転生のアヌビス~厄病神は至尊の末裔~
橋村一真
▼第ゼロ話「捨てられた赤子」
「赤子をここに捨てよ」と赤い髪の女が言った。その日は闇夜で、表情はよく見えない。雲は厚く月光を遮り、あたりは深い闇に覆われていた。
「ここで……よろしいのですか?」彼女に仕える女官が聞き返した。女官は、まだ産まれたての赤子を抱いている。
そこは湿地で、
(こんな水辺に置いたら、この赤子は身体が冷えて死んでしまうんじゃ? それに、野犬や狼に見つかってしまったら……)
躊躇している女官の背から、「どこでも同じこと。ここに捨てよ」と、赤い髪の女が言った。
赤い髪の女は、絹の衣服に金の装飾品を身に纏っており、首元には高貴な身分を思わせる赤い宝玉の首飾りを垂らしていた。腰には美しい装飾の剣を下げている。
女官は、もう一度、腕の中の赤子を見た。
闇夜ゆえに顔はわからなかったが、その、頼りないほどの軽さと、そして、幼子特有の高い体温とを、女官は感じていた。
その赤子は、これから自分がどうなるかも知らずに、ひとり、すやすやと眠っている。
(この子は、生き延びられるだろうか?)
女官は、おくるみに包まれた赤子を手に、あたりを見回した。
何も見えないが、この辺には人家もまばらながらあったはずだった。
もしも、朝が来るまでに息があれば、もしかしたらこの子は助かるかもしれない――
そこはエジプト北部の王国メンフィスと、エジプト南部の王国テーベの勢力圏がちょうど重なり合う地域、アシュートの辺境にその葦藪はあった。
虫のさざめきと蛙の鳴き声だけが闇を満たしている。
女官はもう一度その子を抱きしめた。それはなんとも無防備で安心しきっている無力な弱い赤ん坊だった。
――ああ、本当に小さい手だこと。うちの子らにも、こんな時期があった。この子は、これからどうなるのだろう。
「イシュタルさま、せめて、せめてお乳だけでも飲ませてあげてくださいませんか?」
それは、いかにも差し出がましい言葉だった。
言った直後に、女官は後悔した。自分のしでかした失態に、顔が青ざめていく。
女官はイシュタルの顔を見た。
しかし、暗闇のせいで表情はわからない。
「ならぬ。それでは私の力がこの子に宿ってしまう。そうすれば、私とこの子、どちらもあの男の手で死ぬことになるわ。くだらぬ情けをかけるな」
「も、申し訳ございません」
むしろ、とイシュタルがつぶやいた。
そして、赤ん坊のおくるみを剥ぎ、肌を露わにした。そしてへそのあたりに手を置くと、
母は、表情こそ冷酷そのものだが、つくりは絶世の美人、子は、その血を継いで玉のように美しい赤子だった。
赤子は、その明かりで目を覚まし、瞼をゆっくりと開けた。
まるで花のつぼみが開くかのようだわ、と女官は胸を打たれた。そして、この子には特別な何かがある、と確信した。それほど美しい瞳だった。
そして、母と子は、一瞬だけ目が合った。
たしかに、その子は、母と、見つめ合った。
イシュタルの手が震え、明かりがぶれた。
それから、頭を小さく振り、目を
「
彼女の言葉とともに、新生児のちいさな身体が緑色に光ったかと思うと、へそからじわじわと黒い色素が広がっていった。
それは、みるみるうちに全身に広がっていき、ついには全身隈なく濃い褐色に染まった。
体中が変色し終わると、今度はまつげや眉毛の色が脱色され、銀色になった。
そして、へそを中心に、放射状のあざが残った。肌の褐色よりもさらに濃い、黒に近い茶色で、まるで大きな手のあとのようにもみえた。
光が消え、赤子は気を失った。
「これでよし。私の痕跡は消えただろう」とイシュタルは言った。「さあ、そこに捨てるのだ」
女官は理解していた。いま自分がなすべきことを。
そして。それを果たさなかったらどうなってしまうのかを。
戦女神イシュタルは、誰かを殺すことなどなんとも思っていない冷徹な女神だと、彼女は心底理解している。
だから、これから自分が口にすることが、どれだけ愚かなことなのか、彼女は理解していた。
冷汗が、垂れる。
それでも口に出さずにはいられないのだった。
「せめて、名前だけでも付けてあげてくださいませんか。このままではあまりにも
無言。
イシュタルは何も言わなかった。
月は相変わらず隠れていて、まるで冥界からの誘いのような、葦が風に揺れる音だけが聞こえる。
女官は、虎の尾を踏んだことを悟り、尿を漏らした。びちゃびちゃと地面に尿が飛び跳ねる。
「痴れ事を。これから捨てる子に、名などとは」
女官は涙を抑えきれなくなった。声を押し殺しながら、すすり泣いた。
「どうかお許しください、イシュタルさま。私にはこの赤子を捨てることなどできません。どうかお慈悲を……」
彼女の涙が赤子のほほに垂れる。
それはほほを伝って、赤子の口に入った。
「自分が何を言っているのかわかっているのか? この子は災いをもたらす子だ。その災いは国をも巻き込み、滅ぼしかねないのだぞ」
「ですが、せめて、何かひとつ、この子に残してあげてください……」
女官は涙ながらに声を絞り出した。
ちっ、とイシュタルは舌打ちし、剣を握ったかと思うと、次の瞬間には女官の胴を一閃していた。
そのあまりの速さに、当人も斬られたと気付かないままに、その上半身が、地面に、ぼとり、と落ちた。
女官はなぜ自分の視点が落ちていくのかがわからず、混乱した。
しかし、目の前に自分の下半身が転がっているのを見て、ようやく理解した。
「イシュタルさま、なぜ……」
「感情を捨てきれんお前は、いずれ私に災禍をもたらすだろう。この世界で生き抜くには、情けは命取りだと教えたものを」
女官は、すぐに息絶えた。
彼女の腕の中で、赤子はまだ気絶している。その腕の主が死んでいることにも気付かずに。
「しかし、お前の命に免じ、願いを聞き届けてやろう」イシュタルは死体に向かって言った。
そして、死んだ女に抱かれる我が子に近付いた。
そのとき雲が動き、月が出てきた。
月明かりが周囲を照らし出す。
イシュタルは我が子の顔をまじまじと見た。
肌の色は変わり果てたが、それでも美しい子だった。
そして言った。
「アヌビス。お前の名前はアヌビスだ」
イシュタルは手ずから、女官の血で、赤子のおくるみにその名を書いた。
そして、じっとその赤子を見つめる。
この子はいったいどのような人生を送るのか、と一瞬考えたが、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。お互いに、明日まで生きていられるかもわからんのだからな――
「恨むなら私を恨め。だがこれもお前の運命だ。私のもとに産まれた、運命を受け入れるのだ」
そして、イシュタルは恐る恐る人差し指で赤子のこぶしをつついた。
赤子は、眠りながらもそのこぶしを開き、母の指を握った。その感触を確かめるように、強く、強く。
「生きるも死ぬも、お前次第だ。アヌビス」
イシュタルは立ち上がり、ふと月を見上げた。
そして、振り返ることなく、その場から去った。
月は再び厚い雲に隠れ、あたりは再び暗闇のなかに溶け込んでいった。
何事もなかったかのように、虫や蛙の声が、生命の詩を葦藪に満たしている。
それからしばらくして、アヌビスは腹が空いて泣いた。
その声はとても大きく、遠くまでよく聞こえた。
(つづく)
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