▼第五十七話「陰謀と棄権」メンネフェル大神殿編⑩
アヌビスがアヌビアとして画面に登場した際の熱狂は、凄まじいものだった。そして、彼女の自己紹介に至ったとき、それはさらに爆発した。
メンネフェルの住民たちは、蒙を啓かれた。美とは何か、を、各自が目の当たりにした。人々は「立てば芍薬、座れば青睡蓮、歩く姿は百合の花」と喝采し、目ざとい商人などは、早速アヌビアの似顔絵を絵師に描かせた。翌日にでも売り出せば、いい金になる、と確信したのだ。
アヌビアは特別なことをしたわけではなかった。ただただ通り一遍の自己紹介をしただけだ。しかし、たったそれだけのことで、本物だけが放つ圧倒的な説得力を見る者に与えていた。
自己紹介が終わり、投票が締め切られる頃には、単勝二十倍までにオッズは下がっていた。直前としては驚異的な売れ行きである。もし事前に姿が公開されていれば、オッズはもっと下がっていただろう。
その最終オッズは、少女たちの控える間にも掲示されていた。
それはメンネフェルの少女たちにとって屈辱であり、底知れぬ怒りをほとんど全員が持った。きつい気性のライラなどは拳を無意識に固めて震えていたし、良血のカヤも、そのオッズが示す狂騒に不愉快さを隠せなかった。なにせ数分おきにバタバタと黒板に書かれるオッズがどんどん下がっていくのだ。そして、最も強い反発を示していたのが、一番人気かつ前年度優勝者のサリスである。
——あの高慢な女が、なぜここまで民衆の支持を集めるの? みんな騙されているのだわ。このまま黙っているのは、メンネフェルの流儀に反すること。あの外国女に、この伝統ある大会を食い物にされてたまるものですか。私がメンネフェルの誇りを守らねば。
そうしてサリスは、自己の怒りをナショナリズムで正当化し、外国勢力の刺客を排撃するべく、一計を案じた。
自己紹介ののち、出順を決めるためのあみだくじが行われた。メジェディアは五人目、アヌビアは大トリの十人目となり、競技が始まった。
まず一番のナフテトが神官の前で一礼した。緊張で頬を赤らめ、初々しさを感じる。そして、舞いを披露した。が、それは溺れかけている鵞鳥のように見え、優雅さは微塵もなかった。元々、舞いの実力は大したものではなく、家族が強引に出場させただけだったので、これは致し方ないところだろう。
そして各審査員がその演技を採点した。審査員は十人で、各自百点満点、計千点満点で採点される。彼らは舞の名手であり、メンネフェルの芸能を担う重鎮たちだった。それぞれ目が肥えているだけあって審査は厳しい。ナフテトは平均五十点の五百十点を獲得した。
舞いを終えたナフテトは、ようやく難事が終わったとばかりに安堵の息を吐き、演技後のコメントもそこそこに、すぐに掃けていった。
二番手に出てきた優勝候補カヤは、代々優勝してきた家系だけあって、本当に素晴らしい舞いを見せた。鮮やかかつ華麗であり、動きのひとつひとつに意図があった。キレもさることながら、全体を通して流麗に演技をつなげており、完成度が非常に高い。まるで舞いを踊るために生まれてきたかのようだった。審査員たちはその出来に度肝を抜かれ、みな高得点を献上した。その得点は驚くなかれ、九百四十六点、例年であれば優勝圏内の高得点である。その得点を見てカヤは満足し、視聴者たちに向かって勝利のサインを送った。視聴者は、初出場のこの美少女を見て、応援せねばならぬ、という義侠心めいたものすら芽生えた。
三番手のライラは舞を踊っている途中、身体のバランスを崩し、転倒してしまった。四百二十点。四番手アーティカは……放送できないものを口から吐き出し、二年連続で出禁という、ある種の金字塔を打ち立てた。もはやどれほど裏金を積もうとも、二度と出場出来ないに違いない。もちろん、採点不能であり、失格である。民衆たちはアーティカのざまを見て、げらげらと笑ったり、あんな娘を出すくらいなら、うちの娘を出させろ、と吠えたりした。
清掃員たちがアーティカの吐瀉物を片付けているあいだ、サリスはここが好機、と見定め、内通している職員にサインを送った。
すると、水瓶を持った男が、躓いたふりをした。そして、アヌビアとメジェディアの顔をめがけて、その中身をまき散らした。
その中身は、墨であった。
「うわ、うわああああああ!!!!!!!!」と叫んだのは髪まで真っ黒になったメジェディアである。純白のシルクドレスが、見るも無残な姿になった。
その墨が降りかかる直前、アヌビスは男の殺気立った目つきがおかしいことに気が付き、咄嗟に身を引いたものの、それでもドレスに真っ黒な染みがいくつもついてしまった。アヌビスがまず思ったのは、ディラが見たらさぞ怒るだろうな、ということだった。それからメジェドの変わり果てた姿を見て、アヌビスは激怒して叫んだ。「誰だ、これを仕組んだのは!!!!」
業腹なことに、メンネフェルの少女たちは二人が慌てるのを見て、一様にくすくすと笑うばかりであった。なかでもサリスはさも満足だという顔をして、勝ち誇った顔をしている。アヌビスはさらに激し、もう一度怒鳴った。「これがメンネフェルのやり方ってことか!?」
そんななか、ロワリスという少女だけはメジェディアとアヌビアに駆け寄り、彼女たちを気遣った。そして、スタッフたちから布を受け取ると、それをメジェディアとアヌビアに手渡した。
「本当にごめんなさい。私が謝っても許されないことだけど、メンネフェルのこと、嫌いにならないでくださいね」
「あんたが同じ立場なら好きなままでいられるのか?」アヌビスは男言葉で返した。
「そうね、難しいと思う。でも、メンネフェルの人々全員がこんな風だなんて思わないで欲しいの」
アヌビスはこの少女に腹を立てても仕方ないと思い、怒りの矛を収めた。が、これはただの余興ではない。メンネフェル大神殿の地下宝物庫に潜入するのに、必要不可欠な過程だったのだ。メジェドはもう出場できる状態ではない。アヌビスはというと、服が墨で汚れた状態で、顔にも墨が飛び散っている。
「アヌビアさま、私は棄権します。本当にすみません」とメジェドが言った。半泣きである。これが作戦上欠かせない重要な一部だと自覚しているだけに、メジェドの心に絶望感が押し寄せる。
「よろしくてよ。私に任せなさい」とアヌビスは怒りに顔を引きつらせながら言った。とはいえ、顔も服も汚れており、客ウケがよいかどうかは甚だ疑問である。
そこに、サリスが悠然とやってきた。放火犯は現場に戻るというが、サリスも同様に、憎き仇のざまを間近で観察したいという気持ちが抑えられなかった。
「あらあら、そんなお顔になってしまって、残念だったわねえ」とサリスが悠然とやってきた。
「お前がやったんだな」アヌビスはサリスを睨んだ。
「何を言っているのかしら? でも、あなたには汚れたドレスがお似合いよ」
「ええそうね。これくらいのハンデがなきゃ、差が付き過ぎてつまらないわ」
「なんですって!!」とサリスは目を剥いて怒りを露わにしたが、そのときちょうど六番手のシャリーファの出順が来たため、神官に諫められた。二人は無言でにらみ合った。
シャリーファは昨年よりもはるかに円熟した演技を見せた。春の朝、ナイル河に立ち込める朝靄のような幻想的な空間を舞いによって作り出し、見る者を魅了し、陶酔の世界へと連れ出していった。それはまさに、誰が呼んだかナイルの妖精のようだった。そして審査員たちはこぞって高得点をつけ、なんと九百五十点という最高得点を叩き出した。良血の本格化である。もはやサリスの時代は終わったのか? とメンネフェル人たちはあれこれと意見を交わし合った。
ヤーサミーナも健闘したものの、シャリーファのあとでは精彩に欠けるように見えてしまった。九百二十点。
昨年準優勝の二番人気ロワリスは、さすがに堂の入った演技を見せた。美貌もさることながら、舞いも見事であり、体捌きの極意を身に着けていた。優雅な舞いは、メンネフェル人の郷愁をも誘い、うっとり眺める者もいれば、涙ぐむ者もいた。その得点は、驚異の九百六十点であった。急成長を遂げたシャリーファを降して、暫定一位である。そして、ちら、とサリスとアヌビアの顔を見た。サリスはライバルの視線に対し、いい気になっていられるのも今の内よ、とばかりに睨み返した。アヌビアの方は、ロワリスの演技を楽しんでいて、拍手までしていた。ロワリスは複雑な気分を味わいながら、演舞でかいた汗をぬぐった。この子は最悪の状況のなか、楽しむ余裕すらあるというの? なんという器の大きさか——。
そしていよいよサリスの順がまわってくると、サリスはアヌビアを睨みつけながら立ち上がった。
「そこで見ていなさい、私の舞を。メンネフェルの頂点は渡さない」
大口を叩いただけあって、前年優勝者サリスの舞踊は、それはそれは素晴らしいものだった。序盤は緩やかに、そして徐々に勢いを増していき、演目の終盤に差し掛かると、神々かと幻視するほどの舞を披露した。手をわずかに動かすだけで、憂愁の感情を表現する演技力は、天から与えられた才能というほかない。齢十五にして、舞いの奥義を極めたと言ってもよい。腐った性根に似つかわず、舞いだけは極上だ、とアヌビスさえもそれを認めざるを得なかった。得点は、なんと九百六十三点である。歴代でも屈指の高得点であり、実力は天下一品だ。あのラーでさえも「これは強敵だぞ」と認めるほどだった。
舞いを終えたサリスは、得点を確認すると、アヌビアを見据えて高笑いをしながら去っていった。
そして最後の最後に、アヌビアの出順がやってきた。
アヌビスは深く息を吐くと、雑念はすべて捨てて、演台に上がった。
——どうせ、審査員や観衆の評価は自分には決められない。どんな状態だろうと、ベストを尽くすことだけが俺に出来ることだ。
(つづく)
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