▼第八話「修行場アーヤマカン」
しばらくは水上の旅である。二日目はチェブの街から、アフミームの街へ。三日目はアフミームからアビュドス、四日目はアビュドスからイウネト(デンデラ)へと向かい、五日目にテーベに到着する旅程だ。
アフミームへと旅立つ船の上で、アヌビスはラーに
運気調息とは、自然の霊気を自身のチャクラに取り入れるための呼吸法で、目を閉じながら心中で
かくして、昼間は運気調息、夜間は夢の中で修練という二重生活が始まった。
二日目の夜は、最も初歩的な武功をラーが手ほどきした。
「これより、お前に
「なあんだ。もっとド派手な神功絶学を学べるかと思ったら、三才剣法と七星歩法か」とアヌビスは拍子抜けの顔をした。これらは、誰でも学べる二束三文の安い武功だったからだ。最も、それらの武功すらアヌビスは身に付けられなかったのだが。
「
「なるほど、基本中の基本が大事ってわけか」
「その通りだ。お前には基礎から徹底的に叩きこむ」
アヌビスは両手を前に合わせ、礼を取った。
「師父、よろしくお願いします!」
「私の指導は厳しいぞ」
「望むところです!」
ラーはアヌビスに基本的な型を教え込んだ。
アヌビスはそれらを、乾いた砂漠に水を垂らすがごとくに吸収し、学んだ。
アヌビスは自身でも気付いていなかったが、飲み込みがとにかく速かった。夢のなかゆえ、昼間よりも動きを精密にコントロール出来るからということもあったが、やはり才能に属することだろう。
ただ、武功とは動きを学ぶことが目的ではない。それでは体操となんら変わりがない。絶え間ない反復練習の果てに、思考よりも先に反射で動くことができるようになってこそ、実戦で役に立つ。
ラーは三才剣法と七星歩法を教える時間と、蝋燭の火を灯す、
先に型を修練したのち、炎の扱いを学ぶ。
アヌビスは二日目の夜に蝋燭を十五本、三日目の夜に三十本、四日目の夜には五十本を灯した。
これは優秀極まりない師が付きっきりで教えたからといって、誰にでもできる芸当ではない。きらびやかな才能に、ラーは目を細めた。
そして、ジャウティを出立してから五日目に、アヌビスはその谷に到着した。
テーベの北、砂漠の中にひっそりと隠された谷、アーヤマカン。
この谷へと入る道は、岩肌に挟まれた狭い通路を通るのみで、その存在を知る者はほとんどいない。ハウランが言ったように、王族や、それに連なる高位の貴族にのみ開放された修行場だから、一般人が知る必要もなかった。
また、制限も課されている。その霊気の質を保つために、どのような家柄だろうと例外なく、一か月の期間しか入場することを許されていない。同時に入場できる修行者の数も、ごくごく少なく設定されている。
石灰岩でできた、白みがかった断崖が、目の前に広がっている。周囲に生い茂るものはほとんどなく、その厳しい環境を物語っていた。その断崖の裂け目に、狭い道が通っている。
岩と岩のわずかな合間に入っていくと、急に空気がひんやりとした。冷たく乾いた風が、岩間を吹き抜ける。
断崖の表面には、時間と自然の力によって形成された無数の割れ目やくぼみがあり、それが独特の陰影を彩っていた。
その道を進んでいくと、関所が設けられていた。ここが修行場への入り口か、とアヌビスはラクダから降りた。
関所を守るための門衛として、髭を生やした中年の男と、白髪の男の二人がそこにいた。
ここで身分を照会する必要がある、とあらかじめハウランから言い含められていたアヌビスは、髭の門衛にハウランの紹介状を渡した。
二人の門衛は紹介状と少年を見比べ、訝しんでいたが、やがて入場を許可した。
先にアイシャから貰った衣類に着替えておいたのが、功を奏した。汚いなりのままだったら、恐らくは門前払いをくらっていただろう。
アヌビスはアイシャの心遣いのきめ細やかさに心から感謝した。
谷の狭間の奥へと歩んでいくにつれ、天然の霊気が、濃くなっていった。
一歩歩くごとに、肌が濃密な霊気とこすれあい、鳥肌が立つ。
「寒くもないのに鳥肌が止まんねえ、すごいなここは!」
「このあたりじゃここが一番だ。気の質が違う」再び幼児のフォルムになっているラーが頷いた。
「チャクラを作って間もない俺でも感じ取れるくらいだからな、ほんと凄いよ」
「それは違うぞ。お前はチャクラが使い物にならなかっただけで、感覚はべらぼうに優れている」
「そうなのか? ずっと俺は自分の何もかもがダメなんだと思ってた」
「馬鹿を言うな。お前はもっと自分のことを知るべきだな。そうすれば無用な卑下はなくなる」
アヌビスはいままで他人に褒められた経験がなく、くすぐったい思いをした。そして足取りが軽くなった。
ラーは幼児のフォルムながら、父親のように腕組をして後ろからアヌビスを見ていた。
通路の先は開けていて、ちょっとした平地の空間があった。その周囲の岩壁には、自然にできたと思われる洞窟がいくつもあり、その中で寝泊まりができる。アヌビスもそのひとつを割り当てられていた。
その空間の中心には、奇妙な形の石碑が円形にいくつも立ち並んでいた。石碑には、古代の象形文字でなにごとかが書いてある。
さらにその環状列石の中心には、花崗岩で出来た台があった。そこが修行場であるらしく、六人の修行者たちがそこで運気調息をしていた。みな年齢はアヌビスとそう変わらない。
花崗岩の台は、直射日光を浴び、かなりの熱を帯びている。
常人がこの上に十分も座れば、汗が全身から吹き出し、濡れ鼠のようになるだろう。それほどに、熱い。
彼らは内功を使い、体感温度を調節しつつ、運気調息をしているのだった。
「みんな若いのにすごいな」とアヌビスは驚いた。「俺たちもここで修行するのか?」
「ふむ、あそこも悪くないが、もっと気の濃い場所があるな。お前にも、わかるか?」
アヌビスは試しに、目を閉じて大地の気の濃淡を感じてみることにした。そして、谷の奥に濃い気の塊を感じたのだった。
「あの谷の奥の方に、濃い気を感じる――」
「そうだ。やはり、お前の心眼はひとかたならぬもののようだ。もっと自信を持て」
アヌビスの心に、自信が芽吹き始めた。
はにかみながら笑うアヌビスの横顔は、どのような宝石にも勝るとも劣らない輝きがあった。
環状列石のある修行場の奥に、さらに岩の裂け目が続いている。気はその裂け目の奥から匂うように漂っていた。
アヌビスは気脈を追い、その細い道へと入り込んだ。奥に進むにつれ、岩肌と岩肌の隙間が、人がすれ違えるかどうかほどの幅にまで狭まっていく。
そして谷の最奥にある、開けた場所へとたどり着いた。
そこには、小さな泉があり、その周りには緑の植物が点在している。ヤシの木も数本生えており、小型のオアシスのような場所である。
そこは、非常に濃密な霊気に満ちていた。
「よし。この辺でいいだろう。マスダルの入学試験まで、あと一か月しかない。だが、その一か月間、お前はこの修行場で昼夜を問わず、チャクラに気を取り込む修行をすることが出来る」
「どれくらい強くなれるかな?」
「それはお前次第だ」
「いいね、好きな言葉だ」アヌビスは満面の笑みで答えた。
その時、足音が近づいてきた。
振り向くと、そこには金髪の若い公子が立っていた。
年のころは、アヌビスと変わらない。利発そうな目と、涼やかな眉が特徴的であった。にもかかわらず、あどけなさは感じられず、幾多もの辛酸をなめ尽くしたような趣さえある。
物凄い美男子だ、と一瞬アヌビスは目を奪われた。ただし、その表情が敵意に満ちていたため、すぐに身構えた。
「おい貴様、誰の許可を得てここにいる。この泉は、貴様のようなものが使える場所ではないのだぞ」
(つづく)
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