▼第三十二話「綱の上の死闘」
そこはかつて、裁剣論鬼メフルベテクが一刀の元に切り分けた岩山だった。高さ数十メートルはある小高い山であり、その真ん中を裂くように幅十メートルの谷が、斬撃によって形成されていた。
その断涯と断崖を結ぶロープが山頂にしつらえられてあり、マスダルの訓練所にもなっていた。
アヌビスとホルスはいま、そのロープの上に立ち、剣を突き付けあっている。
落ちれば、死ぬ。
ことは一時間前、ホルスがアヌビスよりも優れているところを証明せんとハウランに食って掛かったことに端を発する。
ハウランはホルスの稚気をむしろ好ましく思い、この山に連れてきた。
この長さ十メートル、幅はわずかに拳一個ぶんという綱一本の上で、対決しろ、とハウランは言った。
ただし、剣技は三才剣法のみ、内功は使わず、しかも、動きをごく緩慢にしろ、という条件をつけた。
武功や内功の差ではなく、剣術の習熟度を見てやろうというのがハウランの狙いである。
綱の上でバランスを取ることは、七星歩法を完全に習得したものであれば、そう難しくはない。
ホルスは慣れたもので、なんの躊躇もなかった。百メートルの高さから墜落することへの恐怖など、毛ほども感じていないかのように、綱に軽やかに飛び乗ると、剣を構えた。
アヌビスもホルスに侮られるのを嫌い、恐れ知らずの体を気取り、綱に飛び乗った。風が吹きすさんでいる。いやな冷汗が頬を伝ったが、顔つきはあくまでも余裕を装っていた。
二人は綱の上でにらみ合った。
「はじめっ!!」とハウランが咆哮した。
号令と共に突風が二人を襲った。二人は綱の上で強風に煽られつつも、見事に体勢のバランスを取っている。
「先手をくれてやる。これも
「余裕見せやがって」
アヌビスはごく緩慢な動きで、ホルスの頭部をめがけて剣を振った。というより、動かしつつある、に近い。ゆっくりとした剣跡である。
ホルスもそれに応じて、ごく遅い動きでこれに手当てした。剣を引き寄せ、これを受ける。アヌビスの剣を受け流し、なんとロープの上で回転しながらアヌビスの脇に剣を払う。アヌビスはさらにその剣を防ぐ。どちらもとても緩慢な動きである。二人の息遣いが、谷を渡る強風でかき消される。
二人は風をも受け流しながら、舞踏のような対練を続ける。
やがて、アヌビスの世界から音も風も消えてなくなった。ホルスと剣だけが見える。身剣合一の境地である。アヌビスの剣路はやがて天衣無縫の闊達さをもってホルスを揺さぶる。ホルスもまた深い集中状態に入り、その剣を見極め、正しく処置する。そして再びアヌビスを斬りつけようとする。
断崖と断崖のあいだで、二人は時をも忘れて剣を振るいあった。
夕日が、斬られた山の中間を落ちてゆき、二人が影になる。
風は、だんだんに落ち着いてきた。
やがて空が濃い紫と朱色とに染まりゆくなかで、状況はようやく動いた。
アヌビスの集中力が、先に途切れだしたのだった。
(もうこんなところに剣が……!)
遅滞した戦闘は、武芸の悟りの差が最も出やすい。
それは、剣の組み立て、思考、戦術、集中力の質と量、その使い方、緊張状態・戦闘状態の持続時間など、さまざまなものが問われるからだ。
アヌビスの長所である動体視力や、野性的勘による瞬発力は、活かされない対戦方式である。
それでもホルスに喰らいついていったのは、アヌビスの才が尋常ではない何よりの証拠だ。
ホルスは、内心ほくそ笑んでいた。
(アヌビス、思ったよりは粘ったが、口ほどにもない。セベクにも劣るではないか)
はたしてアヌビスは生まれてはじめての三時間にもわたる死闘で、もはや視力さえも尽きかけていた。
万全のときには平気だった綱の上の戦闘も、もはやいつ、はるか下の地へと墜落するか、わからない。
死地で強敵と長時間戦闘することほど、消耗することはない。すべての神経が研ぎ澄まされた状態を維持し続けること、なおかつ集中力は異次元の極みにもっていくこと、これを両立し続けることで、精気は削られてゆく。
アヌビスは精も根もすべてを空になるまで使っていた。もはやなにも残っていない。
「うかつだよ、それは!」
ホルスは千載一遇の好機を得た。目を喜びに光らせ、ゆっくりと剣をアヌビスの首筋に向かわせた。
アヌビスは、負けを悟った。
そして緊張の糸が切れた。
アヌビスの意識が、ふっと消え去る。
アヌビスは綱から足をすべらせた。中空に身を投げ出し、重力に身を任せるままに落ちようとしている。
高度百メートルから真っ逆さまに落下すれば、死ぬことは確実だった。
ホルスは、一瞬、空白を味わった。
そして、事態を把握して、さらに一拍、思考が止まった。
そのとき、ホルスの脳裏には、母イシスの声が鳴り響いた。
「お前はオシリスの子なのだ。それを万民に証明し続けなければならない。お前には、その責務がある。オシリスの子に相応しい戦士となれ。お前には、一番になる以外の道はない。一番になれぬのなら、死ね」
(こいつさえいなければ、余は——)
ホルスは暗い欲望を自覚した。
ゆっくりと、アヌビスが落ちてゆく。気を失っていて、ロープを掴めるはずもない。
さらに、母イシスとの思い出がよみがえってくる。十年前、父オシリスが死んだ日に、母は変わってしまった。優しき母から、決して認めてくれぬ母になった。どんな武功を習得しようとも、どんな過酷な修練をしようとも、決して褒めてくれなかった。まだ足りない、まだ駄目だ、まだ及ばない、そんな言葉だけが返ってくる。ホルスはそのたびに、夜ひとりで泣いた。ホルスは、ただただ認められたかった。抱きしめて欲しかった。
そして、さらに幼い時期、もうおぼろげな記憶になってしまったが、父と母に愛された日々の、遠い感情の記憶が浮かび上がってくる。
余は、あの愛を、取り戻さねばならんのだ。
絶対的な強者になれば、母は、そのときこそ、褒めてくれるだろうか。
ホルスは落ちるアヌビスを見て、涙を一条、流した。
「馬鹿野郎ッッ!! なぜ助けない!!」
ハウランは、わき目もくれず、崖から飛び降りた。
そして、アヌビスを空中で抱きかかえ、中空でぴたりと停止した。ハウランは第七位階であり、空を自在に飛ぶ能力がある。
「ホルスッッ!!」ハウランの怒号が、割れた岩山の断涯のあいだを反響し、いつまでも鳴り響いた。
ハウランは気絶したアヌビスを木の下に横たえると、ホルスの胸倉をつかんだ。
「貴様は自分のやったことがわかっているのか?」
「将軍が助けると思ってたんですよ」とホルスは目線を合わせずに言った。
「嘘をつくな! 綱の上でのお前の目は、誤魔化せんぞ!!」
ハウランはホルスの頬を思い切り引っ叩いた。
ホルスは王子の身分であり、誰からもこのような扱いを受けたことがない。
恥辱と衝撃と怒りとで、ホルスの顔が赤く染まっていく。
「こいつはな、お前の学友だろ。敵じゃねえんだぞ」
「なにを甘っちょろいことを。余にとっては、全員敵ですよ」頬を抑えながらホルスが言った。
「馬鹿な。お前はこいつを大事にしなきゃならんのだぞ」
「なぜです」ホルスは吐き捨てるように言った。ばつが悪い。
「お前がオシリスの復讐を果たそうとするとき、一人で挑むつもりか? 仲間の存在なしには、お前の大望は遂げられんのだぞ。そして、お前を追い込む存在がいなければ、お前は結局強くなれんのだ」
「追い込む存在なら、いますよ」母がそうだ、とは流石に言えないホルスだった。
「ちがう。そういう意味じゃない。お前の後ろから追ってくる者の存在のことだ。上から圧をかけるだけの存在じゃない」
ホルスは母を侮辱されたと感じ、さらに顔が怒りに燃える。自分で同じことを言うのはよくても、他人に言われると、母をかばいたくなるのだった。
「アヌビスがいることで、お前はさらに次の次元に行けるのだ。お前を脅かす者なしで卒業するなら、大した進歩もあり得ない。お前にとっての幸運は、お前に匹敵する才能を持つアヌビスがいることだ。お前は、アヌビスを消そうとするのではなく、堂々と立ちはだかり、競うべきなのだ。そして、お前に脅威を抱かせるこのアヌビスを、ありがたく思うべきなのだ。それがお前自身の成長につながる。マスダルとは、そういう場なのだから」
「でもそれで余が一番でなくなってしまったら……」
「だからといって、お前がひとりになるまで、ライバルを消していくつもりか? それでテーベはどうなる? 結局セトに喰らい尽くされて終いだろう。王子のお前が、お前と双璧を為すかもしれん男を殺してどうする」
「……ッ!」
ハウランはホルスの肩を抱いてやった。
「それに、どうして追い抜かされると思うんだ? お前は紛れもなく、このテーベで、いや、蒼流でいちばんの若者だ。俺が保証してやる。お前ほどの十二歳は、これまで見たことも聞いたこともない。だから、差を広げ返してやればいいじゃないか。お前なら出来るだろ?」
はっとホルスは気付いた。自分に自信がないことで、アヌビスを排斥しようとしていたことを。そのことを自覚し、今度はいたたまれない気持ちで顔が真っ赤になった。
「お前はもっと自分を信じてやれ。お前の才能と、お前がこなしてきた努力を」
「はい……!!!!」
ホルスはこみあげる涙を抑えることができなかった。彼もまた、ただの十二歳の少年に過ぎないのだ。
(つづく)
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