▼第三十三話「レンシュドラの受難」




 アヌビスは目を覚ました。瞼を開けると、そこには満天の星空が広がっている。山の上だから、星は一層よく見えた。


(ホルスに負けて星を眺めるの、これで二度目じゃねえか——悔しい、悔しい、悔しい!!)


 アヌビスは目に力を入れて、こみ上げてくるものを懸命に抑えた。

 十二歳の身体は、激しやすい。感情の発火と涙とが、セットになっている年頃だった。


「起きたか、アヌビス」とハウランは言った。


 ホルスは罪悪感からか、目を伏せて脚で地面を掘っている。


「ほれ、ホルス! 言うことがあるだろう」

「悪かったな」


 アヌビスは何の話かわからない。


「どういう意味?」

「こいつはな、気絶したお前を見殺しにしたのよ」


 アヌビスは一瞬、どういう意味か、解せなかった。

 アヌビスの行動規範のなかに、他人を見殺しにするという選択肢がなかったから、理解できなかった。


「お前、嫌うにしても限度があるぞ!!」とアヌビスは怒鳴った。

「だから、すまなかったと言ったろう」


 王子として生まれたホルスなりの、精一杯の謝罪である。しかし無論、アヌビスにはそうは見えない。


「お前、人に謝ったことないだろう」とハウランが呆れて言った。

「はあ、ありませんね」

「人に謝るときは、目を見て、頭を下げるんだ」

「余が、貴族ですらない、この男に!?」


 ホルスは信じられないことを聞いたという風に、後じさりして汗を浮かべている。


「マスダルでは身分の差はない、と昼にも言わなかったか?」

「クッ……」


 ホルスは頭を下げるべきか、逡巡した。しかし、結局は頭を下げた。

 そして、アヌビスの目を見て、すまなかった、と告げた。


「よし、いいだろう。プライドを曲げてよくやった。お前もひとつ大人になったということだ。二度とあのような真似はするまいな?」

「もう、しません」とホルスは言った。


 そして、アヌビスの目を見た。


「この際だから言おう。第二試験でお前の落第を願って受験生たちをけしかけたのは俺だ」

「なんだって?」

「お前が生意気だから、気に食わなかった。だがするべきではなかった、といまは思う」


 アヌビスはすべてのエネルギーを使い果たしていたが、さすがに飛び起きて、ホルスの胸倉をつかんだ。


「やっていいことと悪いことがあるだろう!!」

「だから、わざわざお前に明かして謝ったのだ。すまなかった」


 アヌビスはホルスの頬を思い切り殴った。ホルスはあえてそれを受けた。そして、思い切り地面に叩きつけられた。


「俺は、お前が大嫌いだ」

「ふん、それでいい。所詮、お前は俺を刺激するだけの存在だ」起き上がりつつ、闘志に満ちた目でホルスが言った。

「絶対にお前より強くなってやるからな」

「ほざけ。お前が到底たどり着けぬ高みにゆくわ」


 ハウランは二人を思い切り抱き寄せた。ハウランの体臭がする。


「お前たちはいいコンビだ!! 二人でいれば、絶対に強くなるぞ!!」

「どこがいいコンビなんですか!!」と二人は口をそろえて言った。

「アヌビスは初めての対練でもよく対応し、長時間戦った。伸びしろを考えれば、末恐ろしいと言える! ホルスは、その年で、よくぞあそこまで剣を理解した! すでに達人の域に達しようとしているのではないか!? お前たち二人は、ともに素晴らしい素質を秘めている! 弟子入りを許すぞ!! なにより俺がお前たち二人を見てみたくなった!!」


 アヌビスとホルスは、互いをじっと見た。お互いに怪訝そうな顔をしている。こいつと一緒に弟子になるのかよ、とお互いが口に出さずとも目で語っていた。そして、ふん、と二人は顔を背け合った。


「これからは俺を師父と呼べ!! わははは、ほかの教員たちの羨む顔が目に浮かぶわい!!」



 その夜、アヌビスは寮生たちと寝る前の報告会をしていた。それぞれのパピルスのマットレスを寄せ合い、頭を突き合わせての会話である。


 メジェドは弓の使い手である天弓剣翼ソプドゥに弟子入りし、ウプウアウトは雷の使い手、閃剣雷華レシェプに弟子入りをしたという。それぞれにそれなりの苦労をしたらしい。

 アヌビスも、競駝場の一件から、ホルスとの対練で気絶するまでの話をした。


「ホルスもとんでもないやっちゃなあ。あいつには背中を預けられへんで」とレンシュドラが言った。

「でも、ホルスの気持ちもわかるぜ」とウプウアウトが言った。「自分のこれまでの努力が否定されたような気がしたんだろう。だってこいつはたったの一か月でここまで来たんだぞ?」

「だからと言って見殺しはないやろ、一線超えてんねんで」

「とにかく生きててよかったよ、僕はまだ、なんにも恩返し出来てないからさ」とメジェドが言った。

「恩返しなんてしなくていいよ別に。とにかく、俺は卒業までにホルスを倒す」

「おっ、ええな! そしたら、第一宮がボクで、第二宮がアヌビスで、第三宮がホルスになるっちゅう計算やな」

「何言ってんだ、俺が第一宮だろ。お前らは二番手で我慢しておけ」とウプウアウトが言った。


 未来の第一宮候補たちの、他愛もない会話である。が、本人たちは本気である。その気持ちがなければ、マスダルでは生き残れないだろう。

 メジェドは、少し気後れしながら、友たちの昂然とした気迫を浴びていた。メジェドには、その自信がどこから来るのか、不思議で仕方がない。


 それにしても、とレンシュドラはため息をついた。


「あーあ、ボクだけやないかい、うまくいっとらんのは。アヌビスも弟子入り成功したっちゅうのに、ボクは全然ダメやわ」

「レンは誰のところに言ったんだ?」とアヌビスが言った。

「バナデジェド先生のとこや。ほんでも、教わりたいなら金を持ってこんかいっちゅうて、取り付く島もないわ」

「金!?」とアヌビスは驚いた。学校の教師で、さらに別途金を要求するなんてことが、許されてよいものか?

「せやで。ボクみたいな貧乏部族民にそないな金、あるわけないやん」


 がっくりとうなだれるレンシュドラを見て、アヌビスは思い切って言った。


「俺、競駝で勝ったから、もし足りるならレンにやるよ」


 どうせ、あぶく銭である。アヌビスは勝った金で霊薬でも買おうかと考えていたが、生まれて初めての友誼に、かあっと感動して、すべてを投げ出したいという気持ちになっていた。


「気持ちはありがたいけど、むっちゃエグい金額やで?」


 レンシュドラは、四人家族が一年間食べられる程度の金額を請求されていた。大富豪の出ならともかく、庶民には到底厳しい額である。アヌビスの得た金をもってしても、目標金額には達しない。

 アヌビスとレンシュドラはため息をついて頭を抱えた。


「お前、別の先生に弟子入りしろよ」とウプウアウトが言った。「違う系統の先生から学んだっていいじゃないか。幅が出るぞ」

「わかるで。ボクかて頭ではそう思っとる。でもな、ハートが諦めきれんっちゅうてるんや。直感で、あのセンセに教わったらボクの武功が進化するっちゅう感じが、びんびんにすんねん」


 一同はレンシュドラのために、金策をあれこれと考えた。街の往来で、金を賭けて腕相撲をしようだとか、武術大会に出て、賞品を得て売ってしまおうとか、レース用の駱駝を仕入れて転売しようとか、新しい寝具を製作して販売しようとか、カジノの金庫を破ろうとか、貴族の家に盗みに入ろうとか、さまざまなことを話し合った。


 しかし、どれも時間がかかりすぎるか、自分たちが弱過ぎるか、モラルに反するかで、決まらないのだった。


 そのうちに、慣れない環境でくたくたになった子供たちは、睡魔に襲われ、眠りに落ちた。



 夢の修練場で、アヌビスは剣気を纏わせ続ける修練をしていた。目標は、一時間である。

 通常、一時間ものあいだ剣気を出し続けることは、第五位階相当の実力がなければ、為し得ない。しかし、内功の精妙なる運用が出来ていれば、最小限の力で剣気を出し、最小限の集中力で維持し続けることができれば、内功がたった八年ぶんしかないアヌビスにもそれが出来る、とラーは言った。


 アヌビスは、剣気を、いわば弱火にする方法を手探りで実験した。剣気の波を掴むことは、優れた才能を持つ剣客であっても、一か月はかかるだろう。

 しかし、アヌビスは、内的感覚を微細に読み取ることができた。


(このくらいの抜き方でもいけるか? いや、消えた。この感覚は残しておかなきゃならないんだな。じゃあこの感覚を薄めてみたらどうだろう?)


 アヌビスは自分の感覚の周波数のひとつひとつが、手に取るようにわかった。ここが夢の修練場で集中力が十二分に引き出されているということを鑑みても、恐ろしいほどの鋭敏さである。


 そのうちに、徐々に剣気の炎が制御されてきて、勢いが弱くなっていった。恐るべき悟りの速さである。感覚を掴むことにかけては、蒼流広しといえどもアヌビスの右に出る者はいないだろう、とラーは感心した。


「ときにアヌビスよ。金策をあれこれと語らっていたな」

「いま話しかけるなって!」アヌビスの剣気が揺らぎ、一瞬炎を吹き上げた。

「戦闘中はつねに予測不能なことが起きるからな、いい訓練だと思え」ラーは意地悪そうに笑っている。

「金、どうにかならないか?」

「危険はあるが、手がないこともない」

「本当か!?」アヌビスは制御を忘れ、剣から炎が舞い上がった。


(つづく)

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