▼第三話「過去への転生」
アヌビスは虚ろな目で声の方に顔を向けた。視界は薄く滲んでいて、すべてがぼやけていて、誰がいるのかもわからない。
「これは失礼、死にかけておったわいな」
老人は軽く手をかざした。
すると、手の動きに呼応し、闇の渦の動きが止まった。
そして、改めて老人はアヌビスの腹部に顔を寄せ、しげしげと眺めた。それは、珍しい蝶の標本を隅々まで観察する少年のような目だった。
アヌビスは鼻息が臍に当たるのを感じ、気色悪い思いをした。
「……何してんだ?」
「おっと、わしとしたことが。またやってしまったのう、まずは人命救助が先じゃった」老人は指を鳴らした。その音とともに、闇の枷がさらさらと砂のように消えていった。
そして、もう一度指を鳴らした。
すると、アヌビスの身体はみるみるうちに硬さを取り戻し、まるで溶けたチーズのように感じられた粘体が、頑健な骨と血肉で構成された肉体に復元していく。
解き放たれたアヌビスは、しばしの間、その手を握ったり開いたりして、肉体のありがたみを心底から実感していた。
それは、これまでアヌビスの経験したどんな出来事よりも劇的な体験だった。身体とは、こんなにも素晴らしく、心強いものだったとは。
「ほっほっほ。こりゃ眼福じゃわい。お主、物凄い美形じゃのう」アヌビスが慈しむように身体を動かしているさまを見て、老人は喜んだ。
アヌビスはその好色そうな視線を感じ、全身に鳥肌が立った。
「おいジジイ、俺は男だぞ」
「誰がジジイじゃ!! 安心せい、今日は別件じゃ」
「今日はってどういうことだよ、今日はって!!」
「静まらぬか!! 時を止めて介入できる猶予は限られておるのだ!!」老人は咳ばらいをして誤魔化した。「わしの名はアヌじゃ。ナイル周辺ではラーとも呼ばれておるな。いやしかし美しい、わしの若いころを見ているようじゃ」
ラー? いま、ラーと言ったのか? アヌビスは目の前の老人をまじまじと見た。
孤児院育ちで世間知らずのアヌビスも、さすがにラーの名前くらいは知っていた。ラーと言えば、ナイルで信仰されている最高神である。
(こんなスケベそうなジジイが? 冗談だろ?)
しかし、第九位階のセトの闇の渦を止めたこと、アヌビスの肉体を瞬時に復元したことなどを考えれば、胡散臭さを差し引いても納得せざるを得なかった。
「ほれ、お主も名乗らんかい」
「……俺は、アヌビスだ」
「アヌビスか! よき名じゃ。いやー、しかし、お主の身体は凄いのう。本当に幾多もの苦難を乗り越えた甲斐があったというものじゃ」
「な、何をする気だ!?」セトと向かい合ったときとは違った種類の悪寒が走る。アヌビスは両の腕で我が身を抱いて守る姿勢を取った。
「早とちりの大バカ者が!」アヌは気色ばんだ。「誤解するでない! お主には武に関して、空前絶後の才能があると言っているのじゃ! 一万年に一人の逸材と言ってもいい。もうほんと最高過ぎるぞ、お主!」
「はあ? 爺さん、何言ってんだ? 俺は武功を身に付けられない体質なんだぞ」アヌビスは訝しんだ。そんな才能があれば、苦労などしていない。
「うむ。それは、お主のチャクラに封印が掛けられているからじゃろう。チャクラ周辺の気脈も破壊されておるしな。せっかくの素材が台無しじゃよ。お主なら、世界を救える器になり得るのにのう」老人アヌは残念そうにため息をついた。
「は? 爺さん、それどういう意味だよ? 俺が世界? 俺は疫病神って呼ばれてるんだぜ?」
「まあ落ち着け。お前に選択肢をやろう。心して聞くがよい」
アヌビスは死ぬ寸前まで弱っていたため、状況をうまく呑み込めていなかった。
いったい、この爺さんは何を言っているんだ?
「こほん。あまり時間がないので単刀直入に言うぞ。」
アヌは神妙にアヌビスの瞳の奥をのぞき込んだ。アヌビスは生唾を飲み込む。
「選択肢は二つじゃ。ひとつ、お主はこのまま闇の外に出て、セトに殺される。こっちはあまりおすすめできんな。わしがここに来た甲斐もない。そしてふたつめ。お主は過去に転生し、封印を解き、人生をやり直すのじゃ」
「はあ!? 転生!?」
「そうじゃ。わしの力をもってしても五年遡るのがやっとじゃが」
「いや爺さん、おかしいだろ。なんで疫病神の俺なんかに、そんなチャンスをくれるんだ?」
「時間がないから詳細は省かせてもらうが、お主は特異体質じゃ。チャクラがなんと三つもある。そしてここが何より肝心なのじゃが、わしの力を最も色濃く受け継いだ子孫こそが、お主なのだ」
そうそう、確かに光る珠が三つあることは自分の眼でも確認したしな、あれがチャクラか――って、いまなんて言った?
ん? んん?? んんんん????
「お主には三つの核がある。ひとつは父神から、ひとつは母神から、そしてもうひとつがこのわしからじゃ。こんな身体はいままで見たことも聞いたことがない。一万年にひとりの特異体質じゃろう――」
「いや待て待て待て! 話を進めるな! 俺の先祖がこんなスケベジジイだって!? 信じねえぞ! ってか全然似てねえし!」
「おうコラ、舐めとんのか。わしの若いころの姿見たら腰抜かすぞガキが」いまや信じ難いが、アヌは遥か昔、美の神と呼ばれていた。
アヌビスはまじまじとアヌを見つめた。ずっと実の家族に会いたいと思っていたのに、初めて出会ったのが、まさかこんな好色ジジイだったとは。
「なんでいまのいままで会いに来なかったんだよ」
「お主のチャクラは封じられておって、波動を感知できなかったのじゃよ。セトもそれでお前を見つけられなかったのだろう。しかし死の淵になって、器から力が漏れたことで、わしがお前を見つけられたのだ」
「それだよ」とアヌビスは勢いづいた。「なんだって俺がセトに狙われなけりゃならないんだ?」
アヌは白く長いひげを手で撫でた。
「その理由は知っている。というか、推測できる。が、わしの口から言うべきではないじゃろう。事情があったからこそ、お主は捨てられた。お主は、その事情を受け止められるほど強くならねば、その背景すら知ることが出来ないじゃろう。半端に手を出せば、今日のように存在を感知され、殺されるからな」
「そんなこと言ったって、俺は強くなれないんだよッ! 悪かったな、期待外れの廃品でよ!」とアヌビスは癇癪のように叫んだ。強くなれないことが、今までの彼の人生に、どれだけの負荷を与えてきたか。
アヌはアヌビスを抱きしめてやった。それは親愛の情からである。
「落ち着け! まあ聞くのじゃ。お主を転生させるのは、身体を作り替えるためなのじゃ」
「どういうことだ?」
「お主の身体にはいくつかの問題がある。だが詳細を話している時間はない。肝心なのは、お主は強くなれるということじゃ」
「そ、そうなのか?」
アヌビスは自らの手のひらをじっと見つめた。ずっと求めていた力が、ついに手に入るというのか。
しかし、話がうますぎる。傭兵稼業をしていたせいか、アヌビスは幾分か用心深くなっていた。
「俺が特異体質だってことはわかった。でも、だからってなぜ強くしたいんだ?」
「よくぞ聞いてくれた。お主は過去に転生し、これから起きる終末戦争を防ぐのだ」
「終末戦争? なんだそれは」
「まもなく死の兵器を使った戦争が起き、この大地は、人類や神の住めぬ死の土地になってしまう。それをお前が防ぐのだ!」
「どうやって!?」目の前の老人の放つ一言一言が奇想天外過ぎて、アヌビスは呆気にとられた。
「長々と説明している暇はないというに! やるのかやらんのか! いますぐセトと戦って死ぬか、過去に戻って強くなり、世界を救うのか、選ぶのだ!」
アヌビスは顔をしかめて目を瞑った。
疫病神と呼ばれ、誰にも期待されなかった俺が、そんな大役を果たせるのか?
俺には無理だ、俺にはできない。
アヌビスは頭を抱えて俯いた。
長年自分に対して吐いてきた呪いの言葉が、いまこそ降りかかってきた。
そのとき、あの声が再び聞こえてきた。
――生きるも死ぬも、お前次第だ、アヌビス。
その声が、アヌビスの迷いを断ち切った。
そうだ、どうせ死ぬなら、やるだけやって死ねばいいんだ。
ここで死ぬなんて、バカバカしい、強くしてくれるってんなら、願ってもない話じゃないか!
「やるよ、爺さん。いや、やらせてくれ。俺は、俺の可能性を試さないまま、死にたくない!」
アヌはにっこりと笑った。
「よう言うた! 時間がないためあらゆる説明は省いたが、お主のためにわしの分霊をくっつけてやろう。こやつがお主のそばで何かと助けてくれるはずじゃ」
アヌは自分の胸から、光を取り出し、それをアヌビスの胸に入れた。
アヌビスの胸は光り輝き、そして、感じたことのないぬくもりがアヌビスのなかに満ちていった。これが家族のぬくもりってもんなのか?
「案ずるな。お前はわしの血を最も色濃く受け継いだ子孫だ。お前の内に眠る、お前の力を信ぜよ」アヌはアヌビスの眼を真っ直ぐ見て言った。その目はあたたかさにあふれていた。アヌビスはそのまなざしから、いままで受けたことのない何かを感じ、心が震えるのを感じた。それは信頼だった。
「爺さん、俺、今度こそ強くなって、精一杯生きるよ――」
そう言い終わる直前に、アヌビスの意識は遠ざかっていった。
そして、アヌビスの身体は光になって消えていった。
「頼んだぞ、我が孫よ」
アヌは虚空を見つめながら言った。
やがて、アヌビスは目を覚ました。おぼろげな視界に映るそれは、やけに見覚えのある天井だった。
――もしかして、ここはアルフダッド孤児院か?
それは彼の生まれ育った孤児院であった。彼はゆっくりと身を起こして辺りを見回した。月明かりが差し込んできていて、その懐かしい家屋の輪郭がうっすら見えている。そして、乱雑に散らばる寝相の悪い子供たちも。
「本当だったのかよ……」とアヌビスは呟いた。そして自分の手をしげしげと眺めた。それは紛れもなく五年前の自分の手だった。こんなに子供のような手をしていたとは。
――ここは現実なのか? 死の恐怖で錯乱した俺の妄想なのか?
アヌビスは自分の頬を強くはたいた。それは声を漏らすかと思うほどの鮮やかな痛みで、それでようやくここが現実だとアヌビスは理解した。
それにしても、とアヌビスは思う。荒唐無稽過ぎて信じられない話だ。俺が世界を救うだって? 安請け合いしちまったけど、俺にそんなことが出来ると思うか?
そのとき、急に心臓が熱くなった。そして心臓が光ったかと思うと、その光が体の外に飛び出してきた。
「な、なんだ……!?」
やがてそれは小さな子供のような姿になった。美しい顔立ちながら、いたずらっぽい目つきの、赤毛の少年だった。見た目は五歳前後だろうか。
ただし、小さい。それは十二歳のアヌビスの手のひらに収まるほどのサイズだった。
その小さな赤毛の少年は、宙に浮いている。
「ふう。成功した。よお、アヌビス。俺だよ俺。アヌだ」
「は? お前があの爺さんだって?」
「正確に言えば分霊であって、本体じゃない。でも同じようなもんだ。俺のことはラー様と呼べ」
ラーは両手を組んでふんぞり返っている。
「うわ、生意気だなこいつ」
「あ? おいお前、礼儀がなっとらんぞ!」ラーは凄んで恫喝する表情をしてみせたが、あどけなさが残る五歳前後の顔ではその効果はあまりない。
「しかもうるせえ」
「俺に礼を尽くせ!」ラーは目を見開いて一喝した。
その小生意気な言い方に腹が立ったアヌビスは、ラーにでこぴんを食らわせた。が、それはラーには当たらず、体をすり抜けた。
「俺は思念体なんだよバーカ。実体はないし、お前にしか見えない」ラーはぎゃはは、と嘲笑している。
「ぎゃあぎゃあとうるせえ奴だなあ。お前の声を聞こえなくする方法はないのか?」
「失礼な奴だな? 俺の声を聴くためにどれほどの者が列を為すのか、お前にその列を見せてやりたいわ!」
ラーはぷりぷりと怒り、手をばたばたと広げている。
「まあいいや、お前が俺を強くしてくれるのか?」
「その通りだ。ふん、俺様の指導についてこれるか?」
「強くなれるならなんだってしてやるさ」とアヌビスは拳を固めて言った。
ならば、とラーはその場で目を瞑り、手を舞のように動かした。何かを探っているようだった。
「うむ、この辺の山に龍脈が走っているのは好都合だったな。おい、外に出よう」ラーはその生意気そうな顔で戸口を示した。
アヌビスとラーは夜更けに孤児院の外に出た。月明かりがあり、乾燥した道が見える。
アヌビスは振り返って、まじまじと孤児院を見た。また再びこの孤児院を見られるとは。確かにここは過去の世界に違いない。
アヌビスの育った都市・ジャウティは、ナイル川の左岸に位置し、メンネフェルとテーベとのちょうど中間地点に位置する都市であった。
ナイル川沿いの都市の例に漏れず、東部砂漠と西部砂漠に挟まれた高温の砂漠地帯だったが、灌漑農業をしているほか、交易都市としても名を馳せている。
そしてアヌビスの育った孤児院は、そのジャウティの西のはずれ、人家もまばらなエリアに、ぽつねんと一棟だけ建っていた。
ラーはアヌビスの目線の高さを飛び、こっちこっち、と先導した。アヌビスはまだ転生したばかりで状況も飲み込めていなかったが、ラーを追った。
あたりには小麦畑やレンズ豆の畑が見渡す限り広がっていて、月光を受けて照らされている。小麦の色合いから、いまは春なのだとアヌビスは理解した。
さらに、岩山のアルガルビが満天の星空のなかで黒くそびえたっていた。
「待ってくれ、どこに向かってるんだ?」
「あの山だよ。あそこでまずは最初のチャクラを形成する」
ラーはアルガルビ山を指差した。その岩山の山頂付近にある洞窟には祭壇があり、近隣の住民はそこで祈りを捧げていた。祭りの日にはそこで肉やビールが振る舞われ、少年時代のアヌビスにはそれが嬉しくて仕方がなかったことを覚えている。
「アルガルビで? どうやって」
「簡単なことだ。大地の気を借りるのだ。まあ任せておけ」ラーは不敵に笑った。
二人は木の生えていない岩山アルガルビを登った。真っ暗な道だったが、ラーが行く先を照らしたので、とくに不自由はしなかった。
十二歳の身体は思ったよりも体力がなく、アヌビスは何度も足を止めそうになったが、疲労よりも、強くなれるのだ、という期待がそれを上回り、彼の身体を動かした。
そして、ついに祭壇のある洞窟にたどり着いた。
その洞窟は人が十人も入ればいっぱいになる程度の大きさで、あまり広くはない。祭壇と言っても簡素なもので、そこには人々の持ち寄った捧げものが散らばっていた。
「よし、夜が明ける前に済ませてしまおう」とラーが言った。
そのとき、街の方から爆発音がした。そして、それが何度も何度も聞こえてきた。
アヌビスは走って洞窟から出た。そして燃え盛る街を見た。黒煙があちこちの人家から上り、街路樹は燃えている。夜空が炎によって赤く色付いていた。
「おいおいおい! よりにもよって”あの日”に転生しちまったのかよ!」
(つづく)
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