▼第五話「龍炎獅牙」




 アヌビスはいまにも女を犯そうとする二人の男の前に、敢然と姿を現した。手のひらサイズのラーはやってしまったか、と額に手を当て、顔をしかめている。いまの力量では、逆立ちしたって大人の兵士に勝てるわけがない。


「なんだあ、てめえ」と小柄な方の兵士は松明たいまつをアヌビスの方に掲げた。肉付きがよく、いかにも卑しそうな顔をしている。「いまからがいいところなのに、何の用だよ? 見学したいってか?」


 女は口に布を詰められ、声にならない声で暴れている。どうやら、アヌビスに「逃げろ」と伝えたいようだった。こんな幼い少年が、私のために殺されるのは耐えられない。女は必死にもがいた。


 人倫にもとる野獣めらが。


 女が暴れるのを見て、アヌビスは余計に怒りが燃え立った。


「なんだ、ガキじゃねえか。いまなら見逃してやるから消えろ」女を組み伏している大柄な方の兵士が言った。いかにも雄臭い外見で、小さな森のようなひげを蓄えており、肌には切り傷が無数についている。

「馬鹿言え。俺も男だ。こんな狼藉ろうぜきを、見て見ぬふりなんて出来るものか」

「ほう、テーベにも気骨ある男がいるというわけか」と大柄な髭男は不敵に笑った。「その意気やよし。おい、ダロウズ。メンフェネルの流儀を教育してやれ」

「はっ」と小柄な兵士は明快に応え、ゆらりと立ちあがった。ひひひ、と下卑た笑みを浮かべながら、手に持っていた松明を地面に突き立てた。子供を殴るのは嫌いじゃなかった。むしろ、弱い者を虐げることに無上の喜びを感じるのだった。


 アヌビスは緊張から汗ばむのを感じていた。二人はじりじりと距離を詰めていく。


「こうなった以上は、もう仕方ない。アヌビス、よく聞け。あのゴリラのような男は別として、こっちの子豚は第一位階に過ぎん。お前の修練がゼロとはいえ、動きを見ていれば、必ず見切れる。まずは落ち着いて、相手の挙動を観察しろ」

「わかった」とアヌビスは頷いた。


 二人は、十分に近付いた。アヌビスは興奮で息が荒くなっていることを自覚した。

 子豚に似た兵士ダロウズが、にやにやしながらアヌビスに殴りかかってきた。


 アヌビスは息を詰め、集中しながらその動きを観察した。


(見える。俺にも、奴の動きが見える――)


 アヌビスはダロウズの大ぶりな拳を、屈んで避けた。空を切る音が、夜の岩山に響き渡る。

 空振りしたダロウズは、まだまだ余裕で、笑みを浮かべながら、なぶるように攻撃を加えた。しかし、それらもアヌビスは避けた。


「そうだ。相手の目線や、筋肉の動きをよく見ろ。相手の動きを予測するのだ。そら、次はお前の肩をめがけて攻撃してくるぞ!」


 アヌビスは身体をよじってダロウズの拳を避けた。

 ここに至って、ダロウズの笑みは消えた。おかしい。なぜ当たらないんだ?


「おい、何を遊んでいる! さっさと始末をつけねえか!」

「わかってますよ隊長!! だけどこいつ、すばしっこくて!」


 ダロウズは焦りを感じつつ、拳を振るい続けた。アヌビスはラーの助言を聞きながら、そのすべてを見切った。

 ラーはアヌビスの才能に驚きを禁じ得なかった。いくら目がいいと言っても、実戦ですぐにここまで対応できるものなのか。そしてにやりと笑った。俺の"目"に狂いはなかった。


「おい、ラー! いつまで避けてればいいんだ?」

「焦るな。あいつを見てみろ。肩で息をしているだろう。もっと殴り疲れるまで避けろ」


 ダロウズはすでに疲労困憊こんぱいだった。拳の勢いも、最初に比べればずいぶんと落ちた。はあはあと荒い息遣いで、汗を流しながら拳を繰り出し続ける。

 その姿を見て、アヌビスの落ち着きはいよいよ増した。深く集中しながら、敵の挙動を読み、かわす、かわす、かわす。


 なんてやつだ、と悪鬼のように素早いアヌビスを忌々しく思い、ダロウズは苛立ちを募らせた。


 その怒りをよそに、アヌビスは危険な状況にも関わらず、身体の使い方や目の使い方を理解するにつれて、無意識に笑みを浮かべていた。それは新たな才能に対する喜びだった。


 ダロウズは、自分よりも下だと決めつけていたアヌビスの余裕に、激しい怒りを感じた。


「畜生、もう勘弁ならねえ!」ダロウズは剣を抜き放った。松明の炎が青銅の剣を赤く照らす。「隊長、こいつは俺が殺す!!」

「大人しく殴られていれば、命までは取られなかったものを」髭の隊長は独りごちて、首肯した。

「へへへ、もう止まんねえぞ。お前の心臓をえぐり取るまでな」ダロウズの目は狂気に濡れた。


 アヌビスは再び緊張した。拳なら一発や二発喰らっても平気だが、剣の場合は、失敗すなわち死である。


「アヌビス。落ち着くのだ。やることは拳と同じだ。相手の狙いと、剣の軌道に着目しろ。あ、距離感だけ気を付けろ」

「本当にそれで大丈夫なのか!?」

「お前には子豚の拳が見えたはずだ。お前の目を、お前の血を、お前自身を信じろ」


 ダロウズは上段から袈裟けさ斬りで襲い掛かった。その狙いは、アヌビスにも一目瞭然であった。ここか、とアヌビスは即座に勘所を掴み、ひらりと剣をかわした。悪鬼のようなすばしこさだ、とダロウズは狼狽した。

 今度はぐように横に剣を払ったが、これもアヌビスはのけぞって紙一重でかわす。


「むおおおお!!!!」


 拳でも剣でも空振りをし続け、ダロウズは怒りで我を忘れた。矢鱈滅多やたらめったらに剣を振り回す。逆上する兵士とは対照的に、アヌビスは冷静に動きを読み、前後左右に身をかわし、翻弄ほんろうする。


 ついに、ダロウズは疲労で腕が上がらなくなり、剣を下ろした。なぜ、当たらないのだ。それは霧のなか無闇に剣を振っているような、虚脱感だった。


「いまだ! 剣を奪い取れ!」ラーは叫んだ。


 アヌビスは機敏に動いた。ダロウズは目がかすんでいて、息をするので精いっぱいだった。アヌビスはほとんど握力のないその手から、剣を奪い取ろうとした。ダロウズは突然の逆襲に驚き、奪われまいと力を込めようとするが、もはやその余力はどこにも残っていなかった。アヌビスは剣を奪い取った。


 すかさず、ラーが叫んだ。


「腹のチャクラを感じながら、剣を振るえ!」

「応ッ!!」


 アヌビスのあお色の眼が光る。


 武功を身に付けられなかったアヌビスだったが、傭兵として幾多もの死を目撃していた。自らの命を狙う者に対する同情は、戦場においては命取りだと、すでにアヌビスは経験から知っていた。


 剣はきれいな弧を描き、ダロウズの首をねた。ダロウズの首は転がって、大柄な髭の兵士の元にたどり着いた。髭筋肉男はダロウズの生首と目が合った。その目は、驚きで固まっていた。


「ちっ」と舌打ちし、髭は立ち上がった。「猫だと思っていたら、虎の子だったか」


 そして余裕を持ちながら、剣を抜いた。


「アヌビス。逃げろ。あいつは第三位階だ。いまのお前ではどうにもならん」とラーは言った。

「でも、あの女の人が――」

「俺は世界を救うためにお前を転生させたんだぞ。ここで死ぬためじゃない」アヌビスの反論をさえぎるようにラーは言った。

「世界なんてどうでもいい!! 俺には目の前のことが大事なんだ!!」


 ラーはため息をついた。馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは。そして、血は争えぬな、と自嘲した。


「おい、貴様名前はなんという」髭の男が剣を構えながら言った。

「俺は厄病神のアヌビスだ!」決然と叫ぶアヌビスは、まだ十二歳とは思えぬほど容貌ようぼうが美しい。銀髪が風にたなびく。

「はははは、厄病神か。お前の外見にふさわしいな」と髭は言った。「よかろう。俺の名はザイード。蒼流そうりゅうの習いに従って、お前に三手くれてやる」蒼流とは、ナイル川流域を指す。この男は蒼流の先輩として、アヌビスに先に攻撃しろ、と言っているのだった。


 余裕を見せるザイードに、アヌビスは素早く斬りかかった。


 しかし、ザイードは一歩も動かず、剣を振るうだけでその攻撃を訳もなく防いだ。


 先のダロウズは武功も未熟で、その上疲労が蓄積、さらに感情的でもあった。だからこそアヌビスでも勝てた。しかし、ザイードはすべての条件が異なっていた。正面から戦って勝てる相手ではない、とアヌビスは斬りかかりながら痛感させられた。


「この程度か?」とザイードはアヌビスの攻撃をすべてはたき落として言った。「では、ゆくぞ」


 ザイードの動きは、アヌビスの眼をもってしても、ほとんど捉えられなかった。アヌビスは勘で剣を動かした。それは第六感、直感によって、導かれた。剣は、ザイードの剣の軌道上に置かれ、その攻撃を防ぐも、アヌビスは衝撃に耐えられず、数メートルも吹き飛ばされた。


「よく俺の剣を防いだな。驚いたぞ。だが、実力不足は如何ともし難いな」ザイードが近付きながら言った。

「ちっくしょう。う、ぐ、オエッ」アヌビスは起き上がろうとして、血を吐いた。全身が痛みを訴えている。

「死ねい」ザイードは剣を高く掲げた。


 クソッ。せっかく転生したのに、初日で死ぬのかよ。俺は馬鹿すぎる。

 だけど、後悔はない。

 何度生まれ変わっても、俺はこうしただろうから。


 アヌビスが死を覚悟したそのとき、ラーが叫んだ。


「あれは……!」


 突然、天に夜空を煌々と照らす火球が現れた。

 人間の背丈ほどもある大きな火球が、夜空を煌々と照らしながら降り注ぎ、ザイードを襲った。


「ぐあああああああああッッ!」


 ザイードは全身火だるまになって、地面を転がった。そして、間を置かずに焼け死んだ。


 アヌビスは、なぜ自分が生きているのか、なぜ髭の男が死んだのか、理解が及ばず、呆然としていた。


 すると、頭上から声が聞こえてきた。


「間一髪間に合ったか!」


 そして一人の男がアルガルビ山の山頂に降り立った。


 その男からは強大な気が漏れ出ており、アヌビスは思わず気圧されそうになる。それもそのはず、空を飛べるのは第七位階以上の強者だからだ。


 そして強者であることを裏付けるように、体の各所に龍を模した防具を身につけていた。それは魔装具と呼ばれるもので、護身罡気ごしんこうきと呼ばれるチャクラのいち表現である。修練を積むと、チャクラが身を守る魔装具になるということだ。


 その男は、じつに大柄な体躯であった。広い肩幅、堅牢な胸板、そびえる山のような背中を持ち、二の腕などははちきれそうなほどに膨らんでいる。だが目元は涼やかで、けっして愚者ではなく、強者の持ち得る独特の風格を備えていた。金色の髪の毛が後ろに向かって生えていて、まるで獅子のたてがみのようだった。年は三十五前後といったところか。


 その特徴的な姿を見て、アヌビスはすぐに「龍炎獅牙りゅうえんしが」の別号を想起した。それは蒼流百大達人に数えられる、テーベの将軍ハウランの別号であり、戦場の兵士なら誰でも知っている存在であった。

 

「おー!! 無事だったか、少年!! ……いや少女か?」それは山の麓までも聞こえるのではないか、という大声だった。ハウランは地声が体と同じくらい大きな男だった。

「ありがとうございます、ハウラン将軍。助かりました」とアヌビスは頭を下げ、礼を言った。

「なんだ、俺のことを知っているのか! こんな辺境にまで俺の名前がとどろいているとは驚いたな!」とハウランは言った。喜びの色を隠せない。だが、その喜びも数瞬の内に消えた。眼下に燃える街を見たからだ。「おい、早く逃げろよな。俺は今から街に行ってあのバカ共をぶちのめさなきゃならん」


 アヌビスはそのとき、前世の記憶を思い出した。

 ハウランはその凄まじい武勇で街を奪回するも、敵の仕掛けた火計により、敵将を捕り逃したのだ。


(あ、これって……)


 アヌビスは敵の仕掛けた罠について、言うか言わまいか逡巡した。信じてもらえないに決まってる。でも、あの混乱を防げるのは、俺しかいない。


「じゃあな、少年だか少女よ、さらばだ!」そう言いながらハウランは、背を向けて飛び立とうとした。


――駄目だ、今言わなきゃ!!


「待ってください、ハウラン将軍!!」

「なんだ? 俺は急いでいるんだ」ハウランは顔だけ振り向いた。

「敵は火計を準備していて、戦いのさなかにテーベ兵を分断しようとしています!! 罠があるんですよ!!」

「なに? おい、こう言っちゃなんだが、ガキの言うことなんて信じられると思うか?」ハウランは向き直った。


 ここで退いたら、敵を取り逃してしまう。その結果、前世と同じように残党が街を間欠的に襲う羽目になるだろう。


「さっき軍団長が燃やした兵士が、そう言ってたんです! たぶんこれから殺す子供だからと口を滑らしたのでしょう」自分の弁舌に街の安寧あんねいがかかっていると思うと、出鱈目な嘘がすらすらと口を突いて出た。

「なに?」

「証人もいます」


 アヌビスは、地面に倒れていた女を抱き起し、口に詰められていた布を取り出してやった。そして目で女に訴えかけた。女はすぐに意図を諒解した。


「その子の言っていることは確かです。街のあちこちに何かを仕掛けていました」それは事実だった。女はザイードとダロウズに囚われながら、それらを見ていた。


 ここで龍炎獅牙ハウランに信じてもらえなければ、ジャウティの街が危険に晒される。アヌビスは力の限り叫んだ。


「俺を!! 信じてください!!」


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る