▼第十話「心火宿る」




 ホルスに打ちのめされたその日の晩、割り当てられた洞窟の寝所に行き、アヌビスは運気調息うんきちょうそくを行った。ホルスの電撃によって負った内傷ないしょうを回復するためだ。

 呼吸を整え、チャクラに気を取り込むことを繰り返していく。徐々に、内傷が癒えていくのが、自分でもわかった。この谷に漂う濃密な霊気が、傷に吸い込まれていく。


「不幸中の幸いだな。この場所でなければ、回復に相当時間がかかっていたぞ」とラーが言った。回復のための運気調息の手法をアヌビスに細かく指示している。

「ああ。けど不思議だな、なんだかチャクラが一回り大きくなったような気がする」

「折れた骨がくっついたら、前より折れにくくなることと同じだ。この谷の気がそうさせているのだろう」


 それからアヌビスは床についた。あれほどの戦いのあとだったから、意識がすぐに落ちる。


 そしていつものように、夢の修練場にいた。その修練場には、身体が存在しているアーヤマカンと同じ気が漂っている。


「来たか」と大人の姿のラーが声を掛けた。相変わらず艶な雰囲気をまとっている。アヌビスは頷き、礼をする。

「師父、俺を一秒でも速く強くしてください」

「焦るな。武功は一日にして成らぬ」

「でも……!」とアヌビスは拳を握る。しかし、すぐに力を抜いた。確かに、地道な積み重ねしかないと思ったからだ。

「案ずるな。お前は確かに強くなっている。誰よりも早いスピードでな」

「ありがとうございます、師父」


 アヌビスは、三才剣法と七星歩法の修練、運気調息の修練を終え、いよいよ意念の炎の修練を開始した。


 昨夜は蝋燭ろうそく五十本を灯した。

 これはラーからすると、前代未聞のペースである。まして、武功をかじったこともない者が、一体どうやって、と広い見識を持つラーですら信じられぬほどの進捗であった。天才や達人と呼ばれる者を数多あまた見てきたが、これほどの器は見たことがない。


 アヌビスは最初の一本に火を灯すときに、昼間に見たホルスのチャクラの発現を思い出していた。


 強い目の光、握られた拳、内側からの発光、そして拳に巻き付く電撃。


 脳内に記憶の映像が再生され、それらを丹念に検証していく。


(まず、意志がある。そして、型をつくる。それによって内側から放たれた力を、外側に表現する——)


 アヌビスは、誰に言われるでもなく、ホルスの所作からチャクラの扱い方を言語化し、抽象化していた。

 これがアヌビスのセンスの核心である。アヌビスには深い洞察力があり、すべての物事から法則性や共通点を見出し、再現性のある形を見抜き、自身に応用する術を持っていた。


(そうか、集中力を使う部分と、抜いていい部分があるんだな)

(ここはそこまで力まなくてもよかったのか。だいぶ楽になるな)

(火のくべ方にもコツがある。これが火を理解するということか)

(心のどの部分で念じるかによっても燃え方が違う。意念の炎とは、意識の細分化が必要だったんだ)

(炎の波動の核心はここだったのか。ここに集中すれば、扱いは簡単になる)


 アヌビスは、ホルスを分析して立てた仮説を基に、実践しながら試行錯誤し、新たなコツを次々と見出していった。

 それが面白くて、砂場で城を創る子供のように、夢中で蝋燭に火を灯し続けていった。


 そして、気が付くと百本の蝋燭そのすべてに火を点け終わっていた。

 しかも、まだ大して疲れていない。あともう倍も点けられそうだった。


「お、お前……。一週間も経たずにこの課題を終えたのか?」我が眼で見ていたにも関わらず、ラーは信じられないのだった。どれほど素質のある者でも、二か月はかかる訓練である。

「コツさえ飲み込んでしまえば、簡単な課題だったよ」とアヌビスは気負いもなく言ってのけた。

「そのコツを飲み込むのに時間がかかるのだ」とラーは笑った。これほどの才は長い年月見たことがない。「お前は、チャクラの数が多い特異体質というだけでなく、チャクラの扱いの方にも天賦の才がある。神炎錬魄訣しんえんれんぱくけつの初歩段階に、ついに入境したな」

「じゃあ、ついにあの心法を教えてくれるのか」

「ああ、資格は十分だ」



 ラーはアヌビスに座禅を組ませ、神炎錬魄訣の口訣くけつを教えた。

 そして、その背中に両手をかざした。


「目を瞑り、集中しろ。そして、教えた口訣を心の中で唱え続けるのだ。俺がお前のチャクラに最初の火を灯す。お前は口訣によってその炎を定着させるのだ」


 アヌビスは、背中から、直射日光を浴びているような熱を感じた。その熱は徐々に内臓にまで浸透していき、下腹部が次第に熱を持ち始めた。熱がうねり始め、まるで内臓が意志を持ったかのように感じた。

 その最中にも口訣を唱え続けていると、内臓が火に包まれていくような心象風景が見えてきた。炎の舌がどんどん燃え広がっていく。


(これ、やばいんじゃないのか??)


 アヌビスは痛みと熱を感じ、汗を垂らしつつも、口訣を唱え続けた。


「火と戦うな、受け入れろ。それはすでにお前自身の火だ。恐れるな。それはお前の生命の火だ」


 ——これが俺の火?


 アヌビスはその言葉を聞くと、この熱を受け入れてもいい、と自分自身に許しを与えた。

 すると、不思議に落ち着きを取り戻した。


「そうだ、上出来だ。そのまま心を澄ませ、火に集中しろ。そして、火がどんな意志を持つのか、感じてみろ」


 指示に従い、アヌビスは内臓を燃やす火に意識を向けた。そして、火と交感するように、火そのものの意志を探った。

 それは「生きたい」という、強い強い望みだった。


 これは、時折感じた、あの突き動かされるような想いだ、とアヌビスは気付いた。

 この炎は、間違いなく俺の心だ。


「ほう、もう心火しんかと交感したか。だが、まだ足りぬ。その炎を、お前自身そのものとして、感じるのだ」


 アヌビスはラーの声に従って、心火を己のものだと肯定し、それを認め、受け入れた。


 俺は俺の願いを、肯定する。

 俺は生きたい、生き残りたい。

 ホルスに勝ちたい。セトに勝ちたい。

 父や母に、会いたい。


 そのために、俺は強くなりたい。


 すると、もはや不快な熱や痛みはなくなり、強い衝動だけが伝わってくる。

 そして、炎から感ぜられる想いも変わっていった。アヌビスが己の動機を肯定し、違う側面にフォーカスしたからだった。


 それは燃え上がるような歓喜の波動を放っていた。

 それはこの世界を、己の意志によって生きられる喜びであった。


 アヌビスはその波動をつぶさに観察し、そして受け取った。


「お前は本当に飲み込みが速いな」とラーはまたも笑った。打てば響くこの大きな鐘に、自身の武功を伝えられるのは、愉悦以外の何物でもない。


 アヌビスは口訣を唱え続けており、返事は出来ない。


「まあいい。これから神炎錬魄訣の真髄を伝える。いっぺんに覚えられなくてもいい。理解できなくてもいい。お前と一緒に、お前の魂が聞いているからな」


 ラーはその美しい赤い髪をかきあげた。首筋から、えもいわれぬ色気が漂う。


「炎とは力であり、知恵だ。人間はたった一匹で、森のすべてを焼き払うことが出来る。それだけ強大な力だということだ。しかし、その一方で、焚火を囲んで家族で暖を取ったり、獣の肉を焼いて調理することも出来る。炎とは、命を奪いもすれば、活かしもする。そのどちらも炎の側面であり、片一方だけを肯定するのではなく、両面を肯定することが必要だ」


 アヌビスは静かに頷いた。その胸には、ラーの発した言葉が無数に渦巻いている。その言葉に含まれる意味を、少しでも吸収しようとしていた。


「そして、あの燃え盛る太陽のように、炎は、すべての源にもなり得る。考えてもみよ。太陽の光が植物を育て、その植物そのものや、それを食べて育った動物を、俺たちは食べている。俺たちはみな、あの太陽の炎でできた食べ物を食べているということなのだ。俺たちの血や肉は、太陽の恵みの賜物なのだ。そして、焚火や太陽のように、炎は光にもなる。闇を照らし、そこに潜むものを明るみに出す。そして獣を畏怖させる――」


 ラーの声の波動が、言葉を発するごとに深くなっていく。それらはアヌビスの心の深くにまで染みわたってゆく。


 そして、アヌビスの身体が急激に熱を帯び始めた。それはラーの声色に共振しているかのようだった。

 アヌビスはその熱を、ただただ感じた。ありのままに受け取った。 


「そして、炎は、分け与えても減ることがない。蠟燭から蠟燭に火を移しても、元の蠟燭の火が減ったり尽きたりすることがないようにな。お前の意念の炎は、何かを焼き尽くすことも、誰かに暖かさや気力を分け与えることもできる。それが炎の本質だ」


 炎についての理解が深まるにつれ、炎から受け取れる波動そのものが変化していった。

 炎が、こんなにも力強く温かなものだったとは。


「よし。これで神炎錬魄訣はお前のチャクラに宿った。あとは、毎日座禅を組み運気調息し、内なる炎を感じ、また周囲の気をこの炎にくべるようなイメージをせよ」

「よっしゃあああああッッ!!!!」


 アヌビスは雄叫びをあげた。


(つづく)

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