第八話 ルピーヒドラについて
人間たちには知られていないが、ルピーヒドラの雄は勇猛果敢な戦士である。
小さな獲物だろうと向かってくるならば全力で叩き潰すし、自分より大きな敵だろうと退くことはおろか怯むことだってありえない。
ガラテア族の集落に向かっているこのルピーヒドラとて、例外ではなかった。
獲物を喰らい、敵を屠る歩みの中で、彼は御馳走になりうる強敵を探していた。
自慢の鋭い爪と牙。
五体を巡る毒の血液。
己が生に勝利をもたらしつづけた堅牢なる肉体。
それら全てを総動員する価値のある御馳走が、どこかにいないものか。
デカい翼を持つあいつも、数だけは多かったあいつらも、敵ではなかった。
戦意と期待が時間とともに退屈へと名前を変え始めていた、その時だった。
『――なにか、とてつもないやつが来る』
それは、オークの集落に近づきつつあったルピーヒドラの小さな脳裏によぎった微かな予感。
無論、ルピーヒドラに言葉を操る知能はなく、彼の感情を細かく知るすべもない。
あくまでこれは、彼が感じ取ったものの言語化を試みただけのこと。
『大きい? いや、小さい。さっき食べたあいつよりも、逃げていったあいつよりも、小さい』
野生において大きさとは、重さとは、すなわち強さに言い換えられる。
これまでルピーヒドラは自分より小さな敵に脅威を感じたことはなかった。
どころか、自分より大きく重いやつにだって、彼は挑み、勝ち続けてきた。
視界の先に見える小さな粒は、どうみても自分より小さく、軽く、弱そうだ。
――ならばなぜ、自分はとてつもないやつが来るだなんて思ったのだろうか?
気の迷い、退屈による勘の鈍り。
それとも、自らの内に積み上げた戦いの経験がもたらした無意識の警告――?
『ああ、小さい敵よ。強くあれ、どうか強くあってくれ。とんでもない強者であれ』
長い時間をかけて冷めていった体の奥に、わずかな期待の火が灯る。
呼んでみようか、こっちに来いと、かかって来いと、声をかけてみようか。
「――オォ、オォオルルルゥ、オォオ」
小さな敵が、一目散にやってくる。
細い体を懸命に動かして、まっすぐこちらへ走ってくる。
ああ、あれは勇敢な生き物だ、ならば強いといい、強ければ強いほどいい。
段々と近づくにつれ、小さな影が膨らんでくる。
ようやく視界にはっきり映るようになった。
小さい生き物は奇妙な二本足で走っていて、持ち上げた前足の片方に細くて長い爪を持っている。
弱そうだ、あんなに小さくて細くては、ダメかもしれない。
期待が落胆に変わりかけた、その時だった。
「――おぉ、おおおおぉぉぉおおおお、おおお!!!」
小さい生き物が、吠えた。
間違いなく自分に向かって吠えた。
そしてルピーヒドラの心の奥にあった警鐘が、再び歓喜の音を鳴らした。
まもなく両者は互いの間合いに入る。
ルピーヒドラは右の前足を高く掲げて、小さな戦士をその懐に迎え入れた。
『ああ、小さく細い敵! お前はきっと御馳走だ!』
重ねて言うが、これはルピーヒドラの内面の言語化を試みたもの。
実際にはもっと曖昧な心模様や内面の形状が彼の中を巡っていた。
これら全ての感覚を大きくまとめるのは極めて簡単。
――彼は興奮していた。
◇
「桜天りゅ――っ!」
横薙ぎに振るった刀がヒドラの体を斬るより先に、アオイは下がることを選んだ。
飛びのいた直後、自分のいた位置に振り下ろされる大きな前足。
先端の鋭利な爪も、根本を支える指も、そこから繋がる皮膚の全てがぬるりとした粘液に包まれている。
当たらなければ毒に蝕まれることはない。
さりとて、かすりでもすれば見た目以上の負傷となるその一撃は、少しではあるが確かにアオイの心から攻撃の威勢を奪っていた。
「せめて速く軽いか、鈍く重いのならば楽であろうに……」
低い胴体に、太く短い四本の足。
開かなければ牙などなさそうにみえる丸い顔は、記憶にある龍の類とは違い、サンショウウオやカエルのようだ。
一見すれば鈍重な生き物、しかしこれが、相対すると予想を超えて遥かに速い。
そしてその俊敏な一撃は予想通りの重さをもって繰り出されるのだから、厄介極まりない。
「蛙も石の上で呆けているかと思えば、虫を獲る舌の先は目で追えぬもの――まさか自分が羽虫の気分を味わうとは思わなんだ……っ、また!」
アオイが離れた隙を見て、ヒドラの体躯が震える。
尻尾の付け根から左右に二対四本の管が伸びて、その先から紫の霧が吹き出す。
「これまた面倒な毒の霧――しかし!」
アオイはすでに二度、ヒドラが毒の霧を吹き出す姿を見ていた。
だからこそ気づいている。
霧を出す間、ヒドラの動きはわずかに鈍る。
(オン・アニチ・マリシエイ・ソワカ――この身に破邪の陽光を齎し給え)
声は胸の内に残したまま、息を止めて踏み込む足に力をいれる。
体が前進し、足が地面を離れた瞬間より、アオイは人から刀を振るう仕組みにかわる。
ヒドラがその接近に気づいたとき、アオイはすでに刀を振り上げる動作を終え、右の前脚を目掛けて袈裟斬りに刀を振り下ろしはじめていた。
迎え撃つはおろか、退く隙もない刹那を射抜く一撃。
刀が肉を斬り裂く間際、アオイとヒドラの視線が交わった。
アオイはヒドラの瞳に人とは違う驚愕の感情を読み取り、ヒドラはアオイの瞳に狂奔にも似た異様な光を見た。
裂かれた足から血が吹き出す。
その飛沫がアオイの服にかかり、飛沫の一滴が頬まで飛んだ。
しかし、アオイに頬を拭う暇はない。
あたりを毒の霧に包まれたまま、ヒドラが大きな図体をぐるりと回す。
視界の外れからアオイの頭を目掛けて飛んでくる、アオイの頭よりも大きな尾の先。
尾の先にも三対の棘がついていた。
ルピーヒドラの体は、全てが獲物を殺すためにこそできている。
避けるか、受けるか。
選択をする暇もない束の間の空白の末、アオイが選んだのは第三の選択だった。
横振りの尾の高さに合わせるように、瞳の位置で地面と水平に刀を構える。
そして迎え入れるように三対の棘の根本へ深々と、刃を天に向けた刀を突き刺した。
ヒドラが鳴く。
刀は刃の半分ほどまで刺さっていた。
ヒドラが尾を振る。
抗うその力を利用して、アオイは強引に、そして巧みにヒドラの尾を切断した。
たまらず飛び退いたヒドラに合わせてアオイもまた距離をとる。
霧の中から抜け出したアオイの口から荒い息遣いとともに空気が吐き出された。
「はっ――はっ――竜退治、さすがにそう甘くはない……!」
呼吸を整えながら、アオイはヒドラを睨む。
脚を切断する気勢で放った乾坤の一撃は、骨も断てず肉の鎧に阻まれた。
尻尾は意地で斬ってみせたが、代わりに右の肘をやられた。
そして何より、ヒドラは気づいてなかろうが、切り離した間際、尻尾の棘が肩をかすめた。
――痛い、いや、感じる痛みよりもよほど大きな痛手を負ってしまった。
すでに傷口が痺れ始めている。
だが敵は獣だ。
弱っていることを感づかれるのが、一番まずい。
整いつつある呼吸とともに、両足の配置を直す。
直す際にアオイは自身の体をきわめて慎重に動かした。
それはなにより、体のどこも、後ろへ下がることのないように。
――進み続ける。
前進のみを自らに許可する。
退がること、迷うこと、恐れること、それら一切の弱音を禁ずる。
そうしていつか、己が身の果つる時まで――。
この世界にやってきて以来、自らに課した戒め。
この世界に武士は自分ただ一人。
武士の名を守れるものも、自分だけ。
産み落とし、育ててくれた故郷への感謝。
故郷が育んだ技の全てを注ぐに足る、強敵への感謝。
二つの感謝が、アオイの二本の脚を前に進ませていた。
◇
ルピーヒドラがはじめに感じたのは、あの細くて長い奇妙な爪が、自らの肉を斬り裂いた感触。
あいつだって、あいつだって、あいつだって、あいつだって、自分に傷ひとつつけられなかったのに。
そしてなによりの衝撃は、小さな戦士の目。
『あいつ――斬るつもりで斬りやがった!』
その目を見てわかった。
本当ならば、もっと深くやるつもりだったのだ。
あんなに小さいのに。あんなに細いのに。
驚きつつも、迎撃の手筈は整っていた。
自らの五体に備わる至高の武器のひとつ、
でもあいつなら、避けるかもしれないし、防ぐかもしれないとヒドラは思っていた。
それくらいのことはしてのける強敵であると、すでに認識は完了していた。
しかし、あいつは避けも防ぎもせず、またあの妙な爪を刺してきたのだ。
さすがに驚いた。さすがにたじろいだ。
慌てた。慌てて振り払おうとしたら、それは起こった。
なにが起きたのかはすぐに理解した。
誕生以来、当たり前に備わっていた感覚の喪失。
尻尾を振ったときに感じる誇らしいほどの重量感が、すっかり失われていたのである。
『斬られた? 食われた? ――取られた!』
その驚愕の度合いは、ヒドラを後退させるのに十分すぎるほどだった。
一歩、二歩、三歩――四つの脚を全て合わせて、ヒドラは七歩分も退いた。
無論、背を向けたりはしない。
頭の中の冷静な部分はしっかりと小さい戦士を見据えていた。
――だからこそ気づいた、あってはならない異変。
小さな戦士も確かに下がった。
それは当然だ、あいつはそこにいれば毒の霧にやられてしまう。
だから、毒の霧から抜け出すために、後ろへ下がった。
でも、あいつはそれだけだった。
毒の霧がなくなったところで、あいつは止まった。
俺はどうだ?
俺は自分の毒でやられたりしない。
あいつより大きくて、あいつより強いはずだ。
――なのに、七歩も下がってしまった。
自分のほうが、戦いに恐怖している。
その事実が、本能よりなお原始的ななにか、ヒドラの中にある恥というものに最も近い心模様に火をつけた。
竜種の誇りに熱が入る。
重ねて言うが、これはあくまでイメージである。
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