ある日の夢/マイ・フェア・レディ
こんな天気でも傘を使うのですか、と不思議そうに彼女は尋ねた。
鉛色に覆われた空。この国にはよくある曇天で、道行く人も洋服の上から外套を着るくらいだ。
その中で一人だけ『彼』は傘をさしている。黒い日傘は遮光性が高い特別製だが、今は無用の長物だった。
『嫌かい? もう少し離れてもいいのだよ』
『そういう訳にはいきませんわ。ここは人も多いのですから、また迷わないようにしませんと』
助かるよ、と『彼』は彼女に言った。
曇天の下では華やかな街並みが広がっている。尖塔と煙突が天に伸び、街道には馬車を牽く馬の嘶きが、遠くでは
活気に満ち溢れた街の中心から逸れ、大川の上に築かれた石橋を歩く二人。
『こちらにはお仕事でお越しに?』
隣を歩く彼女が口を開く。『彼』は日傘をくるくると回しながら首を振る。
『最近引っ越してきたんだ。折角だから栄華誇る帝都を散策したいと思ってね』
『そうであれば、道案内は不要でしょうに』
『道に迷っていたのは本当だよ。塔に行きたいんだ。あそこは処刑された幽霊が出るらしいじゃないか』
『まあ罰当たりな! もしいたらどうするのです?』
『首を断たれた感想をお伺いしたいね』
不敬なお人、と彼女は言う。本気で嗜めているのだが、『彼』は微笑みを浮かべた。
『なんです?』
『いや失敬。怒っているレディとはこうも可愛らしいものかと』
『かわ──』
彼女は明らかに狼狽した。それが更に可笑しくて、口元を抑えても堪えきれなかった。
『もう。揶揄うのは止してください。それと言葉もお選びになって。もう
『おや。これは失礼をした。面目ない。危うく間男の烙印を押されるところだった』
歩くのをやめずにそのまま続ける。
『しかし、あなたのご主人は運が良い。貴方という素敵な伴侶と共に人生を歩めるのだから』
『……そう、であったら良いのですが』
彼女は歯切れ悪く答える。右手の裾をギュッと握って小さく言う。
『まだ正式にではないんです。彼の仕事が忙しいようで。先日も当分は帰れないと手紙が届いたばかりなんです』
『長旅で?』
さあ、と彼女は力無く首を振る。
『もう暫くお世話になるとだけ。相手が異国の貴族さまのようですから、歓待を無碍にはできませんもの』
自分に言い聞かせるように口にすると、ハッと顔を『彼』へと向ける。
『ごめんなさい。つまらない話を』
『そんなことはないよ』
柔和な笑みを浮かべて続ける。
『とても大切な人なのだね』
『──はい』
少し俯いて、静かに微笑んだ。長い黒髪が川風に揺れ、頬が微かに火照る彼女は、まるで絵画のモデルのように美しかった。
綺麗だと『彼』は思う。
同時に、奥底に隠す嗜虐心が刺激される。
私はあなたの
あなたの婚約者を閉じ込めているのは、この私です。
あなたの親友を死に急がせているのは、この私です。
私は、あなたを知っている。
そして、今知った。
彼女が貞淑な妻女というだけでなく、自己よりも他者を、愛する人のために献身する女性だということを。くだらない信仰に身を捧げる卑小な聖職者よりも、彼女の方が尊く思えると。
死が別つまで……。いや、きっと死でも二人を引き裂くことはできないだろう。
羨ましい、と『彼』は思う。
彼女なら、きっと────
『いいえ。あなたの望みは叶いませんわ』
世界が、大きく揺れた。
意識が戻される。だが声が出ない。自由意志を奪われたかのように身体が動かない。
『私は人間で、あなたは違う。いくら人のフリをしても、絶対に変わらない運命なのです』
彼女が『彼』を置いて歩く。言葉を続ける。
『足掻こうと踠いてもすり抜ける、決して到達しない針の穴に縋るしかない』
それが失敗なのです、と彼女は言う。
そうだ。『彼』は様々な方法を試した。
しかし成功は一度もなく、その度に……
何人の人間を、手にかけたのだろう。
『独りよがりで可哀想なお方。理解されこそすれ、叶うことはないでしょう』
決してね、と念を押して彼女は歩いていく。
影が遠くなる。足音が小さくなる。
視界から、世界から、彼女が消えていく。
待ってくれ、と追おうとした。けど手も足も動かない。ただただ焦燥だけが重なっていく。
行かないでおくれ。
置いていかないでおくれ。
私を。
私を、一人にしないでくれ。
『それは叶いませんわ伯爵。寂しがり屋の
何故なら、と彼女……彼女の姿をしたナニカ……の影は振り返り、
『あなたは、化物でしかないのだから』
彼女が消える。同時に世界が、監獄と処刑場を兼ねた塔が消失する。
街が消え川が失せ、最後に大橋が瓦解する。前後方から罅割れ、橋だった岩片が底のない奈落に落ちていく。
全てが虚無に帰す。
光が一切ない暗黒の場で。
『彼』は、目を開いた。
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