▼第三十七話「燃えろ、意念の炎」




 扉を開けると、そこには広大な空間が広がっていた。下り階段の先にはわずかばかりの地底と、深い藍色の水面を湛えた広大な地底湖が広がっていた。湿った空気のなかで、あちこちに設置されたかがり火が揺れている。湖面にはそのたくさんの炎の光が映り込み、まるで無数の星が水面に浮かんでいるようだった。天井からは大量の鍾乳石が一面にびっしり大小垂れさがっているばかりか、大地からもところどころから石の柱が突き上げるように隆起しており、それらが炎に照らされてみずみずしく光っている。地底でも燃え尽きないのは、空気坑がどこかにあるのだろう。天の鍾乳石から雫がぽとり、と落ちて、地底空間にその水音が響き渡った。


 その時、黒い影がアヌビスの視界の端をかすめていったような気がした。ほぼ同時に、大量の蝙蝠が飛び立ち、ばさばさと羽音を立てた。インプトは「きゃっ」と声を出してアヌビスに抱き着いた。アヌビスはインプトを引き剥がし、「しっ」と口に指をあてた。いつなんどき、あの火吹き蜥蜴が目を覚ますかもわからない。真剣な目をして耳を澄ませているアヌビスの横顔は、炎に照らされて、それは見事だった。インプトは一瞬のあいだ、見惚れた。


 ウプウアウトもあまりの感動に、思わず「すごい!」と言ってしまったが、即座にメジェドに口を押さえられた。「説明しただろ、ウプくん。危ないから、次から気をつけようね」


 石の階段を下っていくと、地底湖の形に沿って、細い道が続いている。右に折れて、まっすぐ一本道だった。


「この先を歩いていくと、広まった空間に出る。その空間の奥に、祠があって、なかに財宝があるが、それを火吹き蜥蜴が守っている」とラーが言った。アヌビスは頷いた。


 そして一行は、その空間に行きついた。円形の大地の中心に、その火吹き蜥蜴はぐっすりと眠っていた。体高三メートル、体長は尾まで含めれば二十メートルはありそうな、巨大な蜥蜴である。肌は固い鱗に覆われ、全身から火が燃え上がっていた。


 ウプウアウトは、炎を身体からも噴き出す巨大な火吹き蜥蜴を、目にしただけでパニックを引き起こした。メジェドは小声で必死になだめた。自分でも手で口を押さえて、どうにか感情を押し殺そうとする。しかし、徐々に恐怖がせり上がってきて、それは燎原の火の如く、ウプウアウトの心に燃え広がった。


 意識は炎に巻かれて、十年前の日に遡る。



 神殿や木々が燃え、たくさんの大人たちが、恐怖の表情で逃げまどっている。ウプウアウトはまだ四歳で、退屈な式典をこっそり抜け出して、外に鳥を眺めに来ていたのだったが、突然の爆発音と、建物の火災とが、すべてを変えてしまった。ウプウアウトは爆発によって舞い上がった積み石などの瓦礫が天空を裂いていくのを見て、脚が釘付けになってしまった。ウプウアウトのすぐそばにも、大きな石が降ってきて、すんでのところで圧死するところであった。ウプウアウトは腰を抜かして、脇にある巨石を見やった。

 時を同じくして、神殿からたくさんの人が走って飛び出してきた。その大勢の人々のなかに、衣服に火が燃え移った人が走ってきた。それは、ウプウアウトのよく知る人で、一瞬頭が混乱した。それは、ウプウアウトから片時も目を離さず、いつも無条件に愛してくれた乳母だった。ウプウアウトは叫びながら乳母に駆け寄り、燃え上がる炎を消そうと、脱いだ服を持って火元をはたいた。しかし、炎は消えない。ウプウアウトは発狂しながら、乳母にまとわりつく火を執拗に払った。乳母は、逃げなさい、と言った。ウプウアウトはそんなこと出来るはずがない、と叫んだ。その間にも、大勢の大人たちが走って逃げていった。ウプウアウトは必死に、だれか、たすけてください、と叫んだ。だが、誰にもそんな余裕はなかった。火の手が強盛になり、木がどこかで燃えて倒れた音がした。


 やがて、乳母がウプウアウトをじっと見た。


「あなたのことを、我が子のように愛していました……。どうぞ、ご無事で」


 その言葉を最後に、乳母は息を引き取った。


「死なないで、死なないで、死なないでよおおおッッ!!!!」


 ウプウアウトは泣いた。大地を殴り、泣き叫んだ。乳母を最後に抱き締めたかったが、燃えていて、それも叶わなかった。


 そのとき、一人の男が馬の上からウプウアウトの小さなむきだしの背中に気付いた。


「ここにおりましたか、殿下! その者はもう死んでおります、逃げましょう!」


 ウプウアウトは泣き腫らした顔を上げてその男の顔を見た。


「ゆくあては、あるのか」

「ええ。お母さまがお待ちです」


 ウプウアウトは心の中で乳母に別れを告げて、母の元へと男と共に馬で向かった。


 しかし、馬を二十分乗ってやってきた、集合場所であるナイル川べりの漁師の小屋は、燃え落ちていた。馬上の二人は、呆然とした。そして、ウプウアウトは地面に転がっている死体の数々を見た。どれもが、黒焦げになっている。そして、馬から降り、よろよろと死体に近付いていった。やがて、死体の身に付けていた装飾品から、母の死体を見つけた。変わり果てた母の遺体は、もはや顔が黒く炭化しており、母とは判別がつかなかった。母はどれほどくるしんだろうか。だれが、いったいこんなことを……。涙は、もはや枯れていた。あまりの衝撃に、ウプウアウトは気絶した。



 ウプウアウトは、巨大な火吹き蜥蜴の身体から凶暴に噴き出る炎を目の当たりにして、そのときの怒りや恐怖が、完全に呼び覚まされた。感情が身体を支配し、喉が裂けるほどに叫ぶ。


「もうやめてくれ、だれも殺さないでくれッッ!!!!」


 そして、その叫び声に呼応するように、火吹き蜥蜴がぎょろりとした瞳を開け、目を覚ました。


「しまった!!」とアヌビスが叫んだ。


 巨大な龍亜種・火吹き蜥蜴が口を開け、突然前触れもなく炎を噴き出した。それは巨大な炎のうねりであり、渦であり、災禍である。ウプウアウトをめがけて、その炎が襲い掛かる。


「もうだめだあああッッ!!」とウプウアウトは腰が抜けてその場に倒れ込んだ。間の悪いことに、ウプウアウトを支えていたメジェドも一緒に倒れ込んでしまった。「うわあああああッッ!!!!」


 アヌビスは、考えるより先に、脚が動いていた。


「七星歩法・<搖光閃歩ようこうせんふ>ッッ!!」


 アヌビスは炎と二人の間とに、素早く割って入って身体を大きく広げた。


「なんと危険な真似を!! アヌビス!! こうなったら神炎錬魄訣の口訣を唱え続けろ!!」

「応ッッ!!」


 アヌビスは炎をその一心に浴びた。強大な炎の渦が、アヌビスへと襲い掛かる。肉がじりじりと灼け、全身が燃え上がるほどの熱で張り裂けんばかりになった。


「ぐあああああッッ!!!!」

「アヌビス!!」とレンシュドラが叫んだ。

「口訣を途切らせるな!! 死ぬぞ!!」とラーが怒鳴った。


 激しい炎に焼かれながら、アヌビスは気絶するほどの痛みのなかで口訣を唱えた。


「その炎、恐れるべからず。その炎、心火の炎と同じにて、恐れる必要はなかりけり。神炎は、美炎によって磨かれる」

「いきなり何言ってんだよ!!」アヌビスは火傷の痛みで発狂寸前だった。

「いいから聞きながら口訣を唱えろ!!」


 ……炎は意志にて撚られ、数々の炎は大望に束ねられ、やがて大炎を為す。汝、炎の子は、太祖の炎のなかで産声をあげ、炎をもって糧と為す。炎は、身体の内外から、汝を育て、教え、導きけり。汝、炎を恐れるなかれ。炎こそ、汝の分かち身である。


 燃え上がる身体の、強大極まりない痛みという主張が心中でやかましいなかで、それでもアヌビスは心火を見つめながら、口訣を唱えた。

 肉を焦がす激しい痛みのなかで、ラーの言葉が頭の中で鳴り響く。

 

 すると、だんだん炎の感じ方が変わってきた。痛みではなく、抱擁のような感覚にさえ感ずる。これは——


「そうだ、神炎錬魄訣の伝授の時にやったあれと同じだ。受け入れろ。お前の恐怖と痛みとを。ただ、あるがままを、感じろ」


 そのとき、アヌビスの心火が火吹き蜥蜴の吐いた炎に感応し、お互いが強く惹きあったようにアヌビスは感じた。

 なぜかアヌビスは、その炎のなかに、寂しさや人懐っこさを感じた。


「お前、俺の中に入ってきたいのか?」


 アヌビスは、その炎と、対立ではなく、対話を選んだ。

 いままさに現実に身体を焼き焦がしている炎に、である。


 炎が、頷いた気がした。


 ……神炎を身に宿す炎の子、すべての炎とともに立ちぬ。あまねく炎を統べる力を持ちながら、あまねく炎を尊重する者なり。


(なぜだろう、この炎が、懐かしく感じるのは。燃やしたいなら、燃やせばいい)


 アヌビスは、その炎を受け入れた。

 それは、満たされるような心地で、アヌビスの胸の内から、震えるような感動が沸き起こってきた。


「アヌビス、いまだ、心火を最大に燃やせ!!」とラーが叫んだ。

「応ッ!!」


 アヌビスは手を素早く動かし、型を取った。


「燃えろ、意念の炎ッッ!!!!」


(つづく)

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