▼第二十八話「もう忘れた」




 アヌビスは病床で目を覚ました。しばらく目が霞んで、どこにいるのかわからなかった。


(また負けた、か。——だけど、気分は爽やかだ)


 アヌビスは不思議と負けても悔しくはなかった。それは、ウプウアウトが戦っているあいだに自分を認め、尊重してくれたような気がしたからだった。


「目ぇ覚ましたか、アヌビス!!」


 わきに控えていたレンシュドラが、目を開けて呆としているアヌビスを見て叫んだ。人間が取り得る歓喜の表現の最大限をもって、大騒ぎし、アヌビスの目覚めを祝した。

 メジェドの泣き声も聞こえる。心配でずっと傍についていたのか、とアヌビスはありがたく思う。


「よう、悪かったな」とウプウアウトが決まり悪そうに言った。目線を横にずらし、指で頬をかいている。

「いいさ、勝負の上のことだ」とアヌビスは言った。言ってから、頭痛がして「うっ」と顔をしかめた。

「まだ無理しない方がいいよ」とメジェドが言った。泣きはらしていたようで、美少女のような目が腫れている。「セルケト先生の治療で全快したようだけど、念のため」


 ウプウアウトはなにかを言おうとした。だが、うまく言えずに、宙を仰いだり、病室の床に目をやったりしている。頬がさっと赤らむ。目が何かを訴えかけようとしている。クソッ、戦士ならば勇気を出せ、ウプウアウト、と彼は心中で自分を励ます。


「あのな、確かに言い過ぎだったよ。年長者なのに大人気なかった、すまん」とウプウアウトが頭を下げた。


 アヌビスは自分が十七歳であることを思い出し、むしろウプウアウトの男気に感動の念を覚えた。


(こいつも、悪い奴じゃない——)


「わかってくれればいいんだ。いや、わかってくれて、ありがとう」


 アヌビスは身体を起こした。また微痛が全身を走るが、それは一瞬きりのことで、確かに体は治っているようだった。起きて大丈夫なのか、と周囲が心配するが、どうということはない。アヌビスは手をじっと眺めて開いたり閉じたりを繰り返して点検した。


「でも、どうしてメジェドがそんなに気に入らなかったんだ?」とアヌビスが聞いた。責めるような口調ではない。単に興味があって、聞いた。

「それは……」


 ウプウアウトは、過酷な環境を生き抜いてきた。そこに甘えの介在する余地は、わずか一片の葉ほどもなかった。

 生きるか死ぬかの環境を生き抜いてきた俺は、心のどこかに、甘えられなかった怒りがあるのかもしれない、とウプウアウトは思った。アヌビスの問いに対して、そのことが、ほとんど瞬間的にわかった。


 しかし、その事情を話すには、まだあまりにも関係が浅過ぎる。


 どう言えばいいか、頭を整理するために言葉が詰まったのだった。


「つまり、その、なんだな。甘えている奴を見ると、うらやましくなって、怒りが湧いて来てしまったんだ」


 ウプウアウトは賢い。自身の感情も、思考も、整然と言語化し、しかも感情を切り離しながら客観視ができる男だった。メジェドを挑発したときのように感情的になってしまわなければ。この辺りは、まだ、若い。


「なんで甘えているように見えたんだ?」とアヌビスが続けて問うた。

「うじうじしてるからだよ! もういいだろ!」とウプウアウトは顔を真っ赤にしてそむけた。

「すまんすまん」とアヌビスが言った。


 そして、アヌビスは宙を見上げながらぽんと手を叩く。


「そうだ、名案を思い付いた! せっかく同室なんだし、メジェド、お前はウプウアウトを見て、立ち振る舞いや態度を学べ」

「ええっ!!」とメジェドは両手を顔の前に寄せてのけぞった。恐怖が強過ぎる。

「むっちゃええやん!!」とレンシュドラは賛成した。

「ウプウアウト、お前は年長者なんだから、年少の者の面倒を見ろ。男だろ」とアヌビスは言った。

「なんで俺に負けたお前がそんなに偉そうなんだ?」とウプウアウトはさすがに呆れている。「俺は一人で生きてきた。だから後輩の扱いなんぞ知らん」

「じゃあ余計にいいだろ。だってお前は将来部下を山ほど引き連れる大将になるんだろ? 今のうちに練習しておけよ」

「俺の目標はそんなんじゃねえ」とウプウアウトはボソッと言った。


 しかし、とウプウアウトは考える。この男は視点を切り替える速さも天下一品だった。


「だが、一理はある。世の中のすべてが修練だからな。これも学びだな。よろしく、メジェド」ウプウアウトは手を差し出した。

「お、お手柔らかに……」とメジェドがおっかなびっくりその手を握る。


 その惰弱な態度がウプウアウトをイラつかせるが、相手を年少の者、弟分として受け入れようという気持ちでなんとか気持ちを静めた。


 二人は和解した。そのことが、アヌビスには嬉しかった。アヌビスは、競争するよりも、みんなが仲良くしている方が好きだった。



 その後、病室から宿舎に戻る道すがら、メジェドはアヌビスに改めて礼を言った。二人の美少年が、夜のマスダルを歩く。


「本当にありがとう、アヌビスくん」顔を赤らめながら、メジェドが言う。

「なにが?」

「僕のために戦ってくれただろ。あれ、嬉しかった」

「もう忘れた」とアヌビスはとぼけた。恩に着せる趣味はアヌビスにはない。


 二人は少し無言で歩いた。


「でもさ、俺も一か月くらい前まで、全然自分に自信がなかったから、お前の気持ちわかるよ」アヌビスがぽつりと話し出した。

「え、アヌビスくんが? 本当に?」

「本当だよ。お前と一緒。凄いことをしたとしても、全然凄いと自分で思えなかったし、認められなかったんだ。——でも、いまは違う」


 アヌビスはぐっと拳を握った。自分で自分の成長を認められる男になった。


「だから、お前も自分のことが好きになれる」

「そ、そんな、無理だよ」

「大丈夫だ、お前はすげえやつだ」


 アヌビスはメジェドの目をしっかりと見て、胸の奥まで染みわたるように、しっかりと言った。



 一方、メンネフェルの都市部の一隅にある、石造りの建物のなか。大きな机のうえに、パピルス紙の地図が広げてあり、その周囲に二人の男がいる。


 ひとりは、エアブカリという男。先日情報局長がセトの不興を買って惨殺されたおり、新たに情報局長になった男である。天然パーマの黒髪であるが、白髪も混じっている。年は四十三歳で、すらりとした長身だ。隈が出来ており、セトと接する心労が窺える。

 いまひとりは、カウスという男だった。褐色の肌の若い男で、いかにも賢そうな面構えをしている。


「報せがありました。マスダルの草と接触に成功したようです」とカウスが言った。

「わざわざテーベの東部砂漠に砂嵐を起こし、混乱を招いた甲斐があった」とエアブカリはにやっとする。


 陽動に人をやれば、マスダルに怪しまれる。天災ならば少々怪しいが、メンネフェルの仕業とは断言できまい。


「ところが、あまりいい報せではありません。入学試験時点では、とくにそれらしき子は見られなかった、と」

「やれやれ、捜索するにしても情報が少な過ぎる」エアブカリは頭を抱えた。

「そうですね、参りました」とカウスも顔がやつれている。彼には幼い子供がいて、まだ死にたくはなかった。


 二人は額に手を当て、下を向いて押し黙った。


「だが、捜索の手を緩めることは許されん。これはセト様肝いりの特級案件だからな」

「セト様の二人の子供ですからね」とカウスが言った。「ああ、一人は公的には正体不明<アンノウン>って話でした」

「アンノウンについては推測するしかないが、もう一人の方は確実にセト様の子だ」とエアブカリが言った。

「その子が本当にまだ生きていると?」

「何度も話したろうが。死んだという話もあるが、セト様は納得していない。これはセト様が納得するかどうかなんだ」


 実際に、セトは「死んだ」という話を聞いたのちに、その墓まで暴いた。が、その死体がその子のものではないと見たらしく、捜索を打ち切らなかった。


 恐ろしい逸話を思い出し、二人はため息を吐いた。


「だが、俺の勘はマスダルだと言っている」

「なぜですか?」

「もしセト様に仇なすつもりなら、あそこで学ぶのが最適解だろ」

「だったらよいのですが」とカウスは言った。「マスダルにはあの者がいますからね。生け捕るにしろ、殺すにしろ、自在です」


(つづく)

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