▼第二話「雷帝セトと謎の老人」
二手に分かれたテーベの兵たちを見ても、セトは一向に動じず、じつに悠然と構えていた。焦る必要はなかった。すべては彼の手のひらの上であり、万が一にも逃す心配はなかったからだ。狼は、この猟を心から楽しんでいた。
にやけついた黒い狼が気を集中すると、暗天の雷雲が火花を散らし始めた。力の奔流が、雲中を駆け巡り、ごろごろという大きな音が地の底から響いた。
「逃げろおおお!」と長髪の兵士が叫んだ。
アヌビスが彼らの方を振り返ったそのとき、世界が裂けたかのような閃光が炸裂した。それは荒々しい自然の力であり、天地を揺らした。
その激しい光はアヌビスの視界を奪い、さらに、雷光の巻き起こした激しい突風によって、アヌビスは吹き飛ばされた。
(いったい、何がどうなってる!?)
目を開けていても、なかなか像が映らない。真っ白に視界が焼け付いている。巨大な爆発音で耳までおかしくなり、くぐもった音が頭の中で鳴り止まない。また、激しく叩きつけられたせいか、全身が痛む。
それでも逃げねばならぬ。
アヌビスはろくに何も見えない状態で、這うようにして進んだ。
そのうち、徐々に視界が回復してきた。
そして、アヌビスは絶句した。
二手に分かれたはずの仲間たちが、見当たらない。
彼らがいた場所には、黒焦げの、ほとんど炭のような死体の数々が転がっているばかりで、生存者はひとりもいなかった。
「そんな……」とアヌビスは唇を噛み、思わず嗚咽した。さっきまで、憎まれ口を叩きあっていたのに、嘘だろ?
しかし、悲しんでいる暇などない。アヌビスは立ち上がろうとした。
そのとき、アヌビスは再び絶句して固まった。
目の前に、天を覆い隠すほどに巨大な黒狼がいた。
セトの落とす巨大な影は、暗天の薄闇のなかで、一層濃い闇を作っていた。
黒狼は、そんなアヌビスを品定めするかのように、遥かに高い視点から観察していた。いやらしい目つきである。
そして、喉を震わせて笑った。その声は低くくぐもっており、嫌悪感がわきたつ獣の笑いであった。
「失礼しました。いささか興奮して取り乱してしまいました。いえね、そなたの表情が本当に素晴らしいものですから。その美しい顔に、絶望と涙はよく似合いますね」とセトは言った。仲間を先に始末して正解だった、としみじみ感じ入っている。
アヌビスは唖然として、地に這いつくばりながら、セトを見上げるばかりだった。涙も、悲しみも、ともに枯れた。いまや驚愕と恐怖とがその心中の大勢を占めていた。
「ひと目見てすぐにわかりましたよ。やはり、そなたが『あの子供』だったんですね。これまでどれだけ探しても見つからなかったのに、まさか、こんな戦場で出会うとは」
(何言ってんだこいつ? いや、それよりも、どうやっていきなり目の前に? え? え? 俺はこのまま何も成し遂げられずに死ぬ? 嘘だろ? ってかいまなんて言った? セトが俺を探していた? なんで? 何もかも意味が分からない!)
処理能力を遥かに超える事態が出来し、アヌビスは思考があふれかえって制御することが出来なかった。
そして、なかば無意識に、お守りがわりの布を握り締めた。
すると、闇の狼は、鼻面を小刻みに動かた。そして目を閉じ、いまいちど深呼吸をした。間違いない、というように一人で得心して、うんうんと頷いている。それから、下卑た獣の喉で、うひゃひゃひゃひゃ、と笑った。それはアヌビスの心胆を寒からしめるには十分すぎるほどの悪意が込められていた。
「懐かしい臭いです。そなたの母親の香りですね」とセトは言った。「美しく、強く、傲慢で、利己的で、忌々しい女の香りです。ああ、時が何年経とうとも、感情は風化しないものだと、思い知らされましたよ」
アヌビスには何の心当たりもなく、ひたすら混乱している。まさか、自分がお守りにしている布の香りがセトを惹きつけているなどとは、思いもよらないのだった。
「……俺の母親を知っているのか?」どうせ死ぬのだ、とアヌビスはやぶれかぶれでセトに尋ねた。
巨大な黒狼の空気が変わる。周辺一帯に殺気が満ちた。厚い雷雲が活発にごろごろと音を立て、風が吹き荒れる。
セトが、巨大な瞳でアヌビスをねめつけ、質問を黙殺した。
「正直に白状しますと、余はそなたを処すかどうか迷っているのです。余の感情はそなたをなるべく残虐に処せと強く訴えかけてくるのです。しかしですね、そなたには、ひととおりでない利用価値もあるのです。どうしたものでしょうか」
アヌビスは天を見上げ、そびえる巨大な狼の目を見た。
「利用価値? ただの孤児にそんなものあるものか! 俺を探していた? はっ! 人違いだろ!?」アヌビスは死を目前にしても、なお虚勢を張った。
黒狼はその返答を聞くや否や、天を仰ぎ、また大きく笑った。その獣の高笑いは、ひどく不快で不気味なものだった。
「やれやれ。そなたの一言一句に、これほど感情が揺さぶられるとは思いもよりませんでしたよ。やはり、そなたはあれに、じつによく似ていますね。姿も気性も瓜二つです」セトは自嘲し、くっくっくとおかしそうに笑っていた。「だからこそ、そなたを処すことに決めました。まったく度し難いものですね、感情というものは」
セトの目が強く見開かれ、膨大な殺気が立ち上った。そのおぞましい気が、アヌビスの心臓が締め付けた。
「クソッ、ただじゃ死なねえぞ!」生来の誇りから、アヌビスの目が輝いた。
矜持だけでおぞけを封じ込めつつ、死を受け入れたアヌビスの、その目のあやしさたるや。
――本当にそっくりだ。天上宮の神々でさえもとろかしてしまうだろう。
セトが呆然としているあいだに、アヌビスは素早く立ち上がり、剣を振るった。それはセトの前脚を直撃するが、分厚い毛皮の前に、傷一つつけられない。
「クソッ! 武功さえ、武功さえ身に付けられれば!!」アヌビスは懸命に剣を振るう。しかし、それはなんらの効果もない。
セトは我に返り、前脚を軽く動かして、アヌビスを払いのけた。アヌビスからすれば、大木のような腕が衝突してきたようなもので、思い切り吹き飛ばされ、岩にしたたかに体を打ち付けた。
気絶すまいと目だけは強気だったが、それも焦点が合っていない。アヌビスは口から血を吐いた。
「さようなら、若く美しい者よ。せめて美しい姿のまま逝かせてあげましょう。我が闇の中で、魂までも枯れ果てる、極上の恐怖を、心ゆくまで堪能してください」
その直後、セトの身体から勢いよく闇が噴出し、アヌビスにまとわりついて包み込んだ。それは闇の繭のようだった。
アヌビスはもがきながら抵抗を試みたが、闇は瞬く間にアヌビスを取り囲み、闇の球を形成した。
「ここ、どこだ……?」とアヌビスは周りを見回した。
そこはどこまでも続く闇の空間だった。何も見えないし、何の音もしない。ただただ無の空間であった。
生命の気配はどこにもない。大地もない。
体の感覚さえも希薄で、アヌビスはぽっかりとそこに浮いていた。
「一体何が起きたんだ、どうなっている!?」
アヌビスはあたりをせわしく見回した。しかし何も見えないことに変わりはない。
もしや、すでに自分は死んでいて、ここは死後の世界なのではなかろうか?
アヌビスは生きた心地がせず、恐怖から歯を震わせた。
それからアヌビスの身体、とくに臍周辺の黒いあざのあたりが鈍く発光しだした。
何が起きているかはわからなかったが、幸い、自分の身体を視認できるようになった。
そしてアヌビスは、自分がとてつもなく巨大な黒い渦のなかにいるということを発見した。
徐々に加速度を感じるようになり、やがて、それは勢いを増して、全身が遠心力で圧力を感じるほどにまでなった。
そのうち、アヌビスは闇の質量を体に感じるようになってきた。それは闇であるのと同時に、物質でもあるように感じたのだ。
周囲の闇が細い指先のような触手を形作り、アヌビスを腹を執拗につついた。
「なんだよこれ! 気持ち悪ぃ!」とアヌビスは払いのけようとしたが、うまくいかなかった。手足が動かなかったのだ。闇はすでに手足を絡め取っていて、アヌビスを完全に縛り付けていた。
突然身体が拘束されたアヌビスは、恐慌に陥り、懸命に振りほどこうとするが、無駄な抵抗だった。
そしてその間にも、アヌビスの臍に、何本もの闇の触手がヒルのように吸い付いた。執拗に、何度も何度も腹部に強い衝撃がきた。それは、明らかに体内に入りたがっていた。
何度も腹を殴打され、アヌビスはついに嘔吐した。激しい酸味が喉を焼き、頬や顎や首に吐瀉物がまとわりついた。
胃酸の臭気を嗅ぎながら、気力が尽きかけていることをアヌビスは自覚した。
いよいよ闇の触手は、その先端から緑色の光る液を分泌し始めた。褐色の肌がそれに反応して鈍く光る。
「何してんだよ! おい、やめろ!」
どうにかして手足の拘束を解こうとアヌビスは暴れるが、やはり微動だにしなかった。
間を置かず、液体の垂らされた腹部が、熱を帯びてきた。その熱は急激に高まっていき、すぐに熱した鉄の棒を押し当てられているのかと思うほどの痛みに変わった。
アヌビスはあまりの苦痛に顔をゆがめて絶叫した。それは生きながらに焼かれる苦しみだった。
そしてアヌビスは気付く。自分の身体が液状化していることに。触手の分泌液が、骨や血肉をゼラチン状のぶよぶよのものに作り替えたのだ。アヌビスはもはや人の身体とは思えぬ自身の感触に、むせび泣いた。恐怖が、アヌビスの心を挫いた。
そして機を窺っていた闇の触手たちが、液状化したアヌビスの体内へと次々に入っていった。
アヌビスは絶叫した。体の中に、得体の知れない何かが、とぷん、とぷん、と入っていくのが自分でもわかったからだった。
虫のようにかさかさと素早く動くそれらは、アヌビスの内部を隈なく探検した。
ざわざわと、目の裏側や、舌の裏側、くるぶしや会陰など、至るところにその這い回る気配を感じた。
アヌビスは泣きながら叫んだ。
「俺はただの孤児だ! 親も、友達も、金も、武功も、温かい思い出も、何一つ持ってやしない! なぜ俺を苦しめる! さっさと殺してくれ!」
そのうち、感覚が麻痺してきて、蟲の存在がわからなくなった。
そして今度は熱ではなく、異様な冷えがアヌビスを襲った。それは死の前兆だった。
アヌビスは唇を震わせた。液状化された身体が、どんどん熱を失っていく。まるでこの肉体の役割はすでに終わったと言わんばかりに。
かくしてアヌビスは気を失った。
しかしそのとき不意に、アヌビスの意識のどこか、いや、魂の、澱の部分から、ふとその言葉が浮き上がってきた。
それは、知らない女の声だった。
――生きるも死ぬもお前次第だ、アヌビス。
不思議な響きだった。
初めて聞くはずの声なのに、それはアヌビスの心を捉えて離さなかった。
その声を聴いて、アヌビスの感情が波立った。
なぜ心が動くのだろう。
なぜ感情が湧き出てくるのだろう。
なぜ、涙があふれるのだろう。
なつかしさと、恋しさと、悲しみと、怒りと。
アヌビスは、無意識に、その言葉を復唱していた。
「……生きるも死ぬもお前次第だ、アヌビス」
すると、胸の奥から、深い振動のようなものを感じた。
それは突き動かされるような衝動であり、生への本能だった。
身体が、生を喝采し、それを掴めと猛っている。
ああ、そうか、とアヌビスは理解する。
「俺は、最後の最後まで、生きたいんだな。教えてくれてありがとうな、俺の身体よ」
もはや氷のように冷え切っていた身体だったが、血が熱くなり、心臓の鼓動がはっきりと体感できた。
そして、腹部の光が一層強くなった。
そのときアヌビスは、腹部に三つの光るものを見た。
ひとつは半透明の珠で、ひとつはくすんだ灰色のような色の珠、そして最後のひとつは、鎖が巻き付いている漆黒に染まっている珠だった。
――いったいこれは何なんだ?
アヌビスは薄れゆく意識の中で疑問に思った。これはセトの言いがかりと何か関係があるのか?
そのとき、鎖の巻き付いた核が、急に光を放った。
とてつもない
アヌビスが混乱していると、突然、闇の渦の上空から声がした。
「いやはやこれは面白いものを見た。突然、強い波動を感じたと思って見に来てみたら、まあ驚いたわい。お主、とんでもない天運を持っておるな」
アヌビスは天を見上げ、息を飲んだ。そこには発光する老人が空に浮いていた。
真っ白いひげを長く伸ばした老人は、アヌビスを見て芯から嬉しそうに笑う。
「お主のような男をずっと探しておったのじゃ。お主の名はなんと言うのだ?」
意識朦朧ながら、アヌビスはなんとか老人を見る。目は虚ろで、ほとんど開いていない。
――なんで今日に限って俺を探してるやつに二人も出会うんだ? 俺はただの孤児なのに……。
(つづく)
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