第9話 将来なりたいものは

 真名子先生の授業は、勉強させられている感がないのが、不思議だった。6人っていう少人数だからかもしれないけれど、ディベートでもちゃんとみんな発言していたし。


 勉強を、ぼくが教えることもあった。

 たとえば理科の授業のとき。生物の呼吸がテーマだった。教科書には人間と魚、植物の呼吸の図が描いてある。先生が、教科書だけじゃなく、カラーの図鑑、人間の解剖図や動物図鑑や昆虫図鑑を用意してくれた。


 先生が「2人ずつ組んで」と言うが早く、美遊が、瑠子にかけよった。

「瑠子ちゃん、一緒にやろう」

 となりどうしの力と空は、もう一緒に教科書を広げている。

 残ったぼくは、なんとなく、残った詩季と組むことになった。

 先生が、教壇から声を掛ける。


「人間の呼吸と同じところと、違うところがどこか、考えてみよう」

 すぐに詩季が口をとがらせた。

「そんなの分かんないよ」

「じゃあ、光太郎に教えてもらえ」

 言われて、ぼくは、教科書の人間の呼吸の図を、指先でたどりながら説明した。

「人間も、昆虫も、魚も、呼吸して酸素を取り入れてるんだよ」

 詩季が眉を寄せた。

「魚も? だって水の中だよ?」

「水の中には、酸素がとけてるんだ」

「じゃ、人間も水ん中で、息できるの?」

「ううん。だって、人間はえらが、ないから。水の中から酸素を取り出すのには、魚のえらが必要なんだ。ほらね、この図を見て」

 図鑑の図を見せながら呼吸の仕組みを説明すると、詩季の表情が、だんだん明るくなっていく。

「へえ! そうなんだ! 知らなかった」

 顔をあげた詩季の目は、キラキラと輝いている。


 ふと教室の前を見ると、先生が、イスによりかかって座って、足を投げ出してくつろいでいる。

「このクラスは楽だなあ! おれの代わりの先生がたくさんいて」

「ほんと先生、楽してるよなあ。少し働いてもらわなくちゃ」

 さっきまで力に教えていた空が先生の腕をひっぱった。

 先生が空を腕にぶらさげたまま、体を起こした。

「わあ!」

 空の体をゆらゆらゆらす。

「人に教えるのが、一番勉強になるんだ。自分で分かっていないことは教えられないだろう? 自分が分かってるのか分かってないのか確認できる。勉強は自分の中に知識を入れるインプットと、自分の中の知っていることを言葉にして出す、アウトプットのくり返しなんだよ」

 教えるのも勉強だなんて、初めて聞いた。


 その日の帰りぎわ、詩季が言った。

「あんた、教えるのうまいよ」

「え」

 急に言われて、ドキッとした。

「わかりやすいよ。先生になれるんじゃない?」

 その言葉は、詩季が、適当に思いつきで言ったのかもしれない。でもぼくの心の一番深いところに、突き刺さった。


 だから、将来なりたいものを聞かれたとき、詩季の言葉を思い出したんだ。

 それは、ディスカッションみたいに、イスを丸くならべて話す授業のときだった。

 外は雨が降っている。予定では文化センターの周りをジョギングするハズだったけれど、雨で変更になったのだ。


 雨につつまれた教室は、みんなの距離がいつもより近い気がする。

 真名子先生は、ひとりずつ顔を見ながら、口を開いた。

「今日は、みんなの、将来なりたいものを話してくれ」


 瑠子が手を上げた。

「前に言ったことと同じでもいいんですか?」

 6月からサバイバル教室に入ったぼくと違って、みんなはもっと前から通ってきている。空と美遊と詩季は4月から、瑠子と力は5年生の秋からだ。

「ああ、もちろん。じゃあ瑠子は医者になりたいんだな」

 先生の言葉を瑠子が言い直した。

「病理医です。がんの診断をする医者です」

 ぼくは、瑠子の横顔をぽかんと見ていた。こんなにはっきりと将来の夢を話す人を初めて見た。ふわふわとした夢じゃなくて、瑠子にとっては確実な未来なのだろうと思えた。


「瑠子さんは親が医者なの?」

 そう問いかけると、瑠子は何とも言えない微妙な表情になった。

「そうだけど、でもだから何?」

「ご、ごめん! ぼく、そんなつもりじゃなくて」

 あせるぼくに、真名子先生が割って入った。

「まあまあ。瑠子は、いろんな人に言われすぎてうんざりしてるんだよな。でも、家族の職業っていうのは大事だぞ。この世にいくつ仕事があると思う? 何百何千とあるけれど、そのうち、みんなが知っているのはせいぜい数十個だろう? 親や親戚の仕事、近所で見かけるお店屋さんや、テレビで見る仕事、学校、この世にはみんなが知らない仕事がめちゃくちゃたくさんある」

 そして先生は、みんなに向き直った。

「だから、将来なりたいものは、どんどん変わっていい。新しい夢が見つかったら、それが新しい未来になる。なあ、美遊。前はパティシエって言ってたけど、どうだ?」

 指で髪をくるくるしていた美遊は、先生にうながされて、口を開いた。

「あたし、やっぱり、看護師さんになりたい」

 美遊は、瑠子にちらと目を向けて、「なれるかな」とつぶやいた。

 瑠子は、「なれるよ!」と美遊に微笑みを返した。


 ふたりを横目でながめていた詩季が手を上げた。

「あたしは、変わってない。ファッションデザイナー! シキブランドを作るの」

 広げた詩季の指先の爪が、薄いピンク色にキラキラしている。何かぬっているのかもしれない。着ているサスペンダー付のジーンズがよく似合っている。

 先生が、うなずいた。

「いいな、詩季。デザイナーになるには、家庭科や図工だけじゃなく、ファッションの歴史も知らなくちゃな。特に女性の洋服の歴史は、自由と解放の歴史だ。それに布をあつかうには、繊維についても学ばないとな。シルクはカイコから、綿は綿花から、そしていろんな化学繊維もある」


 先生の話で気づいた。これもやっぱり「理由」なんだ。先生と目が合った。先生がうなずく。

「光太郎。将来の夢は、原動力になるんだよ。勉強だけじゃない。どんなつらいことがあっても、くじけない力。今を生きてく力になるんだ。夢っていうのは、とてつもなく大きなパワーをあたえてくれるんだよ。だから夢はでっかくていい」

 すると空がさけんだ。

「おれはカメラマン!」

 詩季が首をかしげた。

「へぇ、空が撮った写真見たことない」

「だっておれ、カメラ持ってないもん」

「持ってないのに、カメラマン?」

 詩季の冷ややかな目も、空は気にしていない。

「アフリカのサバンナで、ライオンの写真を撮るんだ! ジープに乗ってキャンプするんだぜ。テレビで見たんだ」

 ずいぶんアクティブなカメラマンだけれど、語る空は目をかがやかせ、楽しそうだ。


 真名子先生は、ニコニコしながら話を聞いている。

「力はどうだ? 変わったんじゃないか?」

 力は先生を見て、小さくうなずいた。

「うん。空手家はやめる」

 足は早いけれど、小柄でおとなしそうな力が、空手家になりたかったのだと初めて聞いて、ちょっと驚いた。

「じゃあ、何になりたいの?」

 ぼくが聞くと、力はうつむいた。

「何になりたいかはまだ分からないんだ。でも、空手は止めたから」

 胸のどこかに、かすかな痛みを感じた。よくはわからないけれど、きっと何かイヤなことがあったんだ。


 力が顔を上げた。

「光太郎君は?」

 みんなの視線が集まっているのを感じた。

「ぼくは……」

 みんなの話を聞きながら、考えていた。でも自分がなりたいものが、どうしても思いつかなかった。うまく言葉が出てこない。でも、みんな、急かさずに、待ってくれている。

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