▼第六話「墓守のアイシャ」




 アヌビスは全身全霊で叫んだ。ここで手抜けば後顧の憂いが残る。自分の説得にジャウティの平穏無事がかかっているのだ――


 ハウランは直感でその腹の底を嗅ぎ取った。

 それは、打算のない、献身である。


「……嘘か真か、俺には判断できぬ。だが、お前の魂は受け取った!」

「えっ、将軍、それでは――」


 ハウランはアヌビスの肩に手を置いた。それは非常に分厚く、力強い掌だった。


「お前を信じてみよう。さあ、急がねば!! お前の街は俺に任せろ!!」


 そしてハウランは飛び去った。

 また、南からテーベの兵士たちが街に向かって走ってゆくのを、アヌビスは山頂から見た。


「どうか、ご武運を」


 アヌビスは掌に拳を当て、礼を取った。



 翌朝、アヌビスはジャウティの街を検分するように歩き回った。

 さすがに強者同士の戦いのせいか、崩落した家屋もそちこちに点在していたが、前世の惨禍を思えば、ずいぶんと街の面影は残っている。


 通りでは、市民やテーベの兵士たちが瓦礫を運んでいる。

 その周囲を大工や人足たちが忙しそうに動き回り、復興のために力を尽くしていた。


 戦いはその日の夜のうちに終わった。

 ハウランは部下を指揮し、速やかに罠を発見したのち、解除させ、そして敵将を逃さず、討ち滅ぼした。

 前世よりも、どれだけマシな結果かわからない、とアヌビスは内心ほっとした。


「見たところ、前世よりもずいぶん被害が少ないな。本当によかった」とアヌビスは胸をなでおろした。

「まあ、そうなんだろうが」とラーは不満げに言った。「しかし、もうあんな無茶は二度とするなよ」

「はいはい」とアヌビスは空返事をした。


 やれやれ、とラーは額に手を当てる。このじゃじゃ馬を御すことは、どんな暴れ馬よりも難しいかもしれない。



――昨夜。


 アヌビスはハウランを見送ったのち、メンフェネルの兵士に襲われていた女の縄をほどいてやった。

 よく見ると、煤で汚れてはいるが、神官の服を着ていた。


 拘束を解かれた女は、アヌビスの名を聞き、一通りの礼を言った。


「助けてくれて、本当にありがとう」

「いやいやそんな……」とアヌビスが謙遜しようとしたとき、女はその言葉を遮った。「でもね、これだけは言わせて。自分の命をなげうつなんて、あなた正気なの?」


 それは聞き分けのない子供を叱るような口ぶりであった。

 どうやら本気で怒っているらしい、とアヌビスは悟った。


「え、いや、あの」

「大人が、あなたのような子供の命を犠牲にしてまで生き残りたいと思うわけないでしょ!」女は涙ぐんだ。この子が死んでしまったら、ということが、自分の貞操が穢されることよりも恐ろしかったのだ。

「ああ、いや。えっと、頭で考えるより先に身体が動いちゃったから……」女の涙に焦ったアヌビスは、冷汗をかきながら言った。

「もしハウラン将軍がいなければ、あなたは死んでいたのよ!?」


 そうだそうだ、とラーが頷いている。アヌビスは確かに無謀過ぎた、と反省し、きまりの悪い顔をしている。


「次からは自分の命を大事にするのよ? わかった?」と女は言った。


 その真剣な瞳を見て、美しい人だ、とアヌビスは思った。

 その女はナイルの民としては比較的肌が白く、ウェーブのかかった黒髪がよく似合っている。


 見惚れているアヌビスに、「返事は?」と女が詰め寄った。

 アヌビスはたじろぎつつ、「ちゃんと自分を大事にするよ」と約束した。


 女はようやく怒りを鎮めた。


「私の名はアイシャ。このあたりの岩窟墓の墓守をしている者よ」

「アイシャ。いい名前だ」とアヌビスは独り言ちた。

「アヌビス。あなたのしてくれたことは決して忘れない。私はいつでもあなたの力になるわ」アイシャはアヌビスの眼をじっと見た。目力が強い。

「大げさだなあ」アヌビスは照れた。

「いいえ。大げさなんかじゃないわ。あなたはそれだけの勇気を示したのよ」



 その後、武力衝突が止んだのを見計らって、アヌビスは女とともに下山し、ジャウティまで送り届けた。

 そして、市街を見回り、今に至る。


「孤児院も無事だといいけどな」とラーが言った。アルフダッド孤児院は前世では焼け落ちていた場所である。

「とにかく屋根と壁のある場所で眠りたいよ」と徹夜明けのアヌビスはあくびをした。


 二人は街の中心地を視察し終え、西の外れにある孤児院へと向かって歩きだした。


 そのとき、背後から声がした。


「おう、少年だか少女!!」


 途方もなく大きな声で、アヌビスとラーは肩をびくっと震わせた。

 この呼び方は――


「ハウラン将軍!」アヌビスの顔が輝いた。

「生きていたか!!」ハウランはにやりと笑った。

「ちなみに俺は男ですッ!! アヌビスって名前があるんです!!」

「なんだ、男だと? それは惜しいな」ハウランは豪快に笑った。それは後の世のサイレンにも等しい音量であった。


 通りの人々が、みな何事かとハウランを見た。声の大きさだけは天下一だな、とラーは耳を抑えた。


「それより、お前の言う通り、本当に罠が仕掛けられていたぞ! あれに気付かなければ、街は大きな被害を受けていただろうし、敵将も取り逃していただろう。よくやった!!」ハウランはアヌビスの肩をばしっと叩いた。

「いってえ!!」たまらずアヌビスは叫んだ。そのあまりの膂力に、アヌビスは大きくよろめいた。

「すまんすまん、喜びのあまり、ついな!!」ハウランは高笑いした。「しかし、お前のおかげで兵士の損耗も最小限で済んだわ!! なにか褒美をくれてやろう」

「いえ、褒美が欲しくてやったわけではないですから」とアヌビスは固辞した。

「馬鹿!! なにカッコつけてやがんだ!! お前は一秒でも速く強くならなきゃいけねえんだぞ!!」とラーがアヌビスの脛を蹴った。もう一度アヌビスがいってえ、と飛び上がった。


 ハウランは目を丸くして驚いた。俺がこのくらいの年のときにこんなこと言えただろうか?


「その意気やよし! じつに高潔な精神だ。だがな、こいつはタマが震えるほどの大きな功績だ! 遠慮するには及ばん」


 アヌビスはラーをちらと見た。


「王立戦神学院”マスダル”にねじ込めと伝えてみろ」とラーが言った。アヌビスは小さく頷き、龍炎獅牙ハウランにその旨を伝えた。


 しかしハウランは「それはできん」と言下に断った。「あそこは徹底した能力主義でな。入学試験による選別を受けねばならんのだ」


 アヌビスは再びラーをちらと見やる。ラーはその答えを予測していたようで、動揺ひとつしていない。

 ラーは再びアヌビスに耳打ちした。アヌビスは訳も分からずにそれを復唱する。


「それでは、『アーヤマカン』に立ち入る許可を貰えませんか?」

「アーヤマカン!?」とハウランは大声で驚いた。「ダメだダメだ、あそこは貴族の中でも高位のものしか使えぬ修行場だぞ! というか、なぜこんな辺境の者がその存在を知っておるんだ?」

「タマが震えるほどの大きな功績、でしたよね?」とアヌビスはにっこりと笑った。


 その笑顔は、大輪の花が咲き乱れるかのような眩さだった。

 光あふれ、太陽の光を一身に受けているかのような笑顔である。


「くっ……」ハウランほどの男がたじろいだ。「その年にしてもう”武器”の使い方を心得ているとは、なかなかやるな……! だが、それでもあそこは貴族限定で――」


 そのとき、また背後から近づく者があった。


「それって私の紹介状では足りませんか?」

「アイシャ殿!!」


 ハウランは声を張り上げた。


 それは白い装束に身を包んだアイシャだった。

 清らかで、百合の花のような高潔ささえ感じる。


「すみません、お声が大きくて、何もかも筒抜けでしたので」と言ってアイシャは手で口元を隠しながら笑った。


 再びハウランは凄まじい魅惑に打たれて気圧された。なにか、強烈な向かい風を浴びているかのような顔で歯を食いしばっている。

 ぐっ。どうなってやがる。こいつら、出来る――


「不足でしょうか、将軍?」とアイシャが重ねて問う。

「はあっはあっ。なんでもありません」とハウランは肩で息をしながら答えた。「アイシャ殿の紹介状と私の紹介状があれば、問題はないでしょう。しかし、よいのですか? そちらの家門で使える権利なのですよ」

「彼は私の恩人です。私が彼に報いられることは、なんでも致しましょう」アイシャは即答した。心に湛えられた覚悟の量が窺える。

「お前、街だけじゃなくて、大貴族様まで助けてたのか」


 ハウランはアヌビスを見下ろして呆れた。

 アヌビスとラーもまた唖然としている。


「アイシャって貴族だったの!?」

「これで少しは恩返しできるかしら?」

「でも――」と言うアヌビスに、ラーは脇腹を小突いた。

「お前も野暮だな。こういう場合は相手の好意を汲んでやるもんだ。そうすればあのアイシャとやらも心が軽くなるだろう」


 アヌビスは孤独だったから、その辺の機微に疎い。そうだったのか、と諒解し、その通りにした。

 アイシャは代償を支払う側だったが、胸のつかえが取れたと言わんばかりに、大いに喜んだ。


 アヌビスは誰かに親切にされた経験がなかったから、気恥しかった。

 それと同時に、こみあげる嬉しさがあった。


 そして、この体がもう三年、いや二年成長していたら、食事にでも誘っていたかもしれない、とアヌビスは顔を赤らめた。

 アヌビスは人に愛された経験がないため、優しくされるとすぐに好きになってしまうのだった。


「これくらいお安い御用よ。まだまだあなたの勇気には見合わないけどね」とアイシャはウインクした。



 翌朝、アヌビスが孤児院の扉を開け放つと、目の前の白い砂の通りにラクダを従えたアイシャが立っていた。

 ラクダはヒトコブラクダで、アヌビスやアイシャよりも体高が高い、立派なラクダだった。

 積み荷を背負っているが、それはアイシャが餞別に用意した、毛布や絨毯やその他の旅装だった。


「おはよう」とアイシャは朝の光を浴びながら微笑んだ。


 アヌビスは顔が赤くなるのを誤魔化すようにそっぽを向きつつ、ぶっきらぼうにあいさつを返した。

 外見よりも随分とませているその仕草に、アイシャは思わず吹き出した。「あんたってほんとおかしい子ね」とクスクス笑っている。


「おかしい? ”厄病神”とはよく言われるよ」とアヌビスは少しむっとしながら答えた。彼はまだ、女の尊敬を勝ち得たい年ごろだった。

「あら、こんなかわいい厄病神がいるかしら?」とアイシャは笑いながら言った。事実、アヌビスの瞳には、なにか底知れぬ魅力があった。「私にとっては、ラーのような神に見えたわ」


 アヌビスの心臓が高鳴った。


 この空気をもっと感じていたいのに、逃げ出したい。

 若さの、甘味と酸味に対する耐性が、アヌビスには皆無だった。


「もう、行くよ!」


 アヌビスは慌ててラクダに飛び乗ろうとした。


「待って!」とアイシャは引き留めた。「あなたにこの服を贈ります」

「これは……」


 それは麻の白い衣服だった。生地も仕立ても良質な、貴族仕様の一そろいである。


「こんなに立派なものを? 本当に、何から何まで、ありがとう」

「気を付けてね、アヌビス」


 アイシャはアヌビスの頬に接吻した。


 天地が爆発したか、とアヌビスは混乱した。

 喜びと驚きと恥ずかしさで、脳がかき混ぜられ、すべてがとろけた。


 顔を真っ赤にしたアヌビスは、今度こそラクダに飛び乗り、一目散に走りだした。


「望みを叶えられるよう、願っているわ。頑張りなさい」


 アイシャはいつまでもアヌビスを見送った。



 一方、同時刻、メンフェネル、セトの宮殿。


 王宮は荘厳なつくりで、セトの偉大さや影響力を誇示するかのような威容であった。

 その王宮のなかでも一番の目玉は、やはり玉座の間であろう。

 何人も収容できる大広間は、とてつもなく天井が高く、ナイルで最も素晴らしい建築の一つであった。


 しかし、その建築美を楽しむ余裕は、いま玉座の前にいる、どこの誰にもなかった。


 セトがそこに座っているからだ。


「『あの子供』はまだ見つからぬのですか?」セトがいかなる感情も読み取れぬ顔で言った。目が虚ろであり、生気は感ぜられぬ。


 セトの眼前には、髭を長く伸ばした五十がらみの男が恐縮しながら頭を深く垂れている。


「はっ、申し訳ございませぬ」


 長髭男の首筋から冷汗が垂れる。極度の緊張であった。

 王への応対の仕方を誤り、死んだ高官の名を挙げればきりがない。すべての臣はセトを恐れていた。


「しかしながら陛下、テーベの王立戦神学院”マスダル”に、我が方の草を潜ませることに成功しました」

「そうですか。ただ、『あの子供』がそこに入学するとは限りませんよ」とセトは言った。事実、前世では入学していなかったがために、捜索網に引っかからなかった。

「恐れながら陛下、あそこにも入れぬ者は、陛下の脅威にはなりえませぬ」


 セトはわずかに怒気をはらんだ。空気がほんの一瞬だけ、絶対零度に凍り付いたかのようだった。


 その瞬間、男は血を吐いて倒れた。


「余は、『あの子供』に脅威を感じるから探しているのではありません。あなたの器で余を判断するのは、非常におこがましいことだと思いませんか?」その言葉は、至って冷静な口ぶりだった。怒気などまるで最初からなかったかのような。


 男は息も絶え絶えに「も、申し訳……」と謝罪しかけたが、やがて心臓が止まった。


「リーハは急病によって亡くなってしまったようです。不摂生がたたったのでしょう。みなさんも健康には気を付けてくださいね」とセトは無表情に言い放った。


 臣たちは恐怖を持ってセトに忠誠を捧げていた。

 またしても、死が玉座の前に訪れたのを見て、臣たちは心底から震えるのだった。


「エアブカリ、あなたがリーハの後を継いでください」


 エアブカリと呼ばれた男は一瞬躊躇したものの、その様子を顔に出すほど愚かではなかった。

 俺はリーハとは違う、あの者は無能だった、と上官の死を惜しみもしない。


 内心では裸足で逃げだしたいほど恐ろしかったが、エアブカリは涼しい顔で「はっ。光栄であります。謹んで、お役に立ってみせまする」と返答した。


「『あの子供』の件ですが、引き続き頼みましたよ」

「陛下、お任せください。諜報は得意分野でありますれば」


 エアブカリは頼もしい返答をした。


(つづく)

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