第十話 武士のいる世界について

 傷の数は、ルピーヒドラの方が多かった。

 アオイの刀が作った傷は大小を問わずヒドラの全身にくまなく刻まれている。


 対するアオイは、痛手となるような一撃を食らってはいない。

 ヒドラが繰り出す爪や牙のほとんどを避け、捌き、凌いできた。


「――はっ、はっ、はっ」


 しかし今、アオイは地面に剣の先をつき、呼吸を荒げてようやく立っている。

 視界は霞みはじめ、勇ましい一刀を繰り出していた腕や足は激しい痛みと痺れに覆われていた。


 一方のルピーヒドラの瞳に疲れや怯んだ様子は見られない。


 この差の原因は、埋めるべくもない両者の性能の差。

 そして、ヒドラが天より与えられた毒という必殺の武器がアオイの体を蝕んだことによるものだった。


 ヒドラが右の前脚を振るう。

 けして敵を侮ったものではない、だがアオイならば十分避けられるはずの一撃。

 それをアオイは、体の横に構えた刀の腹で受け止めた。


「っ、くぁ――!!」


 アオイは武士であり、戦場に生きる人間だ。

 争いという非日常空間、そこで人が飛ばされる常識的な距離というものを、アオイは知っている。


 しかし今、アオイの体はその常識的な飛距離から逸脱して宙を舞い、地面を転がった。


 受け止める腕の力も、踏ん張る脚の力も効かない。

 そこにルピーヒドラという規格外の暴力が加わると、人は竹とんぼに変わるのだ。

 地面に腕をつき、やっとのことで体を起こしながら、アオイはそんなことを考えていた。


「ああ、惜しい……こんなにも惜しいものか、なあ、異界の化物よ……」


 声はほとんど声の形を成していなかった。

 ひゅうひゅうという呼吸に紛れて、誰にも伝わらない言葉をアオイは投げかける。


 敵わないことがわかってしまう。

 生涯をかけて鍛え上げた技が通じないことがわかってしまう。


 ゆえに惜しい。

 力の高みを知り、それに届かず終わることが口惜しい。


 ――されど、悔いはなし。持っていけ、この命。


 倒すことはかなわず、だがやれるだけのことはやった。

 もはや刀を振るうことのできなくなった体に、恥じるべき傷は一つもない。



 震える腕で、どうにか刀を構える。

 そうすることで、アオイはヒドラに伝えようとしていた。


 逃げることはしない。

 私はお前との戦いの中で、最後まで一人の敵としてあるのだと、言葉の代わりに姿勢で示した。



 ヒドラが一歩前へ出る。

 アオイの死が一歩近づく。


 すでにヒドラは毒の霧を出すことをやめていた。

 アオイにはそれがありがたかった。


 手に掛けようとしてくれているのだと、自ら手を下すに足る相手だと思われている気がして、救われた。


 ――父よ、友どもよ。お褒めください、異なる世界の果ての地で、アオイは恥じることなく死にまする。


 もはや左の目は効かなかった。

 足元の草を風が揺らす音も遠く聞こえる。

 ろくに動かない手や足は、他人の体を借りているようだ。


 これ以上ない満身創痍。

 これ以上ない敗北。

 これ以上ない死にざま。



 ――ヒドラが再び一歩進む。

 死が眼前にやってくる。



 ああ、だがしかし――。


 たったひとつの心残りは、彼の意に背いてしまったこと。

 あれほど気にかけてくれたのに、一宿一飯ではとても足りない恩を返せなかった。



 でもどうかこの命に免じて、最後の不義理を許して欲しい。

 たった一人で生きるのに、この世界は広すぎる。


 ヒドラが腕を振り上げる。

 残された右の目で、アオイはそれを見つめている。



 ――ああ、これでようやく、故郷の御山に――



「――――手を伸ばせ、アオイ!!!!」


 遠くなった耳に、その声はやけにはっきりと聞こえた。

 その驚きがアオイからただでさえ薄れていた判断力をなお曖昧にした。


 生と死の天秤が生に傾く、命を惜しむという失態を犯してしまった。



 振り向いた視界の先に友がいる。

 戦う力なんてないくせに、竜車の御者台の上で、あんなに必死な勇ましい顔で。


 無意識のうちにアオイが伸ばしていた右手をフロウが掴む。

 そのまま両手で抱えあげて、二人の体は御者台に倒れ込んだ。


「フロ……ウ、な……ど、して」

「黙ってろ、舌を噛むぞ!! って、ルピーヒドラめちゃくちゃ速え!! 急げマツカゼ!!」


 アオイを腿の上に寝かせ、フロウは手綱を鳴らす。

 それを待つまでもなく、すでにマツカゼは全速力だ。


「がんばれ、がんばれマツカゼ!! 俺たち非戦闘員は逃げ足で勝負だ!!」


 空の荷車をガラガラと鳴らして、フロウとマツカゼは騒がしく逃げ回る。

 獲物を攫われたヒドラは怒りの声を上げてそれを追う。


 ――なんだこれは。

 こんなもの、もはや戦ではない。

 みっともなく、惨めったらしく、生き汚い。


 少なくとも、これはアオイの知らない戦場だ。



「……な、ぜ」

「ああ!? なんだ! こっちも忙しいんだから、用があるならはっきり言え!」

「死な、せて……く、れれ、ば……故、郷の……御山に」


 それしか、わからなかったのだ。


 アオイは戦しか知らない。

 世界の渡り方などわからない。

 帰り方など、検討もつかない。


 だからせめて、戦いの果てに散ることができたのならば、体は無理でも心だけは帰れるだろうと、そう思ったのに。



「何を言ってるかまるでわからん! だが、お前が馬鹿だってことはわかる!」



 あまりにも酷いその言葉に、アオイは笑った。

 麻痺した顔では表情が作れなかったが、心の中でたしかに笑った。



「ああもう、時間を稼げって言ったのに無茶しやがって! おかげで俺までこんなことしなきゃいけなくなったじゃねえかよ!!」

「な……ぜ、助、けた……ので、す」




「――友だちを助けるのに、理由がいるか!!」




 ああ、そうだった。

 この人は、兄と友だちを助けた先で、邪竜すらも倒した男だ。


 きっとこの世界の中でも、一番のお人好し。

 異世界から流れてきたという厄介者さえ、助けずにはいられない人なのだ。



「命を惜しまず名を惜しむ――お前の故郷の道理は知らねえけどな、この大陸で、俺の前で、いつまでも蛮族のやり方が通じると思うなよ!」



 背後のルピーヒドラを見ながら、アオイの相手などついでとばかりにフロウは言う。



「俺がいる限り、何度だってお前を――って、やばいやばい! マツカゼ、スピード上げろ!」



 目と耳が効かなくなりはじめていてもわかる。

 マツカゼがいかに急いで走ろうと、ルピーヒドラからは逃げられない。


 ああ、どうにかして、この魂を差し出してでも、友を助けたいのに。

 今からでも、自分を御者台から放り投げてくれれば――。



「――フロウを守れ!! 戦士アオイを救え!!」



 アオイの耳に届いたのは、愚かな考えをかき消す勇ましい声。

 音が遠ざかってもなおわかる、聞き慣れた、戦場に響く士の叫び。


「近づくな、槍でつけ、矢を放て!!」

「三人でまとまれ! 傷ついた戦士はすぐに後ろへ下げろ!」

「恐れるな! ウラ!! ウラ!! ウラ!!」


 大勢の多くの戦士が、ルピーヒドラに挑んでいくのが、見えずともわかる。

 それはきっと雄々しく、身震いするほど勇敢な戦いなのであろう。


 ――でも、なぜ、彼らまでもが。

 淡い意識に浮かんだ疑問の声は、すぐに解けた。




「子どもたちに恥じぬ背を見せろ――オークの未来に、誇りの火を灯せ!!!」


 薄れゆく視界の中で、アオイは喜んだ。


 ――ああ、見てください、父よ、友どもよ。

 異界の地にも、たしかに武士はおりました。

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