▼第五十八話「神舞幻手」メンネフェル大神殿編⑪




 アヌビアは汚れたドレスのまま、登場した。顔に墨もついている。あの美しかったアヌビアが、と観衆たちは騒めきだした。

 しかし、顔は凛としている。まるで汚れなどついていないかのように、真っ直ぐな眼差しである。


 そして、演舞が始まった。アヌビスはただただ無心に、舞いを奉じた。それは、いと高き場所との交感のように見えるほど、なにか舞いとは別次元のもののように観衆には思われた。見惚れる、でも足りない、感動する、でも足りない、心の臓を掴まれたまま、夢幻の世界へと引き回されるような心地であった。アヌビスは身剣合一の境地を、この土壇場で、舞いにも応用したのである。すべての流れが、アヌビスには見えた。場の空気は、完全に変わった。サリスは、愕然としながら、その舞を見ていた。そして、歯ぎしりをしたと思った次の瞬間、一流の舞い手だからこそわかる、格の違いを理解した。認めたくはなかったが、認めざるを得なかった。サリスは、襲い来る人生初の敗北感に、がっくりとうなだれた。もはや、彼女が画策した服や顔の汚れなど、些事であった。身体は全体の一部に過ぎず、アヌビスの舞によって出現する、王道楽土の世界に大衆は酔い痴れた。それは、肉体を使った言語である。アヌビスの舞を通じ、楽曲ですらも、また違ったように聞こえてくる。仄暗い意識の底から、遠い日の幸せな思い出が蘇ってくるような、忘れかけていた自分自身と再び対面するような、それぞれの魂を震わせる舞いだった。アヌビスは、心を空にして、曲と舞いとに没頭し、身体の求めるままに動いた。空間が歪み、光であふれた。


 アヌビスが気付いたとき、舞いは終わっていた。審査員たちは、総立ちになり、拍手をして喝采した。

 誰もが、理解した。これまでの舞は、ただの遊戯であったと。


 審査員は、全員が満点を彼女に贈った。満点でも足りない、と審査員長が絶賛するほど、アヌビアの舞は人の限界を超えていた。

 そこに十万人の一般投票が、十票で一点に換算され、加点されることになったが、もはや集計するまでもなかった。親族以外はみな、アヌビアに票を投じたのだから。

 そしてヌビアの公女アヌビアは、審査員一同から【神舞幻手】と讃えられ、メンネフェルの歴史に、その名と伝説とを刻んだ。その舞いを見た誰もが、人間の為し得る以上のものを見た、と衝撃を受け、永遠にこの日のことを語り継ぐことは間違いなかった。誰よりも早く似顔絵を描かせていた商人は、自らの先見の明を喜び、誇った。


 そして神殿長ジャルエルドが、優勝のメダルをアヌビアの首にかけるために、演台の前にやってきた。


「本当に素晴らしかったですよ。あなたの舞を見て、命が長らえました」

「光栄ですわ」


 アヌビアは、ジャルエルドの身体に抱き着いた。


「あら失礼、私の国では感情表現が豊かですの」

「ほっほっほ、また寿命が延びましたわい」


 ディラとインプトは、アヌビアが抱き着いた瞬間に、ジャルエルドの衣服に飛び移っていた。二人は、魔道具によって、限りなく小さく縮んでいたのだった。


 ジャルエルドはこの仕事ののち、式典の終わりに使う<ラーの鏡>を宝物庫に取りに行く役目がある。あらゆる障害、セキュリティも、ジャルエルドと共に宝物庫に入れば、まったく意味を為さない。

 これがディラの考えた、アヌビスを利用して宝物庫に入り込む作戦である。無論、脱出は別の手段を講じてあった。


「まったく、高いドレスを汚してからに」とディラはぶつくさ言っていたが、これから頂く宝物の価値を考えれば、そして、アヌビスに賭けた金額を考えれば、そんな怒りも吹き飛んだ。

「ディラ、私酔っちゃった」とインプトが言った。アヌビスの縦横無尽の舞は、捕まっている側には相当な負荷があった。アヌビスはそれすらも計算外にして、ただひたすらに舞いに集中していたのだ。

「まだまだ修行が足りんな」



 式典の中継が終わるなり、エアブカリと名乗る、疲れた顔の情報局長がアヌビアの前に現れた。


「セト王が、是非会いたいと仰っておられます」

「セトが!?」思わずアヌビスは素で叫んでしまった。

「エジプト語がまだ十分ではないようですな、公女。セト王を呼ぶとき、尊称を必ず付けるように」

「で、でも、演舞で疲れておりますし、服も顔も汚れておりますから……」

「王は構わぬと仰っています」


 アヌビスはラーをちら、と見やった。ラーは行くしかあるまい、と言った。「断れば怪しまれるだけだ。あやつから逃げおおせることなど、いまのお前には不可能だ」


「で、では、せめて心の準備を……」

「あなたの事情を慮ることができなくて申し訳ない。王はた……多忙ゆえ、すぐにゆきましょう」思わず短気と言ってしまいそうになり、エアブカリは別の言葉を慌てて継いだ。


 そしてアヌビスはエアブカリに連れられ、大神殿二階の奥、王の座の前へと連れてこられた。


「この奥に、セト王がいらっしゃるの?」

「ええ。どうぞ、失礼のないように。我が君は、少々苛烈ゆえ」

「少々?」とアヌビアは聞き返した。エアブカリはなんの返答もしなかった。どこからでも、セト王には言動をすべて見られている、と警戒していたのだ。


 アヌビスはその部屋へ入る前に、深呼吸をした。なるようにしかならない、と覚悟を決め、一歩を踏み出した。


 そしてアヌビスは、数か月ぶりにセトと対面を果たした。といっても、闇の狼の姿しか知らなかったので、人の姿は初めて見ることになる。


 セトは頭を剃りあげており、左目を中心に、斜め十字の大きな傷跡があった。眉毛もなく、冷徹な印象をアヌビスに与えた。そしてなんといっても異様なことに、セトの眼球は、通常白目の部分が黒く、黒目にあたる部分が白かった。それは視線を交わすだけでも心が寒々しくなるような、恐ろしい瞳であった。全身から強者の発する威圧感が溢れており、アヌビスはとてつもなく強い向かい風のなか立っているように思えた。


 朝、あらかじめ匂い消しを塗りたくっておいたが、汗もかいた。もしかしたらまた匂いで気付かれ、殺されるかもしれない——そう思うと、さらに身体中から汗が噴き出てきた。


「やあ、よく来てくださいましたね」セトはいつもの慇懃な口調で言った。

「は、はい、セト王……。あっ。ご機嫌麗しゅう」

「やけに緊張しているみたいですね。大丈夫ですよ、取って食べたりはしませんから」とセトは言った。そこに感情は感じられない。

「き、きききき緊張ですか???? し、してま、してませんよ、ほほほ本当に……」

「神舞幻手」とセトは言った。「あなたの舞は、本当に素晴らしいものでした。何か褒美をひとつ取らせましょう」

「褒美ですか? ありがたいですが、わたくしはなにも要りません」とアヌビスは言った。この場から早く立ち去りたい一心である。

「いえいえ、あなたほどの名手を手ぶらで返しては、メンネフェルの名が廃ります」

「どうか、お気遣いなく。謁見の光栄に浴せただけでも、わたくしは幸せですわ」


 アヌビスは滝のような大汗をかき、メイクすらも滲むほどであった。


「ところで、あなたの母親のことを聞かせてくれませんか?」

「わ、わわわわたくしの母ですか?」とアヌビスは焦って聞き返した。いろいろと設定を考えていたが、事ここに至っては、すべてが頭の中から消し飛んでしまった。


 セトは身を乗り出した。それは凄まじい威圧感である。特別強大な砂嵐でも、セトからは逃げるだろう。アヌビスは数か月前に起きた、セトの闇の呪いを思い出し、思わず小便をちびりそうになった。


「あなたの母親は、ひょっとしてイシュタルではないのですか?」

「イシュタル……?」


 アヌビスは思ってもみない言葉を聞き、演技抜きで戸惑った。その驚いた顔に、アヌビアが本当に心当たりがないことを、セトは見抜いた。


「それはもしや、あのウルのイシュタルさまですか?」

「ええ、そのイシュタルです」

「確かに、光栄なことに、イシュタルさまになぞらえて褒められることはありますわ。どことなく似ていると言われて、悪い気はしません。ですが、私の母はイシュタルではありません、ヌビアの貴族です」

「どことなくどころか、瓜二つですよ。とくに、その目が」

「あ、ありがとうございます」

「あなたの生い立ちを詳しく聞かせて貰えませんか?」

「ええ。是非に。ですが、今日は少々疲れてしまいました。申し訳ありませんが、また明日でも構わないでしょうか?」


 セトは笑った。しかしそれは、単純に好意を見せるためではなかった。


「ところで、あなたはどうして女装しているのですか?」


(つづく)

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