2

 九年前の八月三日。

 八月三日。ルーカスの誕生日。そして、私がこの家に来た日であり、もしそう呼ぶことが許されるのなら、私の誕生日でもある。この日、年に一度だけ、私とルーカスは丘を降りて麓の町ケイアスに二人きりで出かけるのがならいになっている。なぜこの日だけかというと、ルーカスは体が弱くて(医師の診断:光線過敏症)、母親が、普段は外に出ることを許さないからだ。けれど、八月三日だけは特別だった。なぜならこの日、私たちは誕生日の子どもたちなのだから。

 私たちはその日、ヴォントゥーゼ海岸に出かけることにしていた。ルーカスが海に行きたいと言って、それならヴォントゥーゼ海岸にしようと私が提案したのだった。

夕方、太陽が西の空に傾いて、窓から射し込むその光が黄色に変わり始めた頃、私はルーカスの部屋の扉をノックした。しばらく待って返事がなかったので、そっとドアを押すと、白のフランネルシャツの、こころもち猫背のルーカスの背中が目に飛び込んできた。

「ああ、もうそんな時間か」 ルーカスは本から顔をあげると、まぶしそうにこちらを振り向いて言った。何日ぶりにか太陽のまだあるうちにカーテンを開けられた窓の中には、ぼんやり黄色に暮れた、雲の白さと後景の青さの空が四角く切り取られていて、ルーカスは、その窓から射し込む午後の陽光にすっぽり包まれていた。私が机の上を覗きこむように顔を近づけると、ルーカスは照れくさそうに本を閉じた。表題は『ノルウェイの森』。

 私の顎の下で、潤んだ唇が動いた。「いま、お母さんって家にいる?」

「いないよ、麓の町に買い物に行ってる」

「そこの扉を閉めてくれないか」

 私は振り向いて、一歩下がって後ろ手に扉を閉めた。

「レイラ、真剣な話なんだけどさ」

「うん」 ルーカスのいつになく低めた声音に私はやや身構えた。「どうしたの?」

「冗談に聞こえるかもしれないけど、全然冗談で言ってるわけじゃないんだ。だからレイラにも真剣に聞いてほしい」

「分かった、真剣に聞くよ」

「お母さんが僕に病院に入れって勧めてるのは知ってる?」

 ルーカスはその頃、日増しに抑うつ的な状態を示すことが多くなっていた。自室に引き籠もっていることが多く、無口で、たまに話しかけても生返事しか返してこない。原因が何だったのかは今でもわからない。そのときは、一過性のものだろうからそっとしておくのがいいと思っていたが、その判断が正しかったのかどうかもよく分からない。ただ、あるとき手首の不自然な傷が母親に露見してから、精神病院に通い始め、この頃にはいくつかの向精神薬と睡眠薬を処方してもらっていた。

「病院って精神病院のこと?」

「そうだよ。セル山の高地療養所で一年ちょっと暮らして、病気をすっかり治して来いっていうんだ」

 この言葉は私にとってあまりに思いがけないことだった。聞き終えてから、一瞬、どう返すのが正しいのか分からなかった。それで思った通りのことを言うことにした。「ひどいよ。あんな寂しいところにひとりで行けだなんて、それに一年以上もだなんて。まったくお母さんはときどき何を考えてるのか分からない」

「レイラ、僕は今すごく怒ってるんだよ」

ルーカスがすごむようにそう言ったので、私はいくらかたじろいだ。「うん、よくわかるよ。そういう気持ちってすごくよくわかる。そんなところ行かなくていいと僕は思うよ。第一この丘の上の家と、山の上の療養所と、何が違うっていうんだろう? そういう療養所って、学校に疲れた子どもとか、会社に疲れた大人とか、そういう人たちが社会との関係をリセットするためにいくところだろう? 僕らはそもそもこの丘の上だけに暮らして、社会とは何のかかわりも持っていないじゃないか」

「さあね。でも療養所では、一日三回薬物入りの食事が提供されて、患者たちは日がな一日まどろみながら、幸せな夢の中に暮らして、嫌なことを全部すっかり忘れるそうだよ」

 私はちょっと言葉に詰まった。「でもルーカスは、この丘の上の家でゆっくり自分の問題と向き合って治るべきだよ。お母さんはもしかしたらルーカスが大人になったときの苦労を考えてそんなことを言ったのかもしれないけど、っていうのも普通は大人になったら少なからず社会とのかかわりを持たなくちゃならなくなるから。でも、僕はルーカスがそんなこと考える必要はないと思う。もしも病気との闘いが長引くのなら、そのときは、ルーカスは僕と一緒に暮らせばいい。ルーカスが社会とのかかわりを持てない分、僕が社会との絆を保つ。そういうのってとても素敵なことだと思うんだ」

「ねえ、レイラ、僕が考えているのはもうそういうことじゃないんだ。もちろん、はじめはそうするのがいいと思っていたよ。でも最近、色んなことが頭に浮かんでくるようになってさ、昔のこととか、不安なこととか、不満なこととか、そういうのがいっぱい心の中に溜まっていて、そろそろ我慢の限界らしいんだ。それで僕はね、レイラ、この家から出ていくことにしようと思うんだよ」

 家出。この突拍子もない非現実的な響きの言葉。私はルーカスが本心からそう言っているのか、それともほんのちょっとした思いつきで言っているのか見きわめかねた。それで、しばらく考えてからためしにこう言ってみた。

「それなら、ルーカスが家出するなら、私もついていくから」

「どうして?」 ルーカスは本当に目を丸くして言った。「どうしてレイラがついてくるの?」

「だって、——」ルーカスの本格的な驚き方が思いがけなくて、私は顔が赤くなるのを感じた。

「……だって、私はルーカスなんだから、いつまでもどこまでも一緒だよ」

 ルーカスは腕を組んでうつむいて何か考える風だった。私は畳みかけるように言った。

「ねえ、ルーカス、とりあえず街を歩くことにしない? どうするにしても、まずは色々なことを整理しなくちゃいけないと思うんだ。街を歩きながら考えをまとめて、どこかいい場所を見つけて、そこで二人で相談しようよ。それに私、DEFカフェに行きたいし」

 ルーカスは顔を上げて言った。「そうだね。もう行こう」

 私たちは丘を下り、街を横切った。私たちは横並びに歩き、どちらかが話題を見つけるとそれについて話し、話題が尽きると、しばらくはビルや互いの横顔を眺めながら歩いた。私の長い髪が、時どき埃っぽい風に吹かれてはルーカスのうなじに触れた。街はこの前に来たときから随分変わっていた。アプレス通りのDEFカフェは無くなっていて、そこには代わりにピンク色のアパレルショップが立っていた。そこから三ブロック先にあった古着屋はけばけばしい色の菓子を売る店になっていた。私たちはそのどれをも珍しそうに見て、時おり感想を述べあったり、首を傾げあったりした。それにしても、街は着実にその姿を変えつつあった。丘から降りて来た私たちだけが、いつもいつまでも相変わらず、その変わりゆく街に無邪気に好奇心をそそられていた。

 私たちはキャッシー通りで別のカフェを見つけて、そこに入り、コーヒーと、パンケーキはあいにくなかったのでホットケーキを注文した。店の中では古いレコード音源が流れていた。女の人の声が「ダス・ギブツ・ヌア・アインマル、ダス・コムト・ニヒト・ヴィダ……」と歌っていた。私が右側の窓から外を流れる車の数を数えながら、その『ダス・ギブツ・ヌア・アインマル……』に聞き入っていると、ルーカスが机の上の私の掌をくすぐった。どうしたの、と聞くと、ルーカスは左の方を指さして、コーヒーとホットケーキが来たことを知らせた。

 注文してから食べ終えるまで、私たちはあまり喋らなかった。私は夏の陽射しの中を歩くのにいささか疲れていたし、ルーカスは自分の頭の中に閉じ籠って何か考える風だったから。

 お会計を済ませて(財布は私が持っていたので、私がお金を払った)店を出たとき、ルーカスが私の手を取って言った。

「ねえ、これから玉依神社に行かない? 三年前に神社から花火大会を見たのを思い出してさ、ちょっと行ってみたくなったんだ」

「海とは反対の方向だよ」

「気分が変わったんだ。海はさ、ほら、ちょっとした思いつきだったんだよ」

 私たちは神社に行くことにした。

 私たちが神社に続く坂道を登り切ったとき、時刻はすでに六時を回っていたと思う。日は地平線の彼方に沈みかけ、鮮やかに赤い陽光は積乱雲からちぎれた小さな雲を押し流していて、大気を宵の涼しさが蝕みはじめていた。

 私たちは社殿を囲む森に入った。木立の隙間に一歩足を踏み入れた途端、ひんやりした空気が肌にしみて、心地よかった。木の背は低く、森もそう深くもないのだが、とはいえ葉の重なりに遮られて、森の内部まで薄い日の名残りは入ってこない。目の前のルーカスの背中さえ見分け難い薄闇の中で、私は何度か木の根方につまずいて転びそうになった。辺りはしんとしていて、虫の音すら聞かれない。腐葉土を踏みしめる私たちの足音と、すぐそばを滾々と流れる川の音だけが耳にまつわりついた。

 やがて、木立の群がりの向こうに、石作りの社殿が見えてきた。社殿の下を川が潜って流れていて、社殿の下の方は苔むしている。石は森の暗みの中につややかだった。

 ルーカスは社殿の石畳に座って、足を川の中に泳がせた。私も隣に座ってそれにならった。

 風が川を上って来た。街の音を運んできた。すでに夜風だった。私は目を閉じた。すると、目の前にあの三年前の八月三日がよみがえって来た。……宵の口。星の無い、黒のとばりが下ろされたような夜空。突然、何百という火花が低空に稲妻のように光ったかと思うと、その煙を飛び越えて二、三輪の夜の花が咲いた。爆発音が風に乗ってやってきた。やがて大輪の花火が一輪咲くと、その周りを埋め尽くすように何十という真っ赤な花が咲き乱れた。火の粉が夜を背に瞬いた。おびただしい光の群れが夜に咲いては消え、消えてはまた咲いた。そしてあるとき、夜空が輝かしく明るみ渡ったかと思うと、足を舐む川は一面に星屑を撒いたようになった。……

 ゆっくりと目をあけて隣のルーカスを見ると、ルーカスはまた何か考え込む風だった。私は川面の水を掬っては落とし、掬っては落としを繰り返した。川面には千々の光が乱れている。月の反映らしい。

月の反映。月のコピー。

ルーカスがおもむろに口を開いた。

「今日は付き合ってくれてありがとう。少し落ち着いた気がする」

「どういたしまして」

「家出は、やめておくことにするよ」

「そう」 私は安堵から溜息を洩らしたかもしれない。

「ねえ、ずっと気になってたことなんだけどさ」

「うん」

「聞いてもいい?」

「いいよ」

「その、誰かのクローンであるって、どういう感じがすることなの?」

「どういう感じってどういうこと?」

「感情的にどういう感じなんだろう、っていうか、どんな気持ちでいつも過ごしてるんだろうって思って」

「どうして?」 私はルーカスの質問の意図がうまく飲み込めずに言った。「どうしてそんなこといま聞くの?」

「いや、ごめん、気を悪くしたなら謝るよ。ただ、いつも気になってたからさ、つい思いついて聞いちゃったんだ」

「気を悪くしたなんてわけじゃないよ。でも、そう言われてみると、難しいな。今までそんなこと考えたこともなかったから」

「いつもオリジナルと一緒に暮らしててさ、たとえば、オリジナルと自分を比べちゃうとか、オリジナルがいるのに自分って何なんだろうって考えちゃうとか、そういうことってないの?」

「そんなこと言われても、ルーカスはルーカスで、僕は僕なんだから」 私はまだ要領を得られていなかった。

「そっか、当たり前だよな。でも、僕はそういうこと、よくあるんだ。レイラがいるのに僕って何なんだろう、ってよく考えちゃうんだ。

 レイラと僕を比べたらさ、僕の方は身体が弱くて、心も弱くて、普通の子どもたちみたいに生きられなくて、丘の上の家でしか生きられなくて、それに刃物を使って自分で自分を傷つけるようなこともして、それで薬も飲むようになって、薬がないと生きられなくて、……でも、レイラはそういうのが全然なくて、お母さんからも可愛がられてて、それじゃあ、一体僕って何なんだろう、僕が生きてる意味って何なんだろうっていつも考えちゃうんだ。そんなの分かりっこないって分かってるのに、それでも、考えちゃうんだ。

 誰かのオリジナルであるってことが、うまく飲み込めないのかもしれない。だから、レイラに聞いてみたんだ。クローンであるってことがどういうことか分かれば、その反対のことも分かるんじゃないかって思って。でも、本当は何にも考えないのが正しいのかもしれないな」

 私は川面の水を軽く蹴飛ばした。月の反映が揺らいで砕け、また元に戻った。

「最近、そういうことばかり頭に思い浮かぶようになってさ、それでどうしたらいいか分かんなくなっちゃってたんだ。それに、お母さんは僕を家から追い出そうとするしさ。もう何が何だかわけわかんなくなっちゃってたんだ。これからどうやって生きていくのかも、自分が何なのかも、分かんなくなってきたんだ。生きてるってどういうことなのか、分かんなくなってきたんだ……」

 ルーカスはそう言うと頭を抱えてうずくまった。低声(こごえ)で繰り言をつぶやきながら、目からは一杯の涙をあふれさせて。私はそれを見て、けれど、私にはそのとき、暗闇の中でそっとルーカスの肩を抱き寄せることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る