争いの河/駆ける怪物
もはや公国の勝利は決定的だった。
帝国の真北に位置する公国は、謂わば貧乏くじを引いた小国であった。
聖方侵攻による最前線、その壁として立たされたのが公国なのだから。
帝国と運河を挟み前線に立つ公国は、山脈や樹林、断崖絶壁に囲まれ自然の要塞を要するものの、兵士の練度も数も圧倒的に不足している。
会戦となれば潰走は避けられない。誰もが思っていた。
しかし。今はどうだ。
あれだけ恐れていた帝国が、数々の武勇を誇る
慄く顔を切り刻み、強靭な肉に槍を穿つ。慟哭が至る所で残響する。
逆転している。狩られる者から狩る者に。
戦場での酔いが兵士たちを勘違いさせる。伝う肉の感触が、えづくような死体の香りが、彼らに全能感をもたらす。
高揚した意気のまま、兵士たちは走り続ける。
次の敵を殺しに。次の次の感触を求めて。
空の竜と共に、帝国を追い込んでいく。
野太い竜の咆哮に釣られて、兵士たちが滾る。そうだ。これだ。我らには神と竜がいる。
戦士たちを燃やし尽くす我らが守護者。この竜たちがいる限り、公国が負けることはない。
進め。進め。残兵を突き刺し、帝国の旗を血で染めろ。
一人一人、戦士を斃していく。
刹那。
とても小さな音がした。
上から落ちてくるような、研ぎ澄まさなければ聞こえないような音が。
付近の兵士たちが、返り血のついた顔で一斉に振り返る。上がる土煙に浮かぶ影を凝視する。
微風が煙を晴らし、月明かりが影を現す。
襤褸がはためく。衣にもならないはだけた襤褸から覗かせるのは、醜い老爺の痩躯。
煙の中から、翁が起き上がる。骨が浮き上がる首が周り、兵士たちを見つめた。
「こんばんわ」
何を言っているのか、兵士たちには分からなかった。
だが、これだけは理解できた。
刹那の高揚が消え失せ、忘れていた恐怖が兵士たちに喚起する。
気付けば、誰も彼もが槍で貫いていた。
枯れ枝に等しい体に血が迸る。貫かれ、幾度も刺し抜かれる。黒い飛沫が飛び散り、血で染まった平野に落ちる。
兵士たちは恐慌し、何度も刺突を繰り返す。相手が斃れても、攻撃は激しさを増す一方。
止めを刺せ、と誰もが思った。
でなければ──恐ろしいことが起きる、と。
「よろしい」
声がした。
自分たちが突き刺している死人から。
地の底から呼び込むように、ソレは言う。
「では、
老獪が起き上がる。自分に突き刺さった槍を
どよめきが走り、誰もが半歩引き下がった。一瞬の隙を『彼』は見逃さない。
地を蹴る。勢いを殺さずに腕を伸ばす。間近の若い兵士に手刀を繰り出す。
鈍い音と共に、青年の胸が貫かれた。
青年の目が大きく揺れる。左肺を潰され血反吐を吐く。
吐き出された血が『彼』の顔に飛び散る。
血に濡れた『彼』は笑みを浮かべ、
口を開けて、青年の首元を思い切り貫いた。
喉元を噛みちぎる勢いで食い込む牙。肉を抉り骨が砕かれる。貫いた腕を引き抜いて、『彼』は顎の力だけで青年を持ち上げた。
まるで獲物を捕まえた肉食獣のように。
そして事実、その通りだった。
何かを飲み込む音が聞こえた。
兵士たちの目の前。これ見よがしに見せつける『彼』の口元から。
深く食い込んだ牙から血が流れ、『彼』の口から胸元までを真っ赤に染め上げる。艶やかに彩られた喉頭が激しく動く。
彼らは何もできない。捕食される青年の亡骸を、呆然と見つめるだけだ。
手が震える。歯が重なって音を出す。忘れていた感情が、奥底から込み上げてくる。
恐怖。
兵士たちは声を上げ、再び突撃する。隊列も指揮もない、恐れに駆られた無謀な走攻。
その哀れな兵隊を舐るように眇め、
「関心しないな」
口に亡骸を咥えたまま、『彼』は足の爪先で地を叩いた。
血が染み込んだ地面から、長槍が突き放たれる。
完全な奇襲。兵士たちが察知した時には、犀利な矛が眼前に迫っていた。
天高く掲げられる兵士たち。槍に貫かれたとて確実に死ぬという訳ではない。胸板を貫かれ心臓を潰された者もいれば、複数の槍に刺されても死ねず呻く者と生死は半々に別れる。
この場合、運が悪いのは確実に後者だ。自重で体が落ちていき、さらに深く刺さるから余計な苦しみが増す。
血で汚れた戦場で、生にもがき苦しむ兵士たち。
血飛沫と呻きが落ちてくる最中。誰もが目を背けたくなる死の森の中で。
主は、凄惨を肴に血を食す。
「晩餐の最中だ。邪魔するんじゃない」
さらに奥深くまで牙を沈ませる。既に青年は事切れ、紅色だった皮膚は青白く変色し、水を絞り出した雑巾のように萎んでいた。
けどまだだ。まだ足りない。
何せ久しぶりの食事だ。
骨の髄ならぬ血が底をつくまで、一滴でもあるなら絞り尽くす。
強風が吹く。空から浴びせられる風。力強く薙ぎられる空気。
「ほう」
亡骸から口を離し、上を見据える。
「いいな。いいじゃないか」
口端を釣り上げて、対峙するソレを讃する。
黒い両翼が、大きく広がった。
咆哮。戦場を業火で彩色する黒竜が、眼下の森を視界に入れる。
地上から離れた低空域で飛翔する黒竜は、即座に状況を把握した。
甲高い音が戦場に降り注ぐ。
竜が舌を打ち鳴らす。まるで銅鑼のように激しく響かせる。
口の端から、火花が散る。
竜の顎が、大きく開かれた。
炎が。
月明かりを消し飛ばす太陽の如き火炎が、黒竜から放たれた。
空から広範囲で吹きかけられる火炎の息が、地上を飲み込んでいく。血と死の香り付けがされた戦場が、一瞬にして焦土と化していく。
……炎を操る幻獣は東西問わず多くいる。サラマンダーやフェニックス、イフリートと呼ばれる者たちがそうだ。
だが、ソレらと竜の火炎とは比較ができない。
単純に力が違うのだ。
魔力で操る幻獣、もしくは化身たる魔神と比べれば、火を司る力は格段に竜が劣るだろう。
それでも竜が恐れられているのは、それらを殺しうる火力という一点にある。
純粋で圧倒的な力。
紅い暴力が、戦地を燃やしていく。死者や生者、敵味方の区別なく。非業も喝采も何もかもを焼却していく。
火を浴びた肉は骨髄に至るまで熱に侵され、全身が灰と化し一片も残すことを許さない。
首を回し息吹が横薙ぎに振るわれる。大地の霊脈を刺激し、地面から火柱が迸る。有象無象を贄とし火が激しく踊る。
まるで王者を称える神殿のように。
竜の咆哮と共に、空が灼かれる。倒された戦士も、逃げ遅れた兵士も、長槍に貫かれた哀れな贄たちも。
力強い炎が、平等に優しい死をもたらす。
「──想像以上だ」
焼け野原となった戦場の中で、唯一の声がした。
黒竜の眼が向く。火の余波を受け崩壊寸前の塁壁にしがみつく老爺を凝視する。
「確かにこれは伝説だ。強者に相応しい生きる怪物だ」
片手で死体を、片手で今にでも崩れそうな壁を掴む。
そこに浮かべているのは、三日月のような破顔。
「なればこそ、退治するに相応しい!」
竜が口を開いたのと、『彼』が動いたのは同時だった。
片手で掴んでいた血の残骸を放り投げる。青年の体は抵抗もなく暗い只中を滑空する。
無論、その程度の小細工は歯牙にもかけない。『彼』と竜の距離は30m以上もあり、加えて竜には唯一の
落ちる影を、もう一つの影が踏む。
竜の目がぴくりと動いた。
落ちていく死骸の上に、『彼』が足をかける。
胸壁にしがみついていた『彼』が、自ら投げた死骸の上に移動している。
「ご馳走さま」
そう口にして『彼』は、思い切り足を蹴り上げた。
爆ぜる亡骸。四散し肉片となった人間に目もくれず、『彼』は一直線に竜へ飛んでいく。
死体を跳び台にして。
投げたのは中間地点を作るためだ。勢いつけて蹴り上げることで、足りない距離を稼ぐことにしたのだ。
問題はそこではない。距離だ。胸壁から投げられた死骸は竜に届かないにしても20m以上はあった。通常、人間が跳躍できる距離ではない。
それを、この男は。
否。人間ではない、同じ化物だからこそ可能なのか。
竜は即座に、炎を生成すべく口を──「遅い」
絶叫が、戦の園に轟いた。
空でのたうち回る巨躯。右目から滝のように滴る血の雨。潰された眼球から、重い雫が涙のように流れていく。
首を振る竜の頭には、貫いた右腕を舌先で舐める『彼』が立つ。
細い腕にこびりついた血を指先から掌まで、丹念に掬い取る。唾液でてらてらと光る手が月光に照らされる。
不安定な足場で老いた男は、白い息を吐いた。
喉を鳴らし、唾液のついた腕を何度か振るう。
「片眼を潰されても護るとは健気じゃないか。そう思わないかね?」
口先を向けているのは、竜ではない。
竜の背にしがみつく、震える女にだった。
衣が風にはためく。這いつくばりながらも顔を『彼』へと向ける。
フードがはだけ、金色の糸が夜風を彩る。
あの牢屋にいた女と同じ、長い耳を持つ女が。
「まるでどこかの御伽話じゃないか」と老獪は笑った。
激痛から逃れようと旋回を繰り返す竜の背で、女が立ち上がる。小さな手には短剣……自決に用いられるものだ……を手にしていた。
「授業料だ。来い。おまえの敵はここにいるぞ」
両手を広げて待ち構える『彼』に、女が叫んだ。
走る。悲鳴に近い声を上げながら、両手で短剣を構え『彼』の胸に目掛けて突きを放つ。
衝撃が腕から体に迸る。生ぬるい風が、女の頬を撫でる。
同時に、生気を失うような吐息が漏れた。
短剣の刃は『彼』に届いた。柄が沈むまで深く刺し、確かに急所を貫いているのだ。
けど、死なない。
血が流れているのに、倒れない。
「そう簡単には死ねんよ」
狼狽する女に『彼』はそう言った。
「
口にして『彼』は右手を軽く、水平に薙いだ。
風を斬る音がした。血飛沫が舞い、夜を彩った。首の左側面を斬られた女は、自分に何が起きているのか分からない。ただ傷口を抑えて喘ぐことしかできなかった。
「だからこそ、私は化け物でしかないのだ」
倒れかける女に手を回し、支える『彼』。
さあ、と『彼』は遊びに誘うように言った。
「対価は支払った。今度は、きみが教えておくれ」
獣のような牙が並ぶ口が、開かれる。
並んだ牙が、女の首筋を貫く。
溢れる血を飲み込み、命を吸い取る『彼』。
苦痛と恍惚が交互に襲いかかる女は、ただ後ろに反るしかない。
それでも抵抗にはならない。『彼』は頸動脈から溢れる血の噴水も、牙を伝う血の雫も余さず飲み込んでいく。
月光の中で踊る影。竜の背で行われる嗜虐。
嚥下する音が滑やかに、夜に奏でられる。
『【──────!!】』
喉を裂くような咆吼が、青い夜に轟く。
無理矢理に体をひねくり回し、背中の蛆虫を振るい落とそうとする竜。
潰された右目から生じる激痛を食いしばり、必死に踠く幻獣を『彼』は嘲笑う。
「よく吠える」
女を抱えながら『彼』は膝を折る。
掌を宙に掲げる。胸から流れる血が腕を這うように掌に集まる。
「折角だ。箔をつけさせてもらおうか」
掌に力を入れ、竜の背中へと叩きつけた。
刹那。
暗い夜に、炎が爆ぜた。
黒い帳を掃く一つの火炎。神威の如く大地を焼き払った竜のとは違う、明確な殺意の具現化。
炎の大剣が、黒竜を深く突き刺す。同等、いやそれ以上の大きさの剣が、竜の肉体を両断した。
だらん、と竜の首が、真中から落ちていく。
堅牢な胴体が斜め二つに裂かれる。空を支配した生きる伝説が、無惨にも落ちていく。
竜が、地に落ちる。
断面に火が走る。落ちていく死肉。焼亡する竜の残骸は地に落ち、瞬く間に消滅した。
静寂が訪れる。戦場には似合わない、不気味な静けさが。
この場にいる皆が、視線を一点に向けていた。竜の火勢に巻き込まれぬよう退いた公国兵士も。砦に残った残兵である戦士たちも。
胸壁の堀から眺めていた、皇帝と子女も。
『彼』を、視界に収めていた。
竜の残骸が落ちた中心。黒煙が上がる只中で、ソレはゆっくりと戦場を闊歩する。
もうソレは、哀れな老人の姿をしていなかった。
長い白髪の青年。身につけるのも襤褸ではなく、夜に溶け込む洒落た黒い
青白い顔に浮かぶのは笑み。唇は真っ赤に染まり、口からは血が一線溢れる。
『彼』はそれを拭い、抱えていた女の遺骸を投げ捨てた。すでに血の抜けた骸に興味もなかった。
琥珀の両目が捉えるのは、この世界のみ。
「く、ふふふふ。あははははは」
体を抱き抱え、逆くの字に体を折る。
「あはははははははははは! はははははははははははははは!!」
哄笑。凶笑。狂笑。
腕を広げ、腹の底から湧き上がる歓喜を口から上げる。
「これが天命か! 神の声か! 全く以て太々しい。殆ど恐喝と同じではないか」
嗄れた声が、低音の溌剌とした音に変わっている。
「それが望みならば果たそう。天啓を得れば、従うのが信仰だ」
そう言って、『彼』は嘲りの笑みを浮かべる。
信仰と対極を成す己が、比喩とはいえ信仰とは笑わせるじゃないか。
違うな、と『彼』は言い直す。
「これは使命だ。異なる世界だろうと成すべきことは変わらない」
前の世界では果たせなかったものが、胸のうちに去来する。
「全身全霊を持って成し遂げよう。満願成就を
誰にいうまでもなく、『彼』は言う。
「私の敵はおまえたちで、おまえたちの敵は私。この生が定められた運命というのなら、供に踊り狂おうじゃないか」
否。相手はいる。
『彼』の視界に映る、世界の全て。
私対世界。
「私はここで、魔王となる」
黒い煙が、暗い夜さえも侵食する。
まるで『彼』の宣言を象徴する、始まりの狼煙かのように。
……真下で行われる宣言を知らず、けれど砦の上から『彼』を見ていたソフィアは、身を後ろに引いた。
そして一変も顔を逸らさずに直視し続ける父に向かって、震える声でこう言った。
「お父様。あの方は何者なのですか」
「貴方は一体、何を喚んでしまったのですか!」
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