▼第一話「疫病神と呼ばれる少年」




 それは、なんの前触れもなくヘラクレオポリス近郊に姿を現した。同時に、墨を溶かしたような暗雲がどこからともなく現れ、瞬く間に天を埋め尽くした。

 戦場で斬りあっていた兵士たちは、急に薄暗くなった空を見て異変を察した。メンネフェルの兵士たちが、急いでテーベ兵との戦いを切り上げ、散開していく。

 そんなメンネフェル兵を見た歴戦の古株たちが、「まさか奴が出てきたのでは」と、ある男の姿を思い浮かべたそのとき、黒い雲から閃光が走り、戦場の中心に巨大な雷が落ちた。


 その莫大なエネルギーの奔流は、鼓膜を破るほどの轟音とともに走り、テーベ兵たちの皮膚を焼き、分厚い筋肉を融かし、心臓を貫いた。

 まるで羽虫が焚火に触れて焼け死ぬようなあっけなさで彼らは絶命し、ひとつの部隊がまるごと地面に倒れた。


 それから立て続けに落雷が降り注いだ。何度も何度も暗天が光り、地響きのような轟音が鳴り止まず、兵が次々に焼かれて死んだ。

 それはテーベの民にとって、まさに神の怒り、天の災いであった。



 雷鳴轟く戦場の一隅で、この混乱から逃げ出そうとする小汚い傭兵たちの一団がいた。

 その集団の後方で、銀髪の少年と小男とが、走りながら言い争っている。


「何やってんだ、早く剣を捨てろ!」と銀髪の少年が怒鳴った。雷の音に負けぬくらい叫ばねばならない。

「そんな、高かったんだぜこれ!」小男が青銅製の剣を子犬のように抱きながら叫んだ。

「命よりは安いだろ!」銀髪の少年は強引に小男から剣を奪い取り、遠くに投げ捨てた。「すぐに離れろ!」


 小男は思わず足を止め、剣の軌跡を名残惜しそうに見た。銀髪の少年はわが目を疑った。なんという馬鹿な男だ。その男のために危険を冒すか一瞬迷ったが、それでも少年は引き返すことを決めた。そして小男の首根っこを引っ張ってやった。


 そしてすぐに彼らの背後にとてつもない雷が落ちた。それは百万頭の馬が駆けていくような大地の震動と音だった。その圧と衝撃が、傭兵たちを吹き飛ばした。うわああああ、と男たちが情けない声を出しながら地面を転げていく。



「間一髪だっただろうが!」銀髪の少年が粉塵の中で起き上がりながら怒鳴った。


 その少年は、光沢豊かな美しい銀色の髪を鎖骨のあたりまで伸ばしていて、その銀髪と濃い褐色の肌とのコントラストが、遠目からでもよく目立った。

 白い布を上半身に巻いていて、へそのあたりには濃いあざが見える。

 彼には卑しい身分の傭兵とは思えぬほどの気品があり、女と見間違えるほどの中性的な美形だった。顔にはまだあどけなさが残っている。彼はまだ十七歳だった。大きな美しい碧色の瞳を持っていて、それは魔法のように妖しい輝きを放っている。


 が、いまはその瞳も怒りに染まっている。その、人を睨みつける表情にさえも、匂い立つような色気があった。


「ちぇっ。偉そうに。おい、疫病神アヌビス。お前のせいなんじゃねえのか」と小男は睨み返して言った。そもそもが陰険な顔つきだったが、余計に憎たらしい顔をしていた。

「ふざけるな、俺のおかげで命拾いした癖に!」

「まったく使えねえ馬鹿どもばっかりだ!」と隻眼の男が怒鳴った。こんな時に俺を苛々させるな、と言わんばかりだ。がっしりした体格で、肌は刀の傷痕だらけだった。


 アヌビスはそのとき目の前で倒れている男を見かけた。そして、頭で考えるより先に、反射でその男に向かって走っていた。隻眼の男は背後からこの馬鹿野郎、と怒鳴った。


「大丈夫か?」とアヌビスは男を抱きかかえて聞いた。

「なんと、美の女神が私を助けに来てくれたのか?」倒れていた亜麻色の髪の男が目を見開いて驚いた。思いがけず、奇跡のような美人が眼の前にいたのだから無理もない。

「俺は男だよ!」アヌビスは軽く頭をはたいた。この手の誤解は慣れていた。「走れるな?」


 なんだ男か、と男は心底から残念そうに言いながら立ち上がった。


「行くぞ!」アヌビスは先を行く隻眼の男を追いかけた。



 そのとき、狼の遠吠えが聞こえてきた。その声はいやに低く、地の底から聞こえてくるような響きがあった。男たちはあたりを見回した。隻眼の男が、忌々しげに舌を打った。


「まさかセトが出てくるとはな、本当に最高の日だよまったく」と隻眼の男が走りながら言った。「あれを見ろ!」


 隻眼の男が指差すその先には、周囲を見渡せる小高い丘と、そして、その丘と同じほどに巨大な黒い狼がいた。

 男たちは息を呑んだ。


 巨大な狼はぐるぐると渦を巻きながら蠕動する黒い闇を纏っており、遠目から見ると、黒い山のように見えた。狼はその丘に鎮座し、上から戦場をねめつけていた。 


「ひゃあっ!」と小男が悲鳴をあげた。死の狼だ、とすぐに理解したからだ。


 雷を操り、死をもたらす巨大な黒狼――それはナイル川流域のみならず、アフリカ世界やメソポタミア世界にも知れ渡った姿だった。

 そして、それが北エジプト王国メンネフェルを束ねる王・セトの変じたものであることもまた、周知の事実だった。


「おいお前ら、あの千両役者さまに見とれてる暇はねえぜ!」と隻眼の男が怒鳴った。思わず足を止めかけていた兵士たちが、再び速度を上げていく。



「さっきはありがとう、おかげで助かった。俺はファリダットだ」と助けられた男が言った。ファリダットも十代後半といったところで、まだ子供のような顔つきだったが、今は土にまみれている。

「アヌビスだ」と走りながら答えた。

「それより君、お姉さんか妹、もしくはお母さんはご健在かい?」ファリダットはその横顔をまじまじと見た。この美しさはたまらん、とでも言いたげな目だ。

「俺は孤児だよ」その好色な質問に、アヌビスは憮然として答えた。

「そうか、孤児だったか。しかし残念だ、君の家族にぜひ会いたいよ」

「おい、そこのお前、そいつは疫病神だぜ、関わらねえ方がいい」と小男が割って入ってきて言った。「俺が剣を失ったのも、セトがヘラクレオポリスに来たのも、全部こいつのせいだ!」

「なんでも俺のせいにするな!」

「大体お前は、武功も使えない『廃品』のくせに生意気なんだよ!」と小男が怒鳴った。


 アヌビスは顔をしかめた。孤児院で生まれ育った彼がその境遇を脱して立身出世するには、戦争で活躍するしかない、と思いこんでいた。

 それにも関わらず、彼は生まれつきの体質でチャクラをうまく作れず、気の運用も難しかった。それで、武功を身につけることさえも出来なかった。

 彼がそのことを知ったとき、絶望した。前途が閉ざされたように感じたのだ。

 それでもアヌビスは食うために傭兵になった。神殿の建設などよりは夢があると信じたのだった。何より、アヌビスの中から、戦いたいという意欲が湧いて止まらなかった。


 しかし、現実は厳しかった。


 彼は第一位階の兵士にも敵わないので、自然とお荷物扱いされるようになり、『廃品』だの『疫病神』だのとその種のあだ名をつけられ、今に至る。


(ちくしょう、俺だって強くなれりゃあこんな奴に軽んじられることもないのに――)


「悔しかったら強くなってみやがれ、お前には一生無理だろうがな」

「てめえ!」とアヌビスはついに挑発に乗ってしまった。


 小男に殴りかかろうとしたそのとき、ファリダットがその腕を止めた。


「事情はわからんが、いまは揉めてる場合じゃないだろう?」


 小男は「馬鹿め」と笑いながら先頭集団の方へ走っていった。


「あんな奴のこと気にするな」とファリダットはアヌビスの肩を叩いた。

「当たり前だ。俺は八方塞がりだとしても、あがいてやる。そしていつか俺を疫病神扱いした奴らを見返してやる!」


 雷が降り注ぐ中、アヌビスはポケットから汚い布を取り出した。それはところどころ黒ずんでいる。随分と年季の入ったその布を、アヌビスは握りしめた。

 それは彼が包まれていたおくるみの切れ端であり、彼にとってのお守りである。それを握ると、いつも不安な気持ちや悲しい気持ちが、少しは紛れるのだった。



 戦場には野太い悲鳴や怒号が飛び交い、誰もが怯えながら走っていた。それは数多の戦場を経験した、歴戦の兵士たちでさえも例外ではなかった。もはや、統制不能な混乱だった。

 事前に雷の対策をほどこしていたメンネフェルの精兵たちが、逃げ惑うテーベ兵を追いまわり、あちこちでその背中を斬った。


 巨大な黒い狼は、自らが引き起こしたその阿鼻叫喚の惨状を、丘の上から鑑賞していた。まるでお気に入りの歌劇を観劇するかのように心から楽しみ、大きな尻尾を振っている。

 どの兵をどのように殺すか、彼にはすべての算段がついていた。熟練の農家が甘い果実をひと目で見抜くように、黒狼にも、甘美な死の在処ありかがちゃんとわかっていた。


 そのとき、狼は、ある臭いを嗅ぎとり、尻尾を振るのをぴたっと止めた。驚き、目を見開いたのち、鼻をひくひくと動かし、改めて臭いを嗅いだ。


――この鼻腔をくすぐる、懐かしい臭いは。ふふ。なんたる奇縁でしょうか。あれほど長年探していたというのに、こんな場所で出くわすなどとは夢にも思いませんでしたよ。



 傭兵たちは、ナイル川に向かって走っていた。川の付近には本隊が控えているはずだった。


「しかし、やっこさんはメンネフェルにいるはずじゃ?」と長髪の兵士が言った。

「ふん。穀倉地帯のファイユームを取られたら、さすがのセトさまだって兵におまんまを食わせらんねえ。だからわざわざ前線まで出張って来たんだろう」と隻眼の男が言った。


 戦場となったヘラクレオポリスは、農業都市ファイユームの南東に位置する、ナイル川沿いの城塞都市であり、ちょうどテーベとメンネフェルの中間地点に存在していた。

 そして、ヘラクレオポリスは、ナイル川を北上するテーベ兵の進軍ルートの途上でもあった。


 その進軍は順調に思われたが、意表を突くようにセトが現れ、前線のテーベ兵は為す術もなく潰走した。


 しかし、と隻眼の男が走りながら言った。テーベ側の主力は後方に控えており、それは無傷である、だから心配するな、と。しかし、それはよい報せではない。前線の兵は自らで状況を打開せねばならないのだから。長髪の兵はそのことをよく理解していたので、顔を曇らせた。


「なあ、ここから戻ったら一緒に商売でもやらないか?」とファリダットがアヌビスに言った。雷がやたらとうるさいので、耳元で叫ばねばならない状態だった。

「なに?」とアヌビスは聞き返した。うまく聞き取れなかったのだ。

「戦争はもう懲り懲りだって言ったんだ!」とファリダットは叫んだ。


 そのとき、アヌビスは急に胸騒ぎがして、丘の方を見た。それは確信にも似た危険だった。


「何かが来る!」

「いったい何が――」ファリダットが聞き返しているまさにその最中に、何か巨大な塊が目の前の大地に激しく衝突した。そして、森を揺らすほどの地響きと衝撃波が辺りを襲った。傭兵たちの何人かがまたもや吹き飛ばされた。


 何が起きたか、アヌビスにはわからなかった。彼もまた衝撃波で吹き飛ばされ、舞い上がる土煙で視界が奪われたからだ。


(何も見えねえ、いったいどうなっている?)


 混乱しつつも、アヌビスは聴覚に集中した。


 なにか、大きな獣の息遣いが聞こえる。

 そのとき、狼の喉の鳴る音がした。


 つぎに、巨大な何かが風を切り裂いて動いた。

 そして、悲鳴が頭上から聞こえた。それはとてつもない苦痛を感じているようだった。絶叫である。


「隊長が!」と長髪の男が叫んだ。


 アヌビスは即座に目を開けるが、そこで身体が金縛りにあったように固まった。

 それは息が出来なくなるほどの恐怖だった。


 そこには山のように巨大な黒い狼がいて、隻眼の男を、いかにも美味そうにかみ砕いていた。


「死にたくねえ、なんで、こんな目に……」隻眼の男は食われながら悔恨の表情を浮かべた。そしてアヌビスと目が合った。「お前のせいだ、アヌビス。すべてお前の……」そこで彼は絶命した。

「この疫病神め!」と太った男が逃げながら怒鳴った。「なんでセトがここまで来るんだよ! こんなに広い戦場で!」

「俺のせいじゃねえ!」とアヌビスは叫んだが、この不運は自分でもどう受け止めればいいか、持て余していた。


 傭兵団の仲間たちは東のナイル川に向かって走っていった。

 しかし、アヌビスは傭兵の仲間たちとは別れて、南に走った。


(もし俺が本当に疫病神だってんなら、俺の方に来るはずだ! それで奴らが助かるんなら……)


 みな揃いも揃って嫌な奴らだったが、それでも同じ釜の飯を食った仲間だ。むざむざと死ぬ姿を見たくはない。アヌビスは懸命に走った。


「おい、狼!! 狙うなら俺にしろ!!」アヌビスは叫んだ。


(つづく)

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