第十一話 心の景色について
――空が違った。
色は同じ、風の音も匂いもさして変わらない。
それでも、どこか違うことだけはわかった。
シケに飲まれて、嵐の海に放り出されて、意識を失ったうちに流され辿り着いたどこかの浜辺。
それが自分の知るシモツキのどこでもないことが、アオイにはなんとなくわかっていた。
しかし、それよりもずっとたしかなことがある。
――もうすぐ、自分の命の火は尽きる。
死ぬことは怖くない。
だけど、どこともわからない空の下で一人で逝くことは、ほんの少し寂しかった。
知らない空を見ての最後がどうにも耐えられず、アオイは目を閉じた。
瞼の裏には、駆け回った山々が鮮明に映る。
草の甘い匂いも、柔らかな風の感触も、虫や鳥のさえずりも、なにもかもが美しく、命の喜びに満ちていた。
ここがどこなのかはわからない。
――だがせめて、できることなら、最後に一目だけでも。
遠くから、誰かの足音が聞こえる。
浜の砂を踏みながら、こちらへやってくる。
「――――――――――」
誰かが語りかけてくる。
だが、もはや答える気力もない。
頭を撫でられる。
優しいその手の感触だけが、やけに鮮明に感じられた。
「――この髪飾りは代金がわりにもらっていく。勝手で悪いが、値は釣り合うだろうよ」
言葉の意味はわからなかった。
わからないまま、アオイの意識は失われた。
◇
ルピーヒドラの相手はオークたちに任せて、離れた場所で竜車を停め、荷車の幌の中にアオイを運び込む。
俺の腕の中で、アオイは目を閉じていた。
まだ呼吸があるが、もうずいぶんと浅いものになっている。
ろくに息を吸うほどの力さえ残っていないのだ。
首や腕、露出した肌のいたるところに、毒が蝕んだことを示す紫の斑紋が浮かんでいる。
ここまで毒が廻っては、もはや薬はおろか、並の治癒魔術でさえ効果はないだろう。
――ユスティーアがここにいてくれれば。
頭によぎった浅はかな考えを否定しながら、アオイの体を横たえる。
「いない奴に頼れるわけもない――それに、打つ手はあるんだ」
シャツのボタンを開けて、首に下げていた宝牙エリクシルを外す。
エリクシルは起動していない。
当然だ、これは人と人の争いを止めるためのもの。
この状況において宝牙の力は使えないのだ。
――だが、聖竜の牙にはユスティーアとリノアが残した潤沢な魔力が込められている。
それがあれば、今は十分だ。
続けて、ポケットにずっとしまっていたものを取り出す。
異界の金属と宝石でできた、この大陸でおそらくたった一つの美術品。
世界を渡って流れ着いた少女が身につけていた、美しい髪飾り。
あの日、まだ誰もいない朝の浜辺で出会った少女を救う代金として、俺が貰い受けたもの。
「……恩を売る気も、こんなところで見せるつもりもなかったんだからな」
聞いているはずもないアオイに向けて言い訳のように呟きながら、その胸元をはだけさせる。
白い、綺麗な少女の肌だ。
毒の斑紋がなければ、いっそう輝いて見えただろう。
この世界に生きる俺たちの体と何も変わらない、命を持った人の体。
胸の中心に、髪飾りの鋭い先端を押し当てる。
髪飾りはアオイの肌に食い込んで、その先から小さな血の雫が膨らんだ。
「――っ、けぁ! か、ふぅ!」
「苦しいか、悪い、だがもう少しの辛抱だ」
咳き込むアオイの頭を撫でて、それからエリクシルを髪飾りに押し当てた。
俺にユスティやリノア、エルシャのような魔術の才能はない。
それでも、魔導具の中にある魔力を移すくらいのことはできる。
できるかぎりの力を込めて、エリクシルから髪飾りへ、髪飾りからアオイの胸へと魔力を流していく。
二人の幼馴染みが残した膨大な魔力は河のようにアオイへ渡る。
「できるはず、あの時だって、できたんだ……!」
アオイの胸から白い魔力の光が溢れる。
光が粒になって、幌の中を埋め尽くす。
それは、俺たちにとって二度目となる、奇跡の光だった。
◇
気づけばアオイの意識は、暗い、光の届かない海の中を漂っていた。
泳ぐことも浮かぶこともできず、深く深く沈んでいく。
ここがどこだかはわからない。
ただ、きっと話に聞く彼岸とやらに近い場所なのだろうと、たゆたう意識の中でアオイは思った。
沈んでいく。
ただぼうっとしながら、流れるままに沈んでいく。
自分はどこかへ向かっているようだった。
なにかの意志のもと、運ばれている。
それになんとなく気づいて、アオイは自分が進んでいる先を見た。
そしてアオイは――それと目が合った。
「ああ、ああ、お前は――お前が」
竜がいた。
山と見紛うほど、水底を埋め尽くすほどの体を横たわらせて、黒い竜は臥していた。
威風堂々たる存在感、窪んだ眼窩の奥に光る禍々しさ、暗闇の中にある微かな光を逃さずに反射する鱗の荘厳な姿。
一目でわかった――あれが邪竜。
長きにわたり大陸の人々を脅かし、そして滅んだもの。
なんと清らかで、勇ましく、美しい怪物であろうか。
アオイが邪竜を見ているように、邪竜もまたアオイを見ていた。
その瞳には、炎と氷を砕いて作ったモザイク画のような輝きがある。
邪竜が鳴いた。
――なんと悲しい声であろうかと、アオイは思った。
低く、重たい声。
数万年の孤独を吐き出す霧笛のような声。
言葉にはほど遠いその鳴き声の意味が、なぜかアオイにはわかった。
「そうか、お前は怒っているのだな、邪竜よ」
あんな小物におくれを取るなと。
お前がそんなザマで許されるわけがないと、彼女は怒っていた。
呆れたような視線をアオイに向けてから、邪竜はその奥を見た。
つられてアオイが天を仰げば、白い一本の光の筋が、糸のように降りてくるところだった。
再び邪竜が鳴く。
気に食わない、嫌いな知人と出くわしたような、不機嫌な声。
やけに人間味のある邪竜の態度がおかしくて、アオイは笑った。
「不甲斐ないところを見せた。だが、文句があるのならばお前も来い」
光の糸に手を伸ばし、もう片方の手を邪竜に伸ばす。
しかし邪竜は、アオイから顔を背けて目を閉じてしまった。
「捻くれ者め――だが、餞別くらいはもらっていくぞ」
邪竜からの返答はない。
だから、アオイは胸の鼓動を代わりに答えとして受け取った。
糸を辿り、アオイは上っていく。
向かうべき場所はわかっている。
――待たせてしまった、友の下へ。
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