3
翌日、夕方になって、それまで自分の部屋に引き籠もっていたルーカスが、一階のリビングに降りてくると、出しぬけに言った。
「レイラ、丘の上の樹に水をやりに行かないか?」
たしかに、毎年八月三日にすることになっていた水やりの習慣を今年は忘れてしまっていた。
「私はいいけど、お母さんは良いって言ってるの? 普段は外に出るのは禁止で、八月三日は一日だけ特別っていう話だったでしょ?」
「いいんだ。ちょっと外に出るくらいなら大して問題ないよ。それに、お母さんは六時まで帰ってこないらしいから」
私はソファから立ち上がった。
「ルーカスがどうしてもって言うなら行くよ。でも、後でお母さんにばれて𠮟られても知らないからね」
私たちは芝草に包まれた丘を上った。輝かしい秋の橙色の陽光をはらんだ穏やかな夕風が芝草を撫ぜて丘を下っていった。ルーカスが右手に本を持ち、左手に水をたっぷり入れたバケツを持ち、先に立って歩いて、私はその数歩後ろをついていった。いつものようにはしゃいで歌を歌いながら、ではなかった。ルーカスはひどく無口だった。
丘の上に着くと、ルーカスはまず先にバケツの水を木の根にぶちまけた。そして木の幹に背をもたせると本を開いた。私はルーカスの肩に首をのせるようにして、ルーカスの手にある本を覗き込んだ。するとルーカスは照れくさそうに本を閉じて表紙を見せて(村上春樹の『ノルウェイの森』)、またすばやく栞を挟んだページを開くと、そこに書いてある文章をゆったりと読み上げた。
《……いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしても、たとえ何が起っていなかったとしても、結局はこうなっていたんだろうと思います。あるいはこういう言い方はあなたを傷つけることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝ります。私の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないでほしいということなのです。これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきことなのです。この一年あまり私はそれをのばしのばしにしてきて、そのせいであなたにもずいぶん迷惑をかけてしまったように思います。そしてたぶんこれが限界です。……》
数瞬の沈黙。
そして、ルーカスは本を閉じると、私から身体を離して、私に向き直った。午後の陽射しがルーカスのつやのある髪に当たって、頭の天辺に天使の輪のような光の模様を描き出していた。
「昨日からずっと考えて決めたことなんだけどね、僕は、病院に入ることにしようと思うんだ」
「でも、——」
私がそう言うと間もなくルーカスは鼻を鳴らして微笑んだ。その笑顔は優しい、けれど、わずかでも触れればたちまち壊れてしまいそうな、そんな笑顔だった。それで私はもう何も言うことができなくなってしまった。
「あんまり突然すぎるって思うかもしれないね。でも、僕はさ、レイラに僕の良いところだけを見てほしいんだ。弱いところとか、苦しんでるところとか、そういうところはあんまり見せたくないんだ。昨日と今日いろいろ考えて、やっとその気持ちに気付いた。これはレイラのことを思って言ってるわけじゃなくてね、僕の気持ちなんだ。だから、一年間病院に行って、病気を治して、元気になって、またレイラと暮らしたい。健康になって社会とのつながりも持てるようになりたい。外界との摩擦や苦労を全部レイラにおしつけるなんてそんなことは僕には出来ないんだ。もしかしたらこういうのってあんまり自分勝手すぎるのかもしれない。でも許してほしいんだ。僕のわがままを、一生に一度のわがままを、聞き入れてほしいんだ」
私はただうなずくことしかできなかった。何か一言でも口をきけば、とめどなく言葉と涙があふれてきそうで。
ルーカスは本を胸に抱え直すと、真上の葉叢を見上げた。私も同じように見上げた。木の葉の重なりから洩れる日の光が目にしみた。
あっ、とルーカスが声を上げた。なに、と私が聞くと、ルーカスは木の葉の中を指さして言った。
「ねえ、木の実がなってるよ」
ルーカスの指先をじっと見つめると、たしかにそこには木の実があった。真っ赤でつややかな、手のひらの中に握れるくらいの小さな木の実。よく見ると、葉と葉の間に赤い小さなつやめきがいくつもいくつもあった。
「この木に実がなるなんて知らなかったな」
ルーカスはそう言いながら、一番手近なところにある実を一つもぎとった。私のすぐ近くには木の実は無かったので、少しジャンプしてやや遠くになっていた木の実を取った。
「どんな味がするんだろう」
ルーカスは木の実をまじまじと見つめながら言った。
「さあね。でも、食べるのはやめときなよ、あっ——」
ルーカスは私の言葉も聞かずに木の実を齧っていた。そして、渋い顔をすると、地面に向かって口の中のものを吐き出した。
「ああ、すっごく苦い。ぜんぜん食べられたもんじゃないよ」
私たちは顔を見合わせて笑った。風が私たちの間を通り抜けた。ルーカスは木の実を地面に棄てた。私は木の実をポケットにしまった。
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