▼第三十一話「ホルスの不服」




 アヌビスは肉を一心不乱に食べた。それはアヌビスの人生で一番のご馳走だった。


「で、命を狙われているって話、ありゃなんだ」ハウランがビールを飲みながら聞いた。

「セトに命を狙われてるんですよ」アヌビスは口いっぱいに肉をほおばっている。

「セト……!? おいおい、冗談だろ? なんで天下のセトが、わざわざお前を狙う必要があるんだ?」


 ハウランはアヌビスの腹に刻まれた黒々とした呪いの痕を見た。


「その腹の呪いと関係あるのか?」

「それが俺にもさっぱりわからないんですよ。俺は孤児なもんですから、生まれたころのことが何一つわからなくて」


 ハウランはため息をつく。しかし、アヌビスの肌の色や髪の色を見るに、これほどの呪いの術式を使う者が関係しているのであれば、セトの名も、荒唐無稽であるにせよ、なくはない。


「なんで命を狙われてるとわかった? 襲撃されたことはあるのか? どうやって助かった?」ハウランは矢継ぎ早に尋ねた。興味津々である。


(戦場で出会って、名指しで一回殺されたとは、言っても信じてもらえないだろうしなあ)


 アヌビスはしばし言い淀み、なにから説明すればいいのかを悩んだ。


「言えないことならばいい。誰しも事情はあるからな」

「ありがとうございます」

「とりあえず食え! 若い奴はたくさん食べなきゃな!!」

「はい!!」


 アヌビスは一礼して、再びご馳走にとりかかった。それは凄まじい勢いで、前日にてんやわんやおおわらわの超巨大砂嵐をハウランは思い出した。皿の上のものが、みるみると片付いていくのは爽快ですらあった。


「なあ、お前の呪いって食費が無限にかかる呪いなのか?」とハウランは半ば本気で聞いた。

「そんなニッチな呪いあるわけないでしょう」

「じゃあどんな呪いだったんだ?」


 アヌビスは武功が学べず、『廃品』『疫病神』と忌まれていた、とかんたんに説明した。


「そんな馬鹿な。だってお前、この間の試験で花獣を倒してたよな?」

「一か月前、ハウラン将軍と会ったその日に奇縁があって、それからようやっと武功を学べるようになったんです。あれから一か月間、寝る間も惜しんで修練したんですよ」

「い、いっかげつ……?」


 ハウランは頭を抱えた。こいつは無茶苦茶すぎる。それが本当なら、天才中の天才ではないか。


「そういえばお前、なんで競駝場に居たんだ? 狙ってるレースでもあったのか?」

「そんなわけないでしょう!」あなたと一緒にするな、という言葉は辛うじて飲み込んだアヌビスだった。「将軍に弟子入りをお願いしたくてここまで来たんですよ」

「弟子入りか」


 ハウランはメンネフェルとの戦争に明け暮れており、長らく弟子を取っていなかった。

 しかし、と顎に手をやる。これほどの素材を育ててみるのは、じつに面白そうだ。


 アヌビスが弟子入りの話をしていると、後ろから人が近寄ってきた。対面にいるハウランは、その人物を見て、にやりと笑った。


「今日はやけに客が多いな?」

「ハウラン将軍、ご無沙汰しております」


 そう言ったのは、ホルスだった。


「ホルス!? どうしてここに!」振り向いてアヌビスが思わず言った。

「それはこちらのセリフだ。なぜ貴様ごときが将軍と共にいるのだ」

「ともに競駝を楽しんでいたのよ」とハウランは悪びれずに言う。「こいつは競駝の天才だ」


 ホルスは眉をひそめた。賭け事に興じるのがけがらわしいとでも思っていそうなのが、抑えた表情からでも読み取れる。

 しかし、将軍に求めているのは一個の機能、武功であって、人格ではない、とホルスは割り切っている。


「将軍。食事のあとで時間はありますか?」

「時間ねえ。このあともレースがあるんだが」

「大事な話なんです」ホルスはこのような扱いをされることには慣れていない。少しくむっとしている。

「なんだ、お前も弟子入りしたいって顔してるな」ハウランは笑った。

「お前も、とは、どういう意味ですか。まさかそこにいる呪われたこやつめも……?」

「その通りだ」


 ハウランは腕を組んで頷いた。ホルスはわなわなと震えた。怒りで顔が染まる。


「なりません、将軍! このような下賤のものを傍に置くなどと!」


 その言葉を聞いて、「おい」とハウランは低い声で凄んだ。


「お前は誰に向かって指図しているんだ? お前がどれほど偉いのか知らんが、差し出がましいんじゃねえのか?」


 ホルスは顔を下に向けた。そして、確かに出過ぎた言動だったとハウランに非礼を詫びた。アヌビスには一瞥もくれない。


「お前、なんだかんだと俺に突っかかってくるよなあ」とアヌビスは流石に不機嫌そうに言った。

「なんだと貴様、余に向かって生意気な」

「おい、マスダルに入ったら生徒の間に上下はないということを忘れたのか」とハウランは再び低い声で制した。

「いえ、そのようなことは」

「お前の父ちゃんはもっと周りに優しかったのにな」とハウランが言った。

「……ッ」


 ホルスは目に力を入れてつぶり、顔を赤らめている。余だって、父上のように寛大な気持ちを持っているつもりなのだ。だのに、こいつだけはどうにも癇に障ってしまう。


「まあいい。お前ら二人は優秀な生徒だ。弟子にするための試験を受ける権利はあるだろう」

「ええっ、試験があるんですか!?」とアヌビスは驚いた。

「単に、お前らを競わせてみたいのだ」とハウランは豪快に笑った。あまりに大きな声で、店中の人間がハウランを見た。



 ハウランの試験は、競駝だった。


 というよりも、絶対この人がもう一度甘い蜜を吸いたいがばかりに、試験をやると思い付いたんだろう、とアヌビスは邪推している。


 ハウランはもうアヌビスをあてにしきっている。早くパドックに行こう、と率先して歩いた。足取りは、軽い。


「さあ、アヌビス!! どの駱駝がいいんだ、この天才め!!」

「だから、あれはビギナーズラックだったんですってば!!」

「謙遜するな!!」


 はっはっはと豪快に笑いながら、ハウランがアヌビスの背中を叩いた。いってえ、とアヌビスが叫ぶ。


 ホルスは仲睦まじげにやり取りする二人を見て、ひどく嫉妬した。

 ふつうなら余がちやほやされているべきなのに。あやつはやはり敵だ、とホルスは憎しみを一層深くする。


 競駝場のパドックにあって、ホルスはひとり異様な雰囲気を放っていた。


「ホルスも駱駝を選んでみろ! そいつが勝ったら弟子入りを許してやる!」

「そ、そんなめちゃくちゃな」

「アヌビスは百五十倍の最低人気を当てたんだぞ、お前もやってみろ」


 クソッとホルスは駱駝を血走った目で見た。わけがわからない。どれがいいとか、ない。ぜんぶ一緒だろう、とやけくそになっている。


「アヌビスくん、選べましたかな?」とハウランは浮かれている。

「では、お耳を拝借します」

「ほほー! なるほどねえ、こりゃ参った!! これは気付かなんだ、でかしたぞ!!」


 ホルスは一頭一頭の駱駝を念入りに眺めた。しかし、どれもただの駱駝ではないか。それ以上の感慨などない。

 しかし、ホルスは頭を振る。いや、そう突き放して考えていては、わかるものもわかるまい。ホルスはくだらないと断じ切っていたこの競技に向かう姿勢を、まず正そうと考えた。

 駱駝も人間も、突き詰めれば神経と筋肉だ。余にそれがわからぬはずがない。


 そしてホルスはついに光明を得た。


「将軍、八番のアドラクという駱駝にします」

「なんと! アヌビスと同じではないか! こうしちゃおれん!」


 そのとき、ラーはアヌビスに耳打ちした。「ハウランを止めろ」とのことだった。

 アヌビス自身も駝券を買う予定だったので、なぜだ、と言った。


「競駝はな、能力だけで決まるものではない。展開が向く・向かないもあるし、多頭数なら進路がなくて負けることもよくある。また、出遅れや落馬、レース中の故障など、負ける要因は挙げればきりがない。買うのはいいが、レートを前回のままにせよ、と言え」


 アヌビスはハウランが駝券を購入するそのタイミングでそれを止めた。


「なぜ止めるんだ。いま波が来てるんだ、このままいくのが勝負師だろう」

「違いますよ将軍! 勝負師は勝つべくして勝つ者を指すんでしょう? 将軍は浮かれてるだけですって!!」


 ハウランは痛いところを突かれた。そして、結局はアヌビスの助言に従った。いつも熱くなって、途中で勝っていることもあるのに、結局はすべてを失くすまで賭けてしまうという癖を自覚していたからだった。


 果たして、レースは悲惨なものだった。


 三人の本命駝アドラクは直線で進路を失い、なんとか駝体をぶつけながら割ってきたが、結局は届かずに終わってしまった。

 だが、ふつうの駱駝なら他駝と接触した時点でレースを辞めてしまうだろう。そこからまたもう一伸びしてきたのは、能力の証である。


 が、とにもかくにも負けは負けだ。


 ハウランは安堵した。もしアヌビスに止められていなければ、すべてを失っていただろう。

 こいつは賭博の真髄を理解していやがる、とアヌビスを見る目がまた変わったハウランであった。


「ホルスよ、駝券は外れたが、アヌビスと同じ駱駝を選んだということは、見どころがある。お前も合格とする」


 ホルスには、その言い草こそ耐えられぬのだった。


「納得いきません。それじゃまるでアヌビスの方が余より優れているように聞こえますが」

「なんだと?」

「こいつとサシで何か勝負させてください。余の資質を証明して見せましょう」


(つづく)

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