契約/戦士の乙女
声がして、二つの刃が同時に静止した。
二人の戦意が急速に冷えていく。
『彼』もまた先程まであった闘争心が消えていた。槍が手からすり抜け、視線はソレを追いかける。
キュルシャトの背後から現れる、可憐な乙女に。
青い胴衣姿で走ってくる女。戦士や皇帝に比べると些か肌は白い。鼻筋は高く整えられた顔立ちは、異国の彫像じみた美しさを醸し出してた。
美しさが先立ち、戦の匂いがしないのは、まだ経験が乏しいからだろう。戦士たちと同じ装束を纏っていても、服に着せられている感がある。美しく靡く黒髪など、戦場では邪魔以外の何者でもない。年相応の幼さがあるのも未熟ゆえだろう。
だが唯一、その力強い目からは女臭さを感じなかった。
それは目の前で命のやり取りをしていた、皇帝と同じ色の瞳だったからだろうか。
あるいは──彼女と同じものを視たからだろうか。
『何をしているソフィア! 去れと言ったはずだ!』
『お父様が戦っているのに、私だけ背を向けることなどできません!』
先程まで殺し合おうとした敵に背を向け、キュルシャトは乙女に声を上げた。
『去れ! ここは女の来る場ではない。戦場なのだ!』
『流れている血は同じです! 我ら
乙女の声が、そこで止まる。
ようやく気付いたのだろう。戦いが、砦の下だけではないということを。
黒い森に串刺された戦士たちを順々に見つめていく。恐怖に彩られた目は、次第に涙を溜めていく。
『これは、これは一体、どういうことですか』
口元を抑え、怯懦の声を上げる乙女。初々しい、まだ血を知らない少女の嬌声のよう。
『……予はし損じた。ここはじきに落ちよう。だがまだ時はある。おまえは逃げるのだソフィアよ』
『何を……! 私も戦います!』
『ならぬ! 王の道を途絶えさせる気か!』
怒号を飛ばすキュルシャトに、乙女は大きく怯んだ。口をぎゅっと結び、何か言いたげな顔を皇帝へ向ける。
キュルシャトもまた息を吐いて落ち着かせると、少女の縮こまる肩に優しく手を置く。
『逃げてくれ、愛しい娘。おまえが死んでしまっては、帝国は太陽を失ってしまう』
『お父様。私は──』
首を横に振り、目に溜めていた雫が落ちる。
その時だった。
「佳いな」
口を閉ざしていた『彼』が、再び言葉を発したのは。
「佳い女だ。気高く慈悲深い、好みの強さを持っている。相応しいことこの上ない」
「貴様、何を言っている」
乙女に背を向け、キュルシャトは再び『彼』と対峙した。『彼』は悪魔じみた笑みを浮かべたままキュルシャトに言う。
「気が変わった。この戦い、私が終わらせよう」
その代わり、と『彼』は指を指す。
不安げな顔を……やはり戦士の表情ではない……乙女を真っ直ぐ指し示す。
「その代わり、彼女の夜を頂く」
「な、に?」
「口にしないと分からぬか? そこの娘の
皇帝の目が、初めて揺らいだ。
否。戦場を闊歩し、戦士たちを率いる皇帝のではない。その目は、大切なものを失いかけている父親の目だ。
「──ならぬ。それだけは、決して認めぬ!」
「いいのかね? このままでは逃す時すら稼げんぞ」
キュルシャトは訝しむ。
「どういうことだ」
「死臭」と『彼』は言う。
「死を連れ歩く者の臭いがする。遠い戦場の向こう側……おまえたちの敵方からもうすぐ来る」
「増援……? 何を根拠に──」
言いかけた直後、再びキュルシャトの背後から戦士が現れた。息を切らしながら深々と膝を降り礼をしたため……幸運にも……森を目にすることはなかった。
『か、監視者より伝達、北西より死者の兵群を確認! 敵方の屍律師です!』
『っ!』
皇帝の顔が歪む。怒りと焦燥によって。
『戦える者を回せ! 少しでも遅らせるのだ!』
はっ、と戦士が立ち去る。
「どうだね。面白い状況だろう」
嬉々とした声色で『彼』は続ける。
「どうする皇帝。このままではおまえは死に、娘は殺されるぞ。自分だった肉が入る墓穴を掘らされ、辛酸を舐めながら死ぬぞ」
「黙れ老醜!」
怒号と同時に、空が灼けた。
キュルシャトと乙女の視線が下へと向く。堅牢な城壁の下で行われる広大な命の取り合い。
否。虐殺を。
もはや勝負は一方的だった。金属鎧を纏った兵士たちに戦士が蹂躙される。首を剣で断たれ絶命する戦士。心が折れ神に乞うただの男を幾つもの槍で突き刺す。逃げ惑う者たちを、術師の魔弾が逃さない。
そして。
戦場に走る地獄の火を、小さな竜が創り出す。
口から溢れる豪炎が戦地を焼く。人影を呑み込み、塵一つ残さず灰燼させる。
咆哮が、夜空に轟く。
それはまるで、早い勝鬨のようにも思えた。
「────っ」
キュルシャトが苦虫を噛むような表情を浮かべる。口端からは血が一本線を引いて流れ、一滴一滴が静かに落ちていく。
常勝の王は、今まさに負けようとしている。
これは避けられない。もはや定められた運命だ。陥落寸前の城塞で起こるのは一方的な虐殺と、目の前の光景が物語っている。
だから、その最悪を回避するには。
横合いから思い切り、殴りつけるしかないのだ。
奴らが思いもよらない、切札によって。
『……お父様』
立ち尽くす王の背後から、乙女が言う。
『あの方は、味方ですか』
乙女の視線の先には、『彼』がいる。
『この戦いを終わらせてくれる、人なのですか』
キュルシャトは答えない。しかし彼女も馬鹿ではない。父が都合の悪いことを自分だけには言わない、と彼女は知っている。
『──ならば、私は喜んでこの身を捧げましょう』
『ソフィア』
キュルシャトが振り返る。
乙女の目は揺れ、そこには強い意志が宿っている。
『身を捧げようと、血と魂だけは譲りません。私の命は臣民に、そしてキュルシャト陛下、あなたに捧げたのですから』
『おお──』
嗚咽が口から漏れ、王は乙女を強く抱擁した。
まるで今生の別れを、惜しむかのように。
暫く二人は強く抱きしめた。やがてキュルシャトが離れ、強く『彼』を睨みつける。
「貴様」
「二言はない」
『彼』は歩を進める。冷淡に照らす月明かりが、彼の影を大きくする。
『彼』が二人の眼前で立ち止まる。
暗い影が二人を飲み込む。その中で『彼』言う。
「約束は違えない。打開するのは、この私だけ」
「……っ」
王の顔が、大きく歪む。
契約は、ここに成った。
「よろしい」と『彼』は言い、顔を乙女に向ける。
悪意を模ったような笑みが、ふと柔らかくなった。
「本当、綺麗な人だ。跪きたくなるほどに」
『えっ……?』
狼狽する乙女を他所に、『彼』は即座に顔を逸らした。
痩せ干せた足を、城壁の堀にかける。
纏う襤褸が風にはためく。戦風と戦場の香りが『彼』の鼻腔を擽る。
戦い、死に、糞みたいな血溜まりの臭い。
「いい月だ」
『彼』は頭上を見上げ言う。
あれほど忌み嫌っていた、一筋の月明かりすら許さなかった『彼』が、夜の海に浮かぶ月を見ながら言う。
「こんなにも良い夜なんだ。
そう嘯いて『彼』は。
足を蹴り、聳え立つ城壁から落ちていく。
真っ逆さまに、戦場へ。
血の溢れる晩餐へと、赴く。
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