静かな戦跡/差し込む表情
戦場の外で、公国兵たちは慄いた。
竜の火炎に巻き込まれぬよう……運の良かった彼らは……木々が生い茂る林の中まで逃げ延び、行く末を見守っていた。
結果は、彼らの予想しない展開となった。
竜が死んだ、と呆然と誰かが呟いた。
巫女がいなくちゃ召喚できない、と誰かが続いた。
兵士たちの視線が、黒煙の中心に注がれる。
漂う煙霧を踏み歩く『彼』。青年の姿をした影がゆっくりと近づいてくる。
口にせずとも、誰もが理解した。
こいつは倒せない。ましてや竜を撃墜した者に、勝てる道理が見つからない。
人間が怪物に、勝てるわけがない。
『彼』が向かってくる。青白い顔に張り付いた笑みが迫ってくる。
死そのものが、歩いてくる。
誰かが悲鳴をあげた。手に持った武器を捨て、影が覆う森の中へと入っていった。
張り付いた糸が切れる。誰もが命欲しさに走り出す。血のこびり付いた剣と槍を捨て、己を守る鎧をかなぐり捨て、矜持を捨てて。
力の象徴である竜が落ちた今、兵士たちを支える柱はどこにもいない。指揮も陣形もなく、蜘蛛の子が散るように
それを遠くで見ていた『彼』は言う。
「烏合め。命が惜しいか。たったこれしきで」
くつくつと喉を鳴らす。見下し蔑む冷笑が顔に浮かぶ。
体勢を低くして、脚に意識を集中させる。
所詮は統制を失った遁走に過ぎない。慣れない敵地では特に意識がやられる。大地を踏む音や搾り出すような息遣いは、居場所を教えているようなものだった。
『彼』にとって距離は関係ない。どれだけ離れていても獣以上の迅力で追いつける。
全部とは言わずとも、何割かは裂けるだろう。
「いいだろう。撤退戦は戦いを飾りつける」
たとえ指揮もままならない、惨めな潰走だとしても。
「逃げるがいい。この手が臓腑を握り潰すまで、どこに行こうとお前たちは兵士なのだ」
右手を握りしめ、高揚のままに地を蹴り────
直後。
『彼』は己が外套を、身を隠すように翻した。
足を止める。もはや逃げた兵士は意識から外れていた。外套を掴んだ右手を高く掲げ、頭から首元までを厚い生地で遮る。
空を睨んだ。
黒い夜が、白んでいく。
月が消え、夜の帳が開かれる。暗雲が去り、薄明が大地を照らし始めていた。
それは、『彼』の天敵が、昇る合図でもあった。
「──忌々しい。お前はいつも、いいところで邪魔をする」
ジリジリと焦がれていくような痛みが襲う。内側から肉が弛緩する。
力が失われる。強靭な肉体も、並外れた生命力も。
『彼』は完全にそうなる前に、踵で思い切り地を蹴った。
跳躍する身体。マントで覆われた『彼』の足は、無事に砦……先程までいた回廊に戻ってきた。
壁に隠れているからか、砦にはまだ光は届いていない。薄らと影が出来ていたから、『彼』は身を露わにした。
回廊には先程と同じくキュルシャトがいる。違うとすれば、彼らの周りに戦士たちが集まっていたことだ。
「おまえは──」
「『立て直す隙は作った。詮索に使うには惜しいと思うがね』」
ざわめきが周囲で巻き起こった。
「いつの間に言葉を……」
「おまえと同様に学んだのだ。最も私のは短期学習のようなもので拙いがね」
キュルシャトは返さず、ただ目の前の青年を睨みつけた。
この短時間で言語……それも異なる世界の言語を習得したのもそうだが、何より枯枝のような老人から青年に変貌したことに警戒心を露わにした。
時間が逆行することはない。時はいつも進み続けて人間もそれに倣う。なのに『彼』は、まるでそれを嘲弄するかのように若返った。そんなことは人間ではあり得ない。老化を抑えて若さを保つ魔術師はいるが、その魔術ですら肉体を巻き戻すことは出来ないのだ。
それをこの者は、当たり前かのように行った。
娘の言葉は脳裏に蘇る。
予は……あの巫女は、いったい何を喚んだのだ。
「眠い」
思考が寸断される。
は、と誰もが口を開けた。
「頑張りすぎた。眠い。とてつもなく眠い。フカフカの羽毛の中で寝たい気分だ」
おまえ、と困惑する中で『彼』が勢いよく指をさす。人の視線が中年戦士に注がれる。「え、俺?」と本人が困惑するのを気にも留めず、『彼』は言う。
「一番暗い場所に案内しろ。倉庫でもなんでもいい。ただ寝台の用意を怠るな」
新品でだ、と図々しい要求を付け足す。
「さあ案内したまえ。労う責がおまえにはある」
「な、なんで俺が……なぁ?」
抗する戦士の声が同意を求める。
しかし悲しいかな。振り向いた先で同意する者は誰一人としていなかった。
戦士たちの結束は岩よりも硬いが、この場においてはあっさりと瓦解した。
「決まったな。ほら、早くしたまえ。何をするか分からんぞ」
不憫にも大役を押し付けられた戦士は視線を逸らす
それでいい、と『彼』は後を追おうとする。
その寸前で足を止めた。ゆっくりと後ろに振り返る。
キュルシャトと戦士たちの背後、固い表情を浮かべるソフィアへと目を向けた。
人垣の間から視線が合う。『彼』は何も言わずに笑みを浮かべ足を進める。キュルシャトたちとは反対側……自分が召喚された牢屋に繋がる扉まで戻っていく。
開かれた扉の中に『彼』は入る。まるで闇と同化するかのように『彼』は消えていった。
♢♢♢
緊張が解れる。戦士たちの後ろでソフィアは胸を撫で下ろした。
一先ずの戦いは終わった。けれど猶予はない。建物も人材も損耗が激しい。小休止とはいえ戦士たちを休ませないといけない。
自分もそうしたいのは山々だが、できるだけ父親の補佐をしたい気持ちが勝った。
それにそうしている方が、夜に降りかかる出来事に囚われなくて済む。
(けど──)
ソフィアは先程の、笑みを浮かべた『彼』を幻視する。
戦場で敵を蹴散らし、一人で戦勢を覆した人。竜を撃墜し哄笑を上げた怪物を。
今でも『彼』の笑い声が頭に残る。それほど苛烈で、人外じみた戦姿。
(あんなにも強いのに──)
けど、とソフィアは思う。
先程、『彼』が振り返り視線が合った一瞬。戦場から外れた青年を見て思う。
(──なんて、寂しい顔)
その考えを振り払うべく、ソフィアは外に目を向けた。
戦いの終わった戦場には、陽光が冷たく差し込んでいた。
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