第十一話 心の景色について

 ――空が違った。


 色は同じ、風の音も匂いもさして変わらない。

 それでも、どこか違うことだけはわかった。


 シケに飲まれて、嵐の海に放り出されて、意識を失ったうちに流され辿り着いたどこかの浜辺。

 それが自分の知るシモツキのどこでもないことが、アオイにはなんとなくわかっていた。



 しかし、それよりもずっとたしかなことがある。

 ――もうすぐ、自分の命の火は尽きる。



 死ぬことは怖くない。

 だけど、どこともわからない空の下で一人で逝くことは、ほんの少し寂しかった。


 知らない空を見ての最後がどうにも耐えられず、アオイは目を閉じた。

 瞼の裏には、駆け回った山々が鮮明に映る。


 草の甘い匂いも、柔らかな風の感触も、虫や鳥のさえずりも、なにもかもが美しく、命の喜びに満ちていた。



 ここがどこなのかはわからない。

 ――だがせめて、できることなら、最後に一目だけでも。



 遠くから、誰かの足音が聞こえる。

 浜の砂を踏みながら、こちらへやってくる。


「――――――――――」


 誰かが語りかけてくる。

 だが、もはや答える気力もない。


 頭を撫でられる。

 優しいその手の感触だけが、やけに鮮明に感じられた。


「――この髪飾りは代金がわりにもらっていく。勝手で悪いが、値は釣り合うだろうよ」


 言葉の意味はわからなかった。

 わからないまま、アオイの意識は失われた。





 ルピーヒドラの相手はオークたちに任せて、離れた場所で竜車を停め、荷車の幌の中にアオイを運び込む。


 俺の腕の中で、アオイは目を閉じていた。

 まだ呼吸があるが、もうずいぶんと浅いものになっている。

 ろくに息を吸うほどの力さえ残っていないのだ。


 首や腕、露出した肌のいたるところに、毒が蝕んだことを示す紫の斑紋が浮かんでいる。

 ここまで毒が廻っては、もはや薬はおろか、並の治癒魔術でさえ効果はないだろう。


 ――ユスティーアがここにいてくれれば。

 頭によぎった浅はかな考えを否定しながら、アオイの体を横たえる。


「いない奴に頼れるわけもない――それに、打つ手はあるんだ」


 シャツのボタンを開けて、首に下げていた宝牙エリクシルを外す。


 エリクシルは起動していない。

 当然だ、これは人と人の争いを止めるためのもの。

 この状況において宝牙の力は使えないのだ。


 ――だが、聖竜の牙にはユスティーアとリノアが残した潤沢な魔力が込められている。

 それがあれば、今は十分だ。


 続けて、ポケットにずっとしまっていたものを取り出す。

 異界の金属と宝石でできた、この大陸でおそらくたった一つの美術品。


 世界を渡って流れ着いた少女が身につけていた、美しい髪飾り。

 あの日、まだ誰もいない朝の浜辺で出会った少女を救う代金として、俺が貰い受けたもの。



「……恩を売る気も、こんなところで見せるつもりもなかったんだからな」



 聞いているはずもないアオイに向けて言い訳のように呟きながら、その胸元をはだけさせる。



 白い、綺麗な少女の肌だ。

 毒の斑紋がなければ、いっそう輝いて見えただろう。


 この世界に生きる俺たちの体と何も変わらない、命を持った人の体。



 胸の中心に、髪飾りの鋭い先端を押し当てる。

 髪飾りはアオイの肌に食い込んで、その先から小さな血の雫が膨らんだ。


「――っ、けぁ! か、ふぅ!」

「苦しいか、悪い、だがもう少しの辛抱だ」


 咳き込むアオイの頭を撫でて、それからエリクシルを髪飾りに押し当てた。


 俺にユスティやリノア、エルシャのような魔術の才能はない。

 それでも、魔導具の中にある魔力を移すくらいのことはできる。


 できるかぎりの力を込めて、エリクシルから髪飾りへ、髪飾りからアオイの胸へと魔力を流していく。

 二人の幼馴染みが残した膨大な魔力は河のようにアオイへ渡る。


「できるはず、あの時だって、できたんだ……!」


 アオイの胸から白い魔力の光が溢れる。

 光が粒になって、幌の中を埋め尽くす。


 それは、俺たちにとって二度目となる、奇跡の光だった。







 気づけばアオイの意識は、暗い、光の届かない海の中を漂っていた。

 泳ぐことも浮かぶこともできず、深く深く沈んでいく。


 ここがどこだかはわからない。

 ただ、きっと話に聞く彼岸とやらに近い場所なのだろうと、たゆたう意識の中でアオイは思った。


 沈んでいく。

 ただぼうっとしながら、流れるままに沈んでいく。


 自分はどこかへ向かっているようだった。

 なにかの意志のもと、運ばれている。


 それになんとなく気づいて、アオイは自分が進んでいる先を見た。

 そしてアオイは――それと目が合った。



「ああ、ああ、お前は――お前が」



 竜がいた。

 山と見紛うほど、水底を埋め尽くすほどの体を横たわらせて、黒い竜は臥していた。


 威風堂々たる存在感、窪んだ眼窩の奥に光る禍々しさ、暗闇の中にある微かな光を逃さずに反射する鱗の荘厳な姿。


 一目でわかった――あれが邪竜。

 長きにわたり大陸の人々を脅かし、そして滅んだもの。


 なんと清らかで、勇ましく、美しい怪物であろうか。


 アオイが邪竜を見ているように、邪竜もまたアオイを見ていた。

 その瞳には、炎と氷を砕いて作ったモザイク画のような輝きがある。


 邪竜が鳴いた。

 ――なんと悲しい声であろうかと、アオイは思った。


 低く、重たい声。

 数万年の孤独を吐き出す霧笛のような声。


 言葉にはほど遠いその鳴き声の意味が、なぜかアオイにはわかった。


「そうか、お前は怒っているのだな、邪竜よ」


 あんな小物におくれを取るなと。

 お前がそんなザマで許されるわけがないと、彼女は怒っていた。


 呆れたような視線をアオイに向けてから、邪竜はその奥を見た。

 つられてアオイが天を仰げば、白い一本の光の筋が、糸のように降りてくるところだった。


 再び邪竜が鳴く。

 気に食わない、嫌いな知人と出くわしたような、不機嫌な声。


 やけに人間味のある邪竜の態度がおかしくて、アオイは笑った。


「不甲斐ないところを見せた。だが、文句があるのならばお前も来い」


 光の糸に手を伸ばし、もう片方の手を邪竜に伸ばす。

 しかし邪竜は、アオイから顔を背けて目を閉じてしまった。


「捻くれ者め――だが、餞別くらいはもらっていくぞ」


 邪竜からの返答はない。

 だから、アオイは胸の鼓動を代わりに答えとして受け取った。


 糸を辿り、アオイは上っていく。

 向かうべき場所はわかっている。


 ――待たせてしまった、友の下へ。

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