第3話

「蒼、蒼? ケーキを買って貰ったから分けない? 蒼?」

 ただっ広いこの『空間』は、咲の知る他のどの場所よりもがらんとしている。

 思い返せば、その日だけは咲の目の前に蒼が現れるまでの時間が長かった。

 ようやく現れた蒼は、どこか宙の一点を見つめていて、もう一度呼びかけるまで咲に気が付かなかった。

「蒼、どうかしたの?」

「……ううん、なんでもないよ咲」

 蒼の声は掠れていて、顔色は優れなかった。咲がもう一度問いかけてみれば、観念したとでも言うように蒼が口を開く。

「それなら、ひとつだけ聞いて」

途端、蒼の視線が熱を帯びる。

「ねえ、咲。もし学校に僕と似た人が現れても、絶対に関わらないでね、絶対。僕とずっと一緒にいたいなら絶対に」

「どうして?」

 咲には、蒼の真意がわからなかった。何を伝えたくて言っているのかも、急にどうしてそんな話をしだすのかも。

「……それは今は言えないかなぁ」

 蒼の顔にかげりが見えた。目は話しかける前の、普段より虚なものに戻っている。

「僕、変なこと言っちゃったね。ごめん」

 ふにゃりと蒼の口が弧を描いた。どうにか、咲を安心させようとしているようだった。

「今日はケーキ、いらないや。気分じゃない。ごめんね」

 蒼はふらつきながら去っていく。

(体調でも悪いのかな、蒼)

 ケーキの箱を持った咲だけが、ぽつりと残された。


 決まりきった日常に、変化が訪れるのは一瞬の出来事だった。

「篠宮颯。よろしく」

 まだ、新学期から、わずかしか経っていない五月。

 咲のクラスに、季節外れの転入生がやってきた。

 無愛想な彼だが、視界の端で数人に囲まれて話しかけられているのが見える。すでにクラスの中心に彼は据えられたようだった。

 しかし篠宮はそれらに気も止めず、ただ一人に視線を向けていた。

 咲はといえば、教室の片隅で俯いている。

『もし学校に僕と似た人が現れても、絶対に関わらないでね』

 蒼の言葉が思い返される。

(なんで、なんで!)

 心臓が早鐘を打ち、頬を冷たい汗が伝う。

(篠宮くん、どこかで見た事があるような)

 彼の目はあの日の蒼と同じ、夜空のように落ち着いた目をしていた。

(きっと、何も関係ない。気のせいに、決まってる)

「咲さん、だっけ」

 聞き慣れた蒼の声より僅かに低い、気だるげな声。

 咲は慌てて顔を上げる。

 篠宮が、そこにはいた。

「よろしく」

 咲を見る彼の目はナイフのように鋭くて、冷たい。

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