼女を無視し、『彼』は燭台を拾い上げる。消えた蝋燭の先を指で摘み、捻り離した。音もなく火花もなく、火が再び灯り出す。
「さて」
椅子の脚が軋む。倒れるソフィアは『彼』を見上げる。
燭台に照らされる冷笑を浮かべる青年。足を組み、見下すようにソフィアを睨め付けて、
「ようこそお嬢さん。化物の餐会に」
口端が上がった凶相で『彼』は言う。
そこにソフィアが見た
最初に見た、化物の貌だけが浮かんでいた。
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