▼第九話「復讐鬼ホルス」




「ここから立ち去れ、下賤げせんの者よ。ここは余が占有している」


 その目は、はっきりとアヌビスを見下していた。生来の誇り、いや、驕りがある。息を呑むほどの美少年だったが、酷薄そのものの眼をしていた。


「占有?」とアヌビスは聞き返した。耳慣れない言葉である。「よくわかんないんだけど、一緒に修行するくらいいいだろ?」

「この無礼者が。口の利き方に気を付けよ。我が名はホルス。テーベの王オシリスの子にして、その仇敵セトを討つ者だ」

「オシリスの子……?」


 アヌビスはその名に聞き覚えがあった。当たり前だ。テーベはオシリスの率いた国だからだ。

 そのオシリスは弟のセトに謀殺されてしまい、戦争が始まった。


 そして、オシリスはラーの長兄であることも思い出した。つまり、ホルスもアヌビスもラーの孫である。

 アヌビスは今更ながら自分がセトと血縁であることに気付き、頭を抱えたくなるのだった。


「これでわかったか。余は王族である。貴様がどこぞの地方貴族かは知らんが、ひれ伏すがよい」


 アーヤマカンは王族ならびに高位貴族の修練場であることはすでにふれた。アヌビスは見目美しく、強い花の香りのような気品が漂っている。言動は野卑だが、じゅうぶん貴族に見えた。

 でなければホルスは無礼討ちしていただろう。それだけの激しい気性である。

 

(うわあ……。こんな嫌な奴らと血がつながってんのかよ、俺……)


 人を人とも思わぬ傲岸不遜ごうがんふそんな目の前の少年に対して、とても肉親の親しみを感じられぬのだった。


「お前もセトを討つっていうんだな。それなら同志じゃないか。仲良くしようぜ」


 アヌビスは握手しようと手を差し伸べた。


「生意気を言うなッッ!!」ホルスはその手を怒りに任せて払いのけた。

「いってえな」


 アヌビスはホルスを睨んだ。ホルスはその目が気に食わない。いや、存在自体が妙に癇に障るのだ。


「セトは仮にもラーの血を引く者。セトを討てるのは、ただ。余ひとりあるのみ。下賤の者がしゃしゃり出るなど片腹痛いわ」


 俺もその血を持ってんだよ、と言いたい気持ちをアヌビスはぐっとこらえた。どこからか話が漏れれば、きっとセトが自分の命を狙うだろうという確信があった。


「おい貴様、分かったらさっさと去ね」

「ちょっと待てよ! さっきから勝手なことばかり言いやがって! 俺は許可を得てこのアーヤマカンに入ったんだ。お前がいくら王族だろうと、指図される謂れはない!」


 ホルスは怒りのあまり、毛が逆立つのを感じた。この卑賎ひせんの者を躾けてやらねばなるまい。


「貴様が余に従うのは、余に王族の権威があるからではない。余が、貴様を遥かに凌駕する力をもっているからだ。痛い目を見ぬうちに、とくとね」

「ふざけるな! 俺だって一秒でも速く強くならなきゃいけねえんだよ!」


 アヌビスは居丈高なホルスに対して、応戦の構えを取った。


「おいアヌビス、やめろ! こやつは強いぞ、俺の子孫のなかでもとくに天分に恵まれている」とラーはアヌビスの耳元で制止した。「今のお前じゃ逆立ちしたって勝てん。喧嘩を売るんじゃないぞ」

「負ける事には慣れてるよ!」


 ホルスはアヌビスを招くように手を動かした。


「一刻も速く強くならねばならぬのは、余とて同じこと。時間を無駄にするな、かかってこい」


 アヌビスは覚えたての七星歩法を使ってホルスに飛び掛かった。チャクラを燃やして地面を蹴るごとに、大地に七つの星が一瞬のうちに浮かび上がり、次々と消えていく。アヌビスは光る星の上を蹴り進んでゆく。


(今だ!)とアヌビスはホルスとの距離を一気に縮める。そして、狙いの一撃を繰り出した。


 だが——


 ホルスは微動だにせず、静かに笑みを浮かべていた。そして、まるで初めからすべてを見通していたかのように、一歩だけ動き、軽やかにかわす。


「はっはっは、七星歩法だと? 鼻息が荒いぶん、どんな神功絶学を繰り出してくるかと思ったら!」

「うるせえ!!」


 アヌビスは三才剣法を用いて、連撃を仕掛ける。「三才剣法」とは、天・地・人を象徴する三つの構えが絶え間なく繋がる、攻防一体の剣術だ。アヌビスの手にした剣が、まるで生き物のように動き始める。

 振りかぶった天の剣、横斬りの地の剣、そして突きの人の剣を組み合わせ、ホルスに斬りかかる。


 だが、ホルスはあくまで冷静だった。「この程度なのか? 子供じみた三流武功では、余には届かんぞ」と、アヌビスの攻撃を華麗にかわす。

 子供じみた武功というが、ホルス自身、まだ少年の身体である。しかし、その余裕はひとかたならぬものだった。彼の動きは最小限で、力を使うまでもないかのように剣を避け続けていた。


「あきらめろ、お前は俺には勝てん。才能のない者、力のない者は所詮クズに過ぎん」


 アヌビスの心に、気も触れんばかりの怒りが沸き起こってきた。


「そんなわけがあるか!! 力がなくたって、人間には価値があるんだ!! クズじゃない!!」アヌビスはがむしゃらに攻撃を仕掛ける。

「じゃあお前は、誰より劣っていても幸せに生きられるのか? 仇よりも弱いままで、幸せなのか?」

「それは……」


 アヌビスは勢いを失った。アヌビスは力や才能がないことを理由に、自分を否定して生きていたからだ。過去の自分の否定が、いまのアヌビスの言葉を否定する。


「愚かな」


 ホルスがアヌビスの一瞬の隙を逃さず、腹部に強烈な一撃を叩きこんだ。それは武功でもなんでもなく、ただの固く握った拳であった。

 アヌビスは派手に吹き飛んでゆき、岩壁に激しく叩きつけられた。全身に衝撃と痛みが走り、呼吸が出来ぬほどの内傷を負い、地面に倒れ伏した。

 風が吹き、砂煙が立つ。


「目障りだから消えろ」


 誰が消えるものか、と起き上がろうとしたとき、アヌビスはたまらずに嘔吐した。

 ホルスはその情けない姿を見て、思わず吹き出した。そして、笑いながら、きびすを返そうとした。


 アヌビスは、地面に這いつくばりながらホルスの言ったことを反芻はんすうしていた。


 力のない者はクズだって?

 俺は、俺は……。


「待て……」


 アヌビスはよろめきながら立ち上がる。口元には吐しゃ物が張り付いている。


「まだ殴られ足りないのか?」とホルスは振り向いた。

「いや一発で十分効いたよ。お前、強いんだな」

「その口の利き方、まだ仕置きが足りぬようだな」

「でもな、お前の言葉に反論できなかった自分がショックだった……。拳より、言葉の痛みのほうがでけえ」アヌビスは拳で口元を拭いながら言った。

「ほう。ならば、体の痛みと釣り合いが取れるようにしてやろう」


 ホルスは冷酷な笑みを浮かべ、アヌビスに駆け寄る。


「いつか、俺は、過去の俺を肯定できるほど強い男になって、お前もセトも、ぶっ倒す――」

「夢想もほどほどにしろッ!!」


 ホルスの瞳が鋭く光り、拳に力を込めた瞬間、ホルスの身体全体が内側から強烈な光を放った。そしてその光は一瞬にして彼の拳に集まり、激しい電流が巻き付いた。


「<天鷹迅雷拳てんようじんらいけん>ッ!!」


 次の瞬間、拳が空を切る音と共に電流が爆発し、稲妻がアヌビスに向かって放たれた。その速度はまさに迅雷。空を裂く雷鳴のような鋭い衝撃波が、アヌビスの全身を貫いた。

 電流が身体を流れ、筋肉を焼く。視界がめちゃくちゃに明滅し、痛みと混乱で脳は煮え立つ。全身が内側から弾けて裂けていくようだ——


 気を失う刹那、アヌビスはホルスの拳を見た。そこに絡みつく雷のような電流を見て、これが武功か、とただ感心した。

 圧倒的な力の差を実感しながら、アヌビスは意識の深い闇へと落ちていった。



「アヌビス! おい! アヌビス!」


 意識が不意に戻ってきて、アヌビスは薄目を開けた。幼いラーが心配そうにのぞき込んでいる。仰向けになって気絶していたようだった。


「ああ、ラーか――」

「お前、半日も気絶してたんだぞ」


 その言葉を聞いた瞬間、悔しさが沸き上がってきて、涙があふれてきた。それは止めようとしても止められなかった。


「俺、ずっと自分を否定してたんだ。そして、それは今も……」


 アヌビスは嗚咽した。両手で涙をぬぐう。


「あいつが、弱い奴はクズだって言ったとき、反論できなかった。俺自身が、ずっと俺にそうやって言い続けてきたから」涙がとめどなくあふれる。それは敗北の悲しみではない。自分を否定してきたことへの負い目を感じているのだった。

「そうだな」とラーは頷いてやった。「自分を否定する者は、他者の言葉で容易に心が折られてしまう。お前が強くなりたいというのなら、自分への接し方から変えていかねばならない」


 アヌビスは吠えた。泣きながら、天に向かって。


「俺、強くなりたいよ……」


 アヌビスは岩壁の合間に切り取られた夜空の星を見ながら言った。その日は空気が澄んでいて、とくによく星が見えた。満天の星空である。


 技も心も叩き折られ、地面から見上げたこの星空を、一生忘れないだろう、とアヌビスは思った。


「なれるさ」とラーが言った。

「あいつに、二度と負けたくない」


 アヌビスは強い決意の眼をしていた。そのふちにはまだ涙が残っている。


「その為に俺がいる」とラーは自らの胸を叩いた。


(つづく)

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