▼第十八話「特別理事長ジェフティ」




 アヌビスは、ただ一人となった試験場で、悠々と到達線を超えた。

 第二試験を、合格したのである。


 しばらく無我の境地で駆け抜けてきたため、振り返ってようやく終わったことに気が付いた。

 そして、集中の波が穏やかになるとともに、歓声が耳に入ってきた。


 アヌビスは周りを見渡した。

 みな、妨害を乗り越えた勝者に対して、興奮を現すために大仰な身振り手振りで讃えていた。


「あれだけ大人数に囲まれて、よく生き残ったよな!」「貴族のエリートが寄ってたかっても勝てなかったとは!」「あいつは何者なんだ!?」


(ぞくっ)


 アヌビスはなにか電流が走ったかのような感触を味わった。


「俺、もしかして合格した?」

「そのようだな。しかし、地烈横掃ちれつおうそうは少し甘かったぞ。あれはもう少し引き付けてだな――」

「わかったわかった!」


 こんな時にまで説教臭いラーに、アヌビスは笑ってしまった。


「む。まあなんだな、その……ひとまずはよくやったぞ」

「素直じゃないやつめ!!」とアヌビスはラーを小突いた。それから、喜びがほとばしった。両の拳を天に突きあげ、達成感が腹からこみあげるままに叫ぶ。「やったああああッッ!!!!」


 アヌビスは、テーベの錚々そうそうたるエリート子息たちを相手に、試験を合格したのだ。

 自分で、自分の成し遂げたことが信じられぬのだった。


粗忽そこつものめ。まだ喜ぶのは早い」とラーは言った。「ここは入るより卒業する方が大変なんだ。卒業生が一桁なんてのもざらだ」

「えっ!!」


 アヌビスは顔を真っ青にして固まるのだった。



 一方、ホルスは歯ぎしりした。取るに足りぬ者だと侮っていたアヌビスの躍進が、どうしても癇に障る、許せぬ。

 自分と同等以上の才能……とは、とてもではないが認められない。そんなことが脳裏によぎりでもしたら、怒りではらわたが煮えくり返る。

 ホルスは無意識に自分の感情に蓋をし、「奴は小物だ」と思い込もうとした。


「殿下、あの下郎のことを気にすることはありません。殿下の方が何倍も優れております」と大きな体をなるべく縮こませながらセベクが言った。この男なりに気遣ったつもりだった。

「たわけが!!」ホルスはセベクの頬を張った。そもそも、比較されること自体が気に入らぬ。「貴様、誰と誰を比べておる? 余が、あ奴ごときと、同列に語れる存在だとでも言いたいのかッ!!」

「も、申し訳ございません殿下!!」


 セベクもまだ十五歳。ホルスの心情の機微を理解するには、今少しの時間が必要だった。


(たしかアヌビスと言ったか。王族の余に向かって、礼儀をわきまえぬ、あの態度。奴の無礼は許せぬ、気に入らぬ。入学したら、力を持ってやつを躾けてやらねばならん)


 ホルスはアヌビスの態度が気に入らないと思っているのだが、そこはまだ年少の身。いくら賢くとも、自身の心を客観視するには、まだ幼い。

 彼の苛立ちは、父オシリスの復讐者として、この代の主役は自分であるべきだという自負心から発せられている。

 そして、そうあるべきだと母イシスに調教されてきた。


 しかしアヌビスの明星のような溌剌とした気質、美の女神の生き写しのような美貌、神韻を帯びた天性の魅力に、衆目の目が奪われる。


——余は、唯一無二の主役でなくなる。


 本能的に察知したそれが、ホルスの心に暗い炎を灯していた。



 アヌビスは、試験コースの脇にある、「合格者」と書かれた立て看板の辺りに向かった。試験が終わるまで、見物する場である。

 そこには、先ほどの全身紋様少年が立っていた。アヌビスに気付くと、彼は笑いながら手を上げた。


「見とったで! 自分、チビの癖にめちゃめちゃいい動きやったな! びっくらしたで!」自分もそう変わらない身長の癖に、紋様少年は言った。

「お、おう。ありがと」とアヌビスはどぎまぎしつつ答えた。アヌビスには友達がいなかった。こういうとき、どういう態度、振る舞いをすればいいのか、わからない。

「なんや自分、ボクのことが怖いんか?」少年は、自らの全身に入った紋様に目をやった。

「怖かねえよ別に!」

「ならええわ。ボクの名前はレンシュドラくんや。よろしゅうな」

「俺は、アヌビス。……お前こそ、俺が怖くないのか?」アヌビスは自分の腹に刻まれた呪いの痣をちらりと見やる。

「アホか。誰がそんなもん怖がんねん」とレンシュドラは言った。「お互いよう目立つ異端児やな。仲良くしようや、アヌビス」


 レンシュドラは手を差し出した。


 アヌビスは一瞬どうすべきかわからなかったが、やがてその手を握った。

 二人の十二歳の少年が、固い握手を交わした。


 アヌビスは、その手のぬくもりを、生涯忘れるまいと誓った。



 試験は、無事に終わった。百人いた人数は、六十人に減っていた。これが今年の合格者数である。

 例年よりもかなり多い数字であり、豊作の世代だと、会場のあちこちで騒がれた。


 第一試験の成績が一位から十位までの組は、さすがにほかの組と練度が違った。

 動きの質も速度も段違いである。


 とくにホルスは第一試験首席・過去最高記録樹立者の名に恥じぬ、末恐ろしいほどの動きを見せて合格した。

 これには観客たちも息を呑むばかりであった。


 大男セベクや黒髪美少女インプトもそれぞれに俊才らしい動きで合格し、下級家門のダークホース・ウプウアウトもホルスと遜色ない水準で試験を合格した。

 まさに、豊作の世代である。



 試験が終わると、合格者たちは、さいぜんに第二試験の説明を受けた石造りの講堂に集められた。

 試験後、即、入学式という段取りである。


 美女医セルケトが再び壇上に上がり、静粛に、と子供たちのざわめきを抑えた。


「これより特別理事長のジェフティ様が、登壇なされる。ありがたきことに、貴様らに祝辞を述べてくださるのだ。心して聞け」


 再び子供たちがざわめいた。ジェフティ様だって? あの?

 ジェフティといえば、オシリスの亡きあと、テーベを率い、セトと戦っている文武両道の王の名だ。

 テーベに生きる者で、いや、ナイルに生きる者で、その名を知らぬ者はいない。


「特別理事長、お願いいたします」


 赤く光沢のある厚いとばりの奥から、足音が聞こえてくる。

 一同は、固唾を飲んでその権力者の登場に備えた。

 決して忘れまい、と集中の限りでその登場を見つめる。


 そして、登場した——黄色い鳥の着ぐるみが。


 生徒たちがその異変を受け止めきれず、ひそひそと囁き合った。どうなっているんだ? まさか、あれがジェフティ様??


 セルケトは騒々しい生徒たちを一喝する。「貴様ら、誰が口を開いていいと許可したか!!」

 それで一旦は静まったが、動揺までは収まらない。


 黄色い鳥の着ぐるみは、つかつかと演壇の前に立つと、咳ばらいをした。


「諸君、入学おめでとうッピ!!」


 威厳ある特別理事長とは思えぬ、ひどく明るい声だった。底抜けの明るさと言っていい。


「この栄光と歴史あるマスダルに、諸君らのような英才を迎え入れられ、大変喜ばしく思っているっピ!!」


 丸みを帯びた黄色い鳥の姿をしたジェフティが、テーベの礎となる若者たちに、檄を飛ばす。


「諸君、我々はいま岐路に立たされているっピ!! 君たちのような若者も、この存亡を賭けた戦いに、望むと望まざると、関係していくこととなるっピ!! そのなかで、受け身の態度では、君たちの、愛する祖国、そして、愛する家族を守ることはできないッピ!! 君たちは、来るべき時のために、力を蓄え、祖国のために尽くすっピ!!」


(つづく)

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