第十二話 竜の心について

 誰にも知られることなく、その奇跡は行われていた。

 俺とアオイのたった二人だけが共有する光景に、俺は一人で安堵の息を漏らす。


 幌の中を包んでいた光が治まっていく。

 それと同時に、アオイを蝕んでいた毒の斑紋もまた消えていく。


 どうにかなると信じていた。

 しかし、予想とその現実を目にするのとでは大違いだ。


「おかえり、アオイ――」

「――ええ、ただいま戻りました、フロウ」


 目を開けて、アオイが俺を見つめていた。

 柔らかな微笑みをのせたその顔に苦しさは見られない。


 アオイの視線が下がる。

 俺の顔から、宝牙エリクシルを見て、そして髪飾りへと届く。


「あなたがそれを持っていたのですね、失くしたのだとばかり思っていました」

「ああ、俺は美術商だからな、珍しい美術品には目がないんだ」


 胸から髪飾りを話すと、宝石がしゃらんと揺れた。

 青と黄色の宝石が揺れる様子を、アオイは懐かしそうに眺めていた。


「……元服の折、母がくれたのです。女である以上は装いにも気を使えと」

「なるほどな、大切なものなら返したほうがいいか?」

「いえ、だってそれは――この心臓の対価なのでしょう?」


 そう言いながら、アオイは胸に手を当てた。

 その下ではきっと、アオイの心臓が力強く鼓動している。



「邪竜の心臓――まさか、そんなものをもらっていたとは」



 もう隠すことはできなかった。

 もとより、こうなってしまえばそのつもりもない。



 リチウ大陸の歴史上で最強の生物――邪竜ミガルア。

 その心臓は、あらゆる魔石を超える生命の炉。


 そして、俺が仲間たちと分け合った旅と絆の証。


 あのとき、あの浜辺で死の際にあった少女の命を繋ぐ手立てはこれしかなかった。

 だから俺は少女の髪飾りと引き換えにして、邪竜の心臓を彼女に与えたんだ。


 目の前に死にそうな人がいて、それを救う手段があったからそうしただけで、恩を売る気はなかった。

 アオイが突然店にやってきたときは心底驚いたが、わざわざ教える必要もないだろうと思っていた。



「ルピーヒドラの毒なんて、上位種である邪竜の力が活性化すれば大したもんじゃない」

「ええ、全身から力がみなぎってくるようです」


 アオイは体を起こして、幌の隙間を見つめた。

 その先では、今もオークの戦士たちが戦っている。



「――征きます。アオイには、それしかありませぬゆえ」



 剣を取り、アオイは言う。

 しかしその言葉は、命の力強さに満ち溢れていた。


「……よっしゃ、いってこい」

「おや、無茶をするなと止めぬのですか?」

「言って聞くやつじゃねえのはわかってる、説教はお前が戻ってからだ」


 そう言って俺が笑うと、アオイも笑った。


 立ち上がり、アオイが荷車から出る。

 傷が癒えたその体で、二本の脚で、しっかりと地面を踏みしめていた。

 瞳はすでに、戦場を見つめている。


 ああ、その目は本当に――。



「そうだ、忘れるところでした!」

「……なんだ、こんな時くらいちゃんとしてくれ」

「いえいえ、大切なことゆえ、こればかりはしておきませんと!」


 すっかりいつもの調子を取り戻したアオイの声に、こちらも気が楽になる。


 そう思っていると、アオイは俺の方を向いて、地面に両膝と両手をつき、深く頭を下げた。



「――フロウ・ティンベル殿。不肖の我が身を二度もお救いいただいた大恩とその慈悲に、深く感謝を申し上げます」



「……やめてくれ、そういうのは性に合わない」

「いえ、こればかりはきちんと申さねばなりませぬ」


 斑紋が消えてキレイになった額を地面につけて、アオイは言う。

 せっかく戻った調子も、これではやりにくい。



「この上は月崎 宮内少輔 葵の七生以て奉公仕り、必ずや御恩に報いると誓いましょう」



 結局のところ、アオイは変わらない。

 こいつは故郷を背負ってこの場所に立っている。


 ならば、相互理解のために俺がすることは一つ。

 俺が受け入れて、歩み寄ることだ。



「堅苦しいのは苦手だし、俺がお前に言いたいことはたった二つだ」



 アオイが顔を上げて俺を見る。

 いつもの笑みに、信頼と絆を乗せたその瞳に、俺も笑顔を返す。




「もう二度と、死なせてくれなんて言うな――それと、たまには話を聞いてくれ」

「――――はい!!!」




 そして立ち上がり、アオイは走り出す。

 引き絞られた矢のように、ルピーヒドラへ向けて一直線に。


 オークたちの輪を割いて、その列を越えていく。

 突然の乱入者に驚いたオークたちの目に驚きと、もう一つの感情が浮かんだ。


 待ちくたびれた、ようやく来た、帰ってきたという喜びの目。



 アオイの後ろ姿に、俺はよく見知った影を重ねていた。

 その人はズボラでいい加減で、目を離せばすぐ問題を起こす人だった。

 嘘が苦手で、曲がったことが嫌いで、困った誰かを見過ごせないバカ正直な男。


 あいつが本当にすごかったのは、邪竜を倒した腕っぷしでも、一度も旅を諦めなかった根気強さでもない。

 文化や思想の違いも乗り越えて、敵であっても友情を育んでしまうその精神。



 ――共にいきたいと願わせる、黄金の魂。

 アオイの姿は、兄貴とよく似ていた。



 アオイが戦列の最前線へと到達する。


 最前線にはラガニがいた。

 アオイは飛び上がり、その肩に足を乗せ、さらに上へ――。



「――なっ、戦士アオイ、貴様!!」

「無礼は承知! 然れども好機にて、御免!!!」



 アオイの体が空へ飛ぶ。

 ラガニを越え、ルピーヒドラの巨体を越えて、上へ、上へ――。


 そしてアオイの影は、地平線から覗く朝日の陽光に重なった。



「桜天流――――桜歌竜鳴!!!!」







 ルピーヒドラは退屈していた。

 あの小さな強敵が攫われて、戦意を喪失しかけている。


 乱入してきた小さな奴らは、あいつに似ているだけあって、悪い相手ではなかった。

 群れの数も多く、戦況は一進一退と言っていい。


 だが、熱は入らない。

 あいつとの一騎討ちで感じたような、あの熱いものは消えてしまった。



『そもそもなぜ、俺はあんなにもあいつが好きだったのだろう?』



 ヒドラはあの興奮の根源を知りたかった。


 はじまりは――そうだ、予感があったのだ。

 なにかとんでもないやつが来ると、そう思った。



『でもなんで、俺はそう感じたのだろう?』



 たしかにあいつはいい敵だった。

 でも、自分のほうが強い。

 恐れるほどの相手ではなかったはずだ。


 そんなことを考えているうちに、ヒドラは気づく。

 体が重くなっている。


 血を流しすぎたのか、肉を斬られすぎたのか。

 群れのこいつらも、十分な強敵であるから、しかたない。


 勇敢な戦士であるヒドラに撤退はない。

 そもそも死を恐れてはいない。

 食う側の自分が、食われる側になることもあろう。


 でも、できるのならば、もう一度だけあいつに――。

 わずかな心残りがヒドラの中で形を成した、その時だった。



『――なにか、とてつもないやつが来る』



 命の灯が弱まりつつあったルピーヒドラの小さな脳裏によぎった微かな予感。

 二度目のそれは、逡巡の余地もなくヒドラの中で爆発し、熱を入れた。


『――あいつが来る! あいつが、死の淵から帰ってきた!!』


 敗北したものが戻ってくる。

 自然界において、それはあってはならないルール違反だった。


 しかしそんな掟破りなどどうでもいいくらいに、ヒドラは歓喜に溺れていた。


『あいつが来る、群れを割って、俺に会いにやってくる!』


 四肢に力が入る。

 情けないところは見せられない。


 決着をつけるのだ、俺とあいつのどちらかが、敵を討つのだ。



「――オォ、オォオルルルゥ、オォオ!!!」



 歓喜の声に答えるように、あいつが姿を現した。

 空高くへ飛び上がったあいつをヒドラは睨む。


 そして、わかった。

 我が身を二度も捉えた、予感の正体。



『ああ、お前は――あなたは――ミガルア!!』



 竜種の頂点。

 この大陸における全生物の到達点。

 見るも恐ろしい偉大なる存在を、彼はたしかに感じた。



「桜天流――――桜歌竜鳴!!!!」



 ルピーヒドラは敗北する。

 しかし彼は喜んでいた。


 なぜならそれは竜種である彼にとって、最も誉れ高い敗北だったのだ。

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