第36話 もっとがんばって、人の役に立てるように

その日の夕食後、絵里奈は家のリビングの本棚の前にいた。

 絵里奈の部屋にも本棚があるけれど、リビングの本棚は家族共有で、下の段には、分厚い辞書や百科事典がそろっている。

 絵里奈は、世界地図と日本地図を引っ張り出した。

「ええと。あと、世界遺産写真集もあったほうがいいよね」


 ひとりごとのつもりが、

「そんなものまで持って行くの?」

 振り向くと、お母さんが立っていた。

「うん。だって明日は行きたい場所の発表をするんだもん。写真集があれば、みんなに場所の説明できるでしょ」

「毎日荷物が多くて大変ね。もっと大きなカバン、買ってあげようか?」

「ううん。これで大丈夫」

 絵里奈は、地図と写真集を、カバンに入れた。

「絵里奈、デザートにメロンがあるから、食べる?」

「ううん。お父さんにあげて」

 お父さんは仕事でいつも遅いから、夕食は絵里奈とお母さんの二人で食べる。メロンはお父さんの好物だ。


 絵里奈はリビングの壁に目を向けた。何年か前に三人でお正月にサンフランシスコに行ったときの写真が額に入れて飾ってある。

 お父さんの仕事がいそがしくなって、ここ何年かは、海外に行っていない。

 本当は6年生の夏休みは、おばさんが住んでいるカナダに行こうって話していたのに、結局、行けなかった。


「あたしね、今まで、海外の貧しい子のためになることをしたいって思ってたけど、日本にいても、人の役に立つことができるんだよ。あたし、サバイバル教室のボランティアに行って本当によかった」

 お母さんは、まだ何か言いたそうな顔をしている。

「大丈夫だよ。あたし、夏休み終わったら、学校行くし」

 そのとき、ピンポンと玄関のブザーが鳴った。お母さんがリビングのインターホンのボタンを押した。

「お父さんだわ」


 まだ夜の9時前だ。お父さんが9時前に帰ってきたことなんてないのに。

「あたしが行く」

 絵里奈は、カバンを置いて玄関に向かった。

 カギが開いてドアが開いた。お父さんだった。

「お帰りなさい」

 玄関先に立つ絵里奈に、お父さんは「ただいま」と言っただけで、目を合わそうとしない。なんだか、すごく疲れているみたいだ。この頃、ぜんぜん話ができなくて、サバイバル教室に行き始めたことも言っていない。


「あのね、お父さん」

 スーツをぬぐお父さんに話しかける。

「あたしね、今ね、ボランティアで、不登校の子達のお世話をしてるんだよ。勉強を見てあげたりとか、すごく頼りにされてるんだ」

 ネクタイを外しながら、お父さんは「そうか」と一言。

「あたし、もっと勉強して、もっとがんばって、人のために役立てるようになるからね」

 ネクタイを持ったお父さんの手が止まった。

 ゆっくりと振り向く。

 絵里奈はほめられる期待に、胸を高鳴らせた。


 振り向いたお父さんは、こわばった顔で、少しも笑っていなかった。

「人の世話をするまえに、自分のことをしっかりしなさい。英検は受けたのか?」

「まだ」

「英語塾には通っているな?」

「あ、はい」

 毎週通っていた英語塾には、実は夏休みに入ってサバイバル教室に行くようになってから、お休みしている。お母さんに連絡してもらったから無断欠席じゃない。

 でも言えなかった。

「とにかく、英語はできるだけすすめておきなさい。そうすれば中学で人より上に立てる」

 ハッとした。スーツを脱いだお父さんの横顔が、とても年を取ってみえた。まだ、40才なのに、白髪もないのに、一瞬、おじいさんみたいだった。

「がんばらないと、置いて行かれる。努力しなさい」

 お父さんは、ひとりごとみたいに、つぶやいた。


 サバイバル教室で頼りにされていることを、お父さんに報告したかったけど言えなかった。5月の連休明けから学校をお休みしていることも言ってない……。

 もっとがんばらなければ。

 もっと、もっと……。

 勉強して、人の役に立つことをして……。

 サバイバル教室のみんなを、一生懸命お世話しなければ。


 翌朝の朝食のテーブルに切ったメロンが出た。

「お父さん食べなかったの?」

 お母さんが顔をそむけた。

 絵里奈はだまってメロンをひとりで食べて、いつもより早く家を出た。

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