第九話 心の魔物について
遠目に見ていることしかできないアオイの戦い。
一人では敵うはずもない相手に臆することなく立ち向かっていく姿はひたむきで、真摯で、信仰に殉じる信徒のような健気さがあった。
あそこへ行っても、俺は何もできない。
隣に立って一緒に戦ってやりたいと思っても、それをすれば足を引っ張るだけだとわかっている。
だからこそ、固く握った拳に込めた力はそのままにして、俺は俺のやるべきことをしなければいけないんだ。
「ラガニ、もう十分だろう……! 頼む、あいつに力を貸してやってくれ!」
「……ならん、まだ儀式は終わっていない。掟は守られなければいけないのだ」
眉間に皺を寄せた表情のまま、感情を押し殺した静かな声でラガニは言う。
アオイが集落を飛び出してからずっと、ラガニは長槍を握りしめていた。
わずかに震える穂先は、それを振るうことも手放すことも選べない、ラガニ自身の葛藤の表れ。
その手の中にはきっと、ラガニ自身も振りほどくことのできない魔物がいるのだ。
「俺は弱い、助けてやりたくても何もできない! だがお前は違う、そうだろう!」
「――戦士アオイはヒューマンだ。我らオークを虐げたのと同族だ」
「違う! あいつは外から来た人間だ、この大陸の歴史とは無関係だろうが!」
「……俺は長として、オークの代表たる姿勢を見せなければいけない! でなければ、残った同胞にも無惨に散った先人たちにも顔向けができんのだ!」
そう言いながらも、ラガニの目は一瞬たりともアオイから離れていない。
自分の心の中にある二つの相反する感情に、ラガニ自身も気づいているのだろう。
俺にその矛盾を責めることはできない。
俺もまた、オークの迫害の歴史の上に居座って生きてきた人間の一人に過ぎないのだから。
そして、それを指摘できる大陸で唯一の人間は、今まさにあそこで戦っている。
誰の助けもなく、大陸が積み上げた罪を一人で背負わされて、懸命に剣を振るっている。
――わかってしまった。
俺にはラガニを、オークを説得することはできない。
彼らを虐げてきた側にいる俺では、その壁は壊せないということが、わかってしまった。
「……っ!」
「――どこへ行く、フロウ!」
「俺は、俺のできることをするだけだ!」
できないことを嘆いてもしかたない。
それを認めたうえで、今の自分にできることをやらなければ。
アオイに背を向けて、ラガニの声も振り切って走り出す。
何ができるだなんて、そんなのは考えてもいなかった。
だとしても、やることはわかっている。
――自分の無力を嘆くヒマがあったら、その時間であいつを助ける方法を考えろ!
◇
ラガニは立ち尽くしていた。
アオイが集落を飛び出しても、ルピーヒドラと剣を交えても、動くことはできなかった。
そして今フロウが駆け出しても、それを止めるための足の一歩も動かなかった。
「おい、ラガニ! あのヒューマンを放っておいていいのか!?」
「あ、ああ……奴は好きにさせておけ」
近くにいたオークの青年が声をかけてくる。
それに対して、なぜ放っておいてもいいなどと言ったのか、もはやラガニにはわからない。
わからないことだらけだ。
今の自分も、あの恐ろしいルピーヒドラに臆することなく立ち向かっていくアオイも、いなくなったフロウの目的も、ラガニにはもう何も理解できない。
それは暗い闇、荒れた大地に一人で置き去りにされたような孤独だった。
どこかへ行くべきなのはわかっているのに、歩き出そうとした途端、大地から伸びた腕がラガニの足を掴んで離さない。
腕の正体だけはわかっている。
――これは、魔物だ。
ラガニの心の中に棲む魔物。
外の人間を恐れ、憎み、拒もうとする臆病な自分自身。
「……なあ、俺たち、このままでいいのか?」
「ど、どういうことだよ……」
「だってあの娘、もうあんなに傷を負って、あれじゃあ、もう死んじまうよ……」
「なっ……お、お前、ヒューマンを助けようってのか!?」
「そうじゃねえ! そうじゃねえけど……でも……」
「しかたねえだろうが、掟を破るわけにはいかねえもんよ……」
小さなざわめきが、戦士たちの中に波を起こす。
魔物を飼うのはラガニだけではなかった。
臆病な本心を、傷は優しく覆ってくれる。
ジクジクとした淡い痛みにまどろんで得られる酩酊感は、思考と責任から自分を隠してくれる。
一度味わってしまったその安息から抜け出すのには、勇気が必要だった。
手を取り合うことで、虐げられた者でなくなることが、ラガニは怖かった。
「ねえ、みんな、何してるの……?」
「――っ、ラニー、なぜ外に出た!」
背後から、小さな声が聞こえた。
振り向けば、そこにはまだ幼いラニーがいる。
「だ、だって母ちゃんたちみんな不安そうな顔で、オイラ心配で……」
「ここは危険だ、すぐ家に戻れ!」
危険だなんて、そんなのは口からでまかせだ。
さっきからずっと、自分たちはここで呑気に立っているだけ。
火の粉なんてまだひとつも降りかかってはいない。
「あれ、アオイの姉ちゃんだよね? なんで、姉ちゃんが一人で戦ってるの……?」
「あ、あのなぁラニー、あの女は悪いやつなんだ」
「そうなのウソだ! 姉ちゃんは優しくって、いい人だったよ!」
なんとか宥めようとする青年の言葉に、ラニーは食ってかかる。
所詮は分別のつかない子どもの言うことだ、そうやって煙に巻くのはおそらく難しくなかった。
しかし、周りで聞いていたオークたちの誰一人として、ラニーを笑うことができずにいた。
「なんで、誰も姉ちゃんを助けに行かないんだよ! みんなは戦士だろ! オイラと違って、デカくて強い戦士じゃないか!」
「ヒューマンを助けるなんて、できるわけないだろうが!」
「どうしてだよ! 姉ちゃん、やられちゃうよぉ!」
「ヒューマンは俺たちオークを苦しめたんだ、あんな奴ら、死んだって――」
「――やめろ! 子どもに聞かせる話ではない!!」
思わず、ラガニの口から言葉がついて出た。
周りのオークたちが驚いてラガニを見つめる。
ラガニ自身、手のひらで口を覆って、自分の言葉に驚きを隠せずにいた。
「ラガニ……オイラわかんないよ、なんで姉ちゃんを助けちゃダメなの……?」
「――それが、掟だからだ」
今度は、自分の言葉をどうにか制御することができた。
しかし、一度傾いた心は容易に戻らない。
「…………掟? 掟ってなんだよ、それ」
「お前にも、いずれわかる……我らの掟と、積み重ねた歴史が……」
上顎から滑り落ちるように漏れた言葉に力は感じられなかった。
少なくとも、それはかつてのラガニが憧れたような、誇り高き戦士のものではなかった。
「……ふざけんな、そんなの……知りたくもねえや」
そしてラガニは、小さなラニーの目を見て恐怖を覚えた。
ラニーの目は、戦士の目だった。
「誰かを見殺しにするような掟に、なんの意味があるんだよ!!」
周りの誰にも、ラニーの言葉を止める勇気はなかった。
「そんなのいらない! そんな歴史なんて――捨てちゃえばいい!!」
オークは屈強な戦士だ。
どんな敵にも、魔物にも、過去の歴史からも目を背けたりはしない。
しかし彼らは、未来との向き合い方をまだ知らなかった。
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