▼第七話「特級心法・神炎錬魄訣」
アヌビスはラクダを駆り、ジャウティの船着き場に向かった。帆船でテーベに行くためだ。
ナイルは水の高速ハイウェイであり、流れに身を任せれば北へ、帆を張れば南へ進むことができる。
修行場アーヤマカンに向かうためには、水行で四日ほど進んでテーベに行き、そこからラクダで半日程度旅する必要があった。
アイシャとハウランが手配してくれた船にラクダごと乗り、アヌビスは南へと出発した。
ナイル川を滑るように進む船から、アヌビスは両岸の風景や、青く光る水面に心を広げた。岸辺には生い茂る葦や背の高いヤシの木が風にそよいでいて、その豊かな緑が、砂漠の乾いた大地と明るいコントラストを作り出していた。 畑を耕す農夫、水を汲む少女、魚を獲る男、洗濯をする主婦など、ナイルの恵みを受ける人たちの姿があちこちで見受けられる。強い陽光が砂漠の彼方から照りつけ、遠くの地平線がゆらゆらと揺れて見えた。
(これが船旅かあ、なんでもきらきらして見える!)
アヌビスも船には何度か乗ったことがあるものの、そのときは戦に向かう傭兵だったため、風景を楽しむ余裕など微塵もなかった。アヌビスは生まれて初めて旅を楽しんだ。
夕暮れになると、川沿いの景色は黄金色に染まり、空には濃い赤や紫の雲が広がった。ナイルの水面もまた、夕日を映し、まるで炎が燃えるかのようだった。風は涼しくなり、遠くの集落の灯火が星のようにまたたき始めた。
船はチェブと呼ばれる街に停泊し、アヌビスはラクダを預けたまま下船した。そして、一泊の寝所を求めて神殿へと向かった。
この時代は旅をする者は政府の高官や神官、または巡礼者に限られており、現代のように大衆向けの宿屋は存在していなかった。だから巡礼者たちは神殿に寝泊まりするのが一般的であり、アヌビスもアイシャの勧めでそれに従った。
白い石灰岩で建設された神殿の隅に、アヌビスは絨毯を広げて倒れ込んだ。もう動けない。船旅の揺れによって、疲れ果てていたのだ。
ラーが何事かを言っているが、もう眠くてよくわからない。毛布をひっかぶると、すぐに眠りに落ちた。
――と思ったそのとき、アヌビスは突然、見知らぬ演武台の上に立っていた。
「なんだここ!? 俺、神殿で眠ったはずだよな!?」
アヌビスは驚いて辺りを見回した。大理石で出来た荘重な演武台を、石灰岩でできた壁がぐるりを取り囲んでいる。その壁には浮彫でレリーフが施されていて、格式の高さを感じさせた。
空は明け方のような藍色で、星もわずかに見えるが、不思議と暗さは感じず、すべてが明瞭に見えた。
それは、まったく見覚えのない景色だった。
まるで武神の修行場のようだな、とアヌビスが思ったそのとき、突然、背後から声が響く。
「おい、何ぼさっとしてる。修練するぞ」
振り返ると、声の主は二十歳ほどの青年で、恐ろしいほどの美貌だった。赤毛を頭上で結んで束ねている。眼光は鋭く、全身からは武威、気迫が溢れている。
「なんだ、何を見ている」
「あんた誰だ!? ここは一体……」
「誰だってお前、古今東西で最強の名を欲しいままにしているラー様に決まっておろうが」
「なんだって!?」
アヌビスは驚きつつ、目の前の男をしげしげと見た。なるほど、俺の面差しにどことなく似ている――ラーはアヌビスの祖父にあたるわけで、似ているのも道理だ。
「あんたが……ラー??」
「ああ、そうだ。こっちの姿の方がお前を鍛えるにはちょうどいいだろ。もっとも、夢の中でしかこの姿にはなれぬのだがな」
「へーそうなんだ……って、ここ夢の中!?」アヌビスはまたもや驚いた。
「そうだが?」
「説明しとけよ!!」
「する前に寝落ちしたんだろうが!!」
そうだったっけか、とアヌビスは頬をかいて誤魔化した。
「ここはお前の夢のなかにある修行場だ。これから毎晩、夢の中でも修練出来るぞ」ラーは歯を見せてにかっと笑った。
「休む暇もないってのかよ?」アヌビスは腕を組んで生意気そうに言った。
「お前にはとにかく時間がないからな。寝ている間にも強くなれるんだぞ、喜べ」
「はいはい……」
文句を言いたげなアヌビスだったが、しかしすぐに乗り物酔いの不快感や肉体的な疲労を感じないことに気が付いた。
「どうだ、身体が軽いだろう。夢の中では、最も理想的な体の動きができる。だからこそ、効率的に武功を習得できるのだ。まあ、この秘法を使えるのは世界広しと言えども俺だけだがな」
「すっげえ! これなら、どんな動きだってできそうだ」
アヌビスは演武台の上で飛んだり跳ねたりしながら、かつてない身体の全能感に浸っていた。
「イメージトレーニングというのだが、これも立派な修練だ。しかもお前の場合、傍に俺という師がついている。どうだ、最高の環境だろう」
「ラーちゃま!!」アヌビスはあまりの喜びに舞い上がり、ラーに抱き着いた。
「誰がラーちゃまだ、ドアホ!!」
ラーはアヌビスを引き剥がし、座禅を組ませた。
「これからお前に俺が作った特別製の心法を教える。心法とは、チャクラを積み、大きくするための口訣だ。名付けて
「それは世界一強くなれるのか?」とアヌビスは聞いた。セトに勝つためにはそのくらいでなければならない。
「無論だ。さあ、グズグズするな! このあと武功や歩法を教えなければならんのだからな!」
「上等だ!!」
ラーは落ち着いて深呼吸をするようにアヌビスに言った。アヌビスはその言葉に従って深呼吸をするが、なかなか落ち着かない。いままで無駄だとわかっていながらも修練をした日々が、アヌビスの心臓を高鳴らせていた。あの無駄に流した汗の数々のきらめきが、喜びに変わる。ようやく、俺にも武功が学べるのだ、と思うとそわそわし、太ももが勝手に揺れた。
「落ち着くのだ。呼吸に集中しろ。喜ぶならあとで喜べばいい、と自分に教えてやれ」
「わかった」
アヌビスは目を瞑り、呼吸に集中した。美しい銀髪を縛って束ねており、細い首筋が露わになっている。
その背後に、成人した姿のラーが座り、俯きながらアヌビスの背中に手をかざした。伏し目がちな表情は妖艶そのものである。
ラーはアヌビスのチャクラの様子を一通り確認した。
「急造のチャクラだが、とくに問題はないようだ。自然の気を乱暴に凝縮したにしちゃ、上出来だ。だが、小さすぎるな。大豆くらいの大きさしかない」
「ここから大きくしていけばいいんだろ?」
アヌビスは気やすく聞いた。その態度にラーはため息をつき、アヌビスの頭を拳骨で軽く殴った。
「痴れ者が。修練中は、血族といえども師と弟子だ。わきまえよ」
アヌビスは頭を押さえながら振り返り、ラーをまじまじと見た。
アヌビスには、父も兄も師もいなかった。誰かに何かを教わることがなく、どのようにすればよいのか、知らなかった。
年は十七でも、まるで子供だったのだ。
(やり方は知らないが、真心で行こう)
アヌビスはラーに対して向き直り、正座をした。
「師父ラーよ、この未熟な者アヌビスを、弟子としてお受け入れください。どうか、師父の知恵をお授けください」
アヌビスは深々と頭を下げて拝礼した。
生まれ持った気品も相まり、とても美しい所作だった。
その一連の動きを見たラーは、(なかなかどうして、一幅の絵のようだ)と満更でもなかった。
「うむ、よかろう。これでお前は正式に俺の弟子だ」
その返答を聞くや否や、アヌビスは素早く面を上げ「なあ、いまみたいな礼でよかったのか?」と飄々と言ってのけた。
その瞬間、ラーの身体から灼熱の炎のオーラが噴き出す。それはまさしくすべてを灰にする太陽の熱だ。夢の中とはいえ、怒りで大地と大気とが震えている。
「なあんもわかってねえな、お前!!」
「やだなあ、師父!! もちろん冗談ですよ、冗談!!」アヌビスはひきつった笑顔で言った。
ラーはため息をつきながら、愚かな弟子に心法について伝授する。
「心法とは、口訣を唱えながら、周囲の気をチャクラに取り込み、精錬していく技法だ。それゆえに、霊気の多い場所で修練すると、内功を積みやすい」
「夢の中でもチャクラは大きくできるのですか?」
「夢の修練場の場合は、お前の肉体が存在する場所から気を取り入れることになる。お前がぐっすり寝ているチェブの神殿は、修練環境として特別優れているわけではないが、やり方を教えるのに不都合はない」
ラーは太い蠟燭を取り出し、それに気で火を灯した。大理石はオレンジ色の光を反射させ、炎の揺らめきを投影している。
「神炎錬魄訣を習得するには、炎への理解が必要だ」
「どうやって理解するのですか?」
「まずは炎に囲まれて、炎を体感するのが速いだろう。そして炎と戯れるのだ。一年もあれば、お前のチャクラに炎が宿るはずだ」
「一年かあ、ずいぶん先の話だなあ」すぐに強くなれると思っていたアヌビスはぬか喜びだったと肩を落とす。
「何事も地道にやるしかないのだ」
ラーは指をぱちんと鳴らすと、蝋燭を何本も演武台の上に現出させた。その総数、百本である。
「この蝋燭を使い、すべての蝋燭に火を点けてみろ」
「なんだ、ずいぶん簡単な課題だなあ」
「たわけが。まずはやってみろ」
アヌビスは蝋燭を受け取り、演武台の上にある蝋燭の芯に、炎を添えた。
しかし、いつまで経っても火は燃え移らない。
「あれ? 湿気っているのかな」アヌビスは焦り、何度も違う角度から火を当てる。
「さもありなん。この蝋燭は、特殊でな。普通にやっても火は移らん」
ラーはアヌビスから蝋燭を受け取ると、手ずからほかの蝋燭に近付け、火を移した。
「この炎は、意念の炎だ。ただの炎ではないのだ。炎に集中し、炎の波動を感じながら、燃え移れと念じてやってみろ。一か月以内に出来るようになるのだ」
「あ、ああ」
アヌビスは蝋燭を再び手にし、まずは炎をじっと見つめた。
「炎の揺らめき、熱、光、そこに集中しろ。それを心に沁み込ませるのだ。それが神炎錬魄訣を体得する第一歩だ」
「はい、師父」
アヌビスはその炎に集中した。すると、その炎そのものの存在感を、確かに感じることが出来た。
(この存在感が”波動”ってやつなのか?)
アヌビスはその炎に集中し、もう一本の蝋燭の軸にその炎が燃え移る場面をイメージした。
(燃え移れ、燃え移れ、燃え移れ)
「いきなりは難しいかもしれんが、焦ることはない。心の使い方は一朝一夕では――」
「で、出来た!!」
「なに!?」
ラーは目を剥いて驚いた。アヌビスはその炎を、燃え移らせていたのだ。
「お前、いったいどうやって!?」
「どうやってって、師父が教えてくれた通りにやったんだけど……」
「まさか!!」
ラーは一か月と期限を設けたが、それは随分と無茶なハードルであった。普通はもっともっと時間がかかる。
最初の炎を灯すのだって、数週間はかかると見通していた。
それを、教わってすぐにコツを飲み込んだとは、到底信じられなかった。
「ふん、まあ私の孫だからな、これくらいは当然だ」
「全部点けたらいいんだよな?」
「出来るものならやってみろ」
アヌビスは言われた通りに、二つ、三つ、と蝋燭に火を灯していった。
(こいつ、天才か)
ラーは思わぬ収穫に頬が緩みそうになるのを、必死に耐えた。アヌビスが調子に乗りやすい性質だとわかっていたからだ。
「くっそ、四つ目がうまく点かないな」
「集中力が落ちてくると、そうなる。だが一晩でこの百本の蠟燭に火を点けられるようになれば、意念の炎を扱う下地が整う」
「よし」
アヌビスは深呼吸し、頭を少し振って、四本目に再挑戦した。そして、火が灯った。
「お前、前世で本当に武功を体得したことはないんだよな?」
「俺のチャクラが使い物にならなかったってのは、師父もよく知っているんじゃ?」アヌビスはきょとんとした顔をしている。自分がどれほど飲み込みが速いか、比較対象がないからわかっていない。
そして、五本、六本と火を灯していく。
七本目でアヌビスは集中力を使い果たし、その場で座り込んだ。脳疲労が蓄積し、頭に霞がかかったようになっていた。
「疲れるなあ、これ。本当に百本も出来るのかなあ」
「それはお前が新しいことに挑戦しているから疲れを感じているだけだ。コツを飲み込めば、もっと楽に、手早く、疲労もなく出来るようになる」
「そっか」と言ってアヌビスは拳をぐっと握る。出来なかったことが出来るようになること、それが楽しくて仕方がなかった。
「それに、初めてにしてはよく出来た方だぞ」
「ありがとうございます、師父」
アヌビスは礼を言うと、そのまま夢の中で眠りに落ちた。集中力が限界に達すると、脳を休めるために寝落ちする仕組みであった。
ラーは眠っているアヌビスの額に手を当て、口訣を唱えた。手が光り、アヌビスの脳がしゅわしゅわと音を立てた。疲労を回復する呪法である。
「よくやったぞ、馬鹿弟子めが」
ラーは十二歳のアヌビスの額を撫でながら微笑んだ。
「このぶんなら、もっと過酷な課題を与えてもよさそうだ」
(つづく)
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