第10話 変われるかもしれない
「ぼくは……、絶対になりたくないってものならあるけど」
「なあに?」
瑠子がたずねた。
「学校の先生」
空気が、ヒヤリとした。ぼくは、ひざの上で、こぶしをぎゅっとにぎりしめた。胸の奥底におしこんでいた思いが、あふれてきた。
「ぼくは……子どもを傷つけ、おいつめる先生にだけはなりたくない。自分の好きな生徒だけをひいきして、気に入らない生徒を、ゴミみたいにあつかって。クラスの成績を上げるために、できない子を無視して、ひどい言葉で苦しめて、泣いてごめんなさいって言ってる子どもに、あの先生は……人間のクズって言ったんだ……」
声がふるえる。
人間のクズと言われたのはぼくだった。
6年2組担任の荒引先生に。
ふるえる肩に、そっと手がふれた。
瑠子の手だった。
このときわかった。
このクラスのみんなが、ぼくのこの気持ちを知っている。
いじめられ、痛めつけられ、自分なんていないほうがいいと思ってしまうその瞬間を知っている。
優等生の瑠子も、全然遠慮がない空も、マイペースな詩季も。
イジメ救助隊員はみんな、イジメられてたんだ。このつらさを知っている。
だから隠さなくていい。
「先生、ぼく、なりたいものはまだ分かりません」
先生が、ぼくと力の頭をくしゃくしゃっとなでた。
「大丈夫だ! なりたいものを探そう。必ず見つかるからな。だから、そんな先生のことは忘れてしまえ」
優しい声だったけれど、先生の顔は、怒りを必死におさえているみたいだった。
「子どもを苦しめる先生なんて、最低のクソ野郎だ。そいつが人間の皮をかぶったバケモノ……だったら、おれがぶちのめしてやるんだけどな。残念ながら、バケモノでもけだものでもなくそいつも人間だ」
先生は自分をおさえるように、ふうっと深く息をはいた。
「なあ、みんな。人間とけだものの違いは何か知ってるか?」
先生のといかけに、瑠子が一番にこたえた。
「知恵があること?」
「動物だって知恵はあるぞ。悪知恵もある」
「ああ、でも動物はそれが悪いと思ってるわけじゃないから……そっか! 人間と違うところ、善悪!」
先生がほほえんだ。
「瑠子はかしこいな。けものは本能と欲望のままに行動するけれど、そこに善悪はない。人間は、何が正しいのか、どうすれば正しくなるのか、考える。考えて正しい方向に進んでいこうとする。なあ、光太郎。おれたちは人間だ。だから、どんなに怒り狂っても何があっても、誰かをぶちのめしたりはしない。どうするのが正しいのか考えて、理性で対抗する。理性は必ず勝つ。光太郎。お前は、そんな最低のクソ野郎には負けない。絶対に勝つ!」
「……ぼくが……勝つ……?」
「おまえは勝つ!」
先生は一言ずつくぎるようにして、力強く言い切った。
ぼくはきっと信じられないっていう顔をしていたんだろう。先生はぼくをまっすぐに見つめた。
「信じられないかい? そうかもしれないな。だったら、おれのことは信じられるかい? おれは光太郎を信じている。だから、光太郎を信じているおれを、信じろ! おれは絶対に裏切らない!」
先生はハッキリと言い切った。
ぼくは今でも、ぼくのことが信じられない。信用できないと言ってもいい。5年生のあの日からだ。世界がひっくりかえったあの日を、いまだに夢に見る。それに自分がこんなに弱い人間だなんて、学校に行けなくなるまで知らなかった。
「先生がそう言ってくれるなら……」
あらためて、真名子先生と真っ直ぐに向き合う。
「何があっても、おれを信じろ。自分のことを信じられなくなったときも、おれを信じろ」
くしゃくしゃと頭をなでられながら、ちくっと胸が痛んだ。ぼくはまだ、先生にもみんなにも、学校に行けなくなった本当の理由を言っていない。荒引先生に苦しめられたのは本当だけど。
真名子先生みたいな先生が最初から担任だったら、先生になりたくないなんて思わなかったのに。
「先生は……先生はどうして、そんなに強いんですか」
先生は、ニコッと白い歯を見せた。
「弱かったからさ。おれは弱い。だから強くなった。自分の弱さを認められるやつが強くなれる。だから、光太郎、おまえも強くなれる」
このときのぼくは、先生の言っている本当の意味を、まだわかっていなかった。
それでも、今までの自分じゃない、違う自分に変われそうな気がしていた。いつか本当のことを、真名子先生にもみんなにも言える、そう思えるようになっていた。
サバイバル教室に行くようになって、1カ月半。
7月……そろそろ梅雨があけようとしていた。朝家を出るときに、一応カサは持ってきたけれど、雲間から、青い空が見えている。地下鉄の駅からサバイバル教室がある文化センターへの道を歩く。夜、雨が降ったからか、緑が濃い。街路樹の間を飛んでいる鳥は、ツバメかもしれない。この春に巣立ったのだろうか。カサを杖みたいにしてトントンとつききながら歩いていたところに、後ろから声をかけられた。
「おはよう! 光太郎!」
ふりむくと真名子先生がいた。
「おはようございます!」
「カサ持ってきたのか」
「あ、はい。天気予報で降水確率五十パーセントって言ってたから」
先生はいつもの白Tシャツとジャージだ。
「準備万端だな!」
先生がとなりを歩く。文化センターの建物が、信号の先に見えている。サバイバル教室は一番奥の2階にある。
ガラス窓に、青い空が映っている。この分だと雨は降らないかもしれない。
「先生は、カサは?」
先生が、いたずらっ子みたいな笑みをうかべた。
「雨が降ったら考える!」
先生は、雨の中ぬれていても、笑っていそうだった。ぼくは手に持ったカサを、先生に手渡した。
「そしたら、このカサ先生にあげます」
「じゃ、降ったら、カサに入れてやろう」
顔を見合わせて笑った。
ぼくのカサを手に持って、ふと先生が真顔になった。
「光太郎。ちゃんと歩けるようになったな」
「え?」
ぼくは自分の足元をながめた。前も普通に歩いていたはずなのに。
「はじめて会った日、光太郎は歩いている間、ずっと、下を向いていたよ。本当に、しんどそうだった。でも今は、元気そうだ」
ハッとした。そういえば確かに、ここに来る前は、空も樹も鳥も全然気づかなかった。季節の移り変わりにも気づかなかった。足元しか見てなかったからだ。
信号を、先生とならんでわたる。
「ぼく、少しは強くなったんでしょうか?」
先生が、ぐっとこぶしを突き出した。
「ああ。強くなったよ」
ぼくは、地面をふみしめて歩いた。文化センターの屋根の上に、濃い夏の青空が広がっていた。
文化センターの入り口に美遊と空がいて、手を振っている。
「おはよう!」
その日、サバイバル教室に、みんながそろったところで、先生が言った。
「さて。光太郎もなれてきたし。そろそろやるか。イジメ救助大作戦を開始しよう!」
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