第七話 心の行方について
枷を外され、ようやく自由を取り戻して久々にすった外の空気。
しかしそれは、清々しさや瑞々しさとはあまりに遠くかけ離れていた。
広場でオークの戦士に囲まれて、真ん中にアオイが座っている。
一人のオークの青年が泥と塗料を溶かした汁を指で掬い、袖を捲くったアオイの両腕に線を引き模様を描く。
あれは罪を表す穢れの印だ。
あの腕に描かれた印が戦いの中で次第に剥がれ落ちて、すべて消え失せたときにようやく禊が完了する。
オークの中にはアオイに対してなにか言いたげな表情を向ける者もいた。
しかしそこには彼らなりの矜持があるのだろう。
罵ることも蔑むこともなく、戦いに赴く士を送り出す準備は粛々と進められた。
「……フロウ、そこにいたか」
その様子を広場の端から見守っていた俺のもとにラガニがやってきた。
戦士隊の指揮もひと段落ついたのか、少しの疲れを顔に浮かび上がらせて俺の隣に座り、両手で持ったコップの片方を差し出してくる。
「できることならば、お前たち二人をどうにか帰してやりたかった」
「今からだって遅くないぞ、解放にはまだ間に合う」
「そうはいかない……俺の意志は、みなの総意でなければならんのだ」
「相変わらず暗い奴だな、お前も」
誰も気にしない暗がりで、誰にも聞かれてはいけない心の内をラガニは打ち明ける。
「みなを率いるのは名誉ある役目だ……しかし、それに殉じる己にふと嫌気が差すことがあるよ」
「…………」
「かつてお前は、俺の友どもを救ってくれた。なのに今、俺はお前の友の命を奪おうとしている……これのどこに誇りがある、恩に唾を吐く俺のどこに大義がある?」
俺がラガニと出会ったのは、兄貴たちとの旅の中頃、今から五年ほど前のこと。
オークに対する迫害が続くなか、ラガニたちガラテア族は流行り病によって滅びかけていた。
集落にヒューマンが立ち入ったこと、人身御供として殺されかけていたオークの少女を救って儀式の邪魔をしたこと。
病を治すためにはオークが禁忌とする類の治癒術を使わなければいけなかったこと、病の原因が彼らの神聖視する香草を蝕む寄生虫にあり、解決のために香草を全て焼き払わなければならなかったこと。
相互理解の欠如による四度の対立ののち、俺たちはようやく和解することができた。
あれは一応の団円をもって終わったが、文化と歴史の溝はそれだけの争いがなければ埋まらないという教訓にもなった思い出だ。
そして今、再びその溝が対立のきっかけとなっているこの状況は、俺にとってもラガニにとっても苦しい話というほかない。
「俺はこの件について、オークへ怒りや恨みを抱いちゃいない。悪者なんてここにはいないんだよ、ラガニ……それがいてくれたら、よっぽど楽だったとは思うけどな」
「いや、悪ならいる。今だって俺の心のうちにいる魔物が、あの子を許すなと叫んでいる」
ラガニは俺から顔を隠すようにして、コップの中の酒を呷った。
松明の明かりとコップの影で半々になった横顔は、苦しみに歪んでいた。
「――わかっている。お前たちヒューマンの全てが悪ではない。アオイの心には我らへの深い敬意がある、手を取り合うのが正しいなんてこと、俺たちはみんなわかってるんだ」
ラガニはガラテア族を率いる屈強な戦士だ。
どんな魔物にも立ち向かい、どれほど深い傷を負っても怯みはしない。
「だが、俺の歴史(魔物)が……愛することの邪魔をする……!」
敵はどこにもおらず、傷一つない体のままで。
今にも泣きそうな顔をして、ラガニは言った。
さっき渡されたコップの酒を一口だけ飲んで、残りをラガニに返す。
「飲み干せよ、ラガニ。その気持ちは、まだ胸の奥にしまっておくべきものだ」
「ああ、ああ……すまん、すまない、友よ……!」
たった一杯の酒で満たし埋めきれるほど、この溝は浅いものではない。
だとしても、同じ酒を分かち合い続けることでしか埋まらないのも、また確かなんだ。
◇
オークの青年が三度続けて鐘を鳴らす。
もうすぐそこまでルピーヒドラがやってきたという合図だ。
集落の女や子どもはテントに戻っていく。
広場に残ったのは、オークの戦士と、俺とアオイ。
アオイは戦士たちから振る舞われた料理を食べ終えて、広場の外周、集落の入り口の前でじっと立って彼方を見つめていた。
まだ暗く、遠くまではろくに見えないだろう。
そう思いながら近づいていくと、アオイはパッとこちらへ振り向いた。
「なにか見えたか?」
「いえ、私はそう夜目の利く方でもありませぬゆえ」
いつもとは違い、アオイは捲くった袖を背中で交差させた布の紐によって縛っていた。
少しでも腕の動きをよくするための細工だろう。
そのことから、アオイがルピーヒドラに十分な備えをしようとしていることがわかる。
「調子はどうだ?」
「万全」
「ちゃんと飯は食ったか?」
「満腹!!」
「……そうか、ならいい」
先ほどラガニと話したせいか、どんな言葉をかければいいのか、よくわからなかった。
……いや、あまり深く考えるべきじゃないな。
ここを乗り切れば、いくらでも話はできる。
別れの言葉なんてするだけ無駄だ。
「ルピーヒドラと戦うにあたって、気をつけることは?」
「寄らぬこと、触れぬこと!」
「そうだ、無理に倒そうとはせず、時間を稼ぐことに専念しろ」
またこいつと話ができるように、互いの最善を尽くす。
今はそれだけで十分だ。
どれ、気合を入れてやろうかとアオイの背中に手を伸ばす。
しかし、その手は宙を空振った。
「――貴殿に感謝を、フロウ・ティンベル殿」
見れば、アオイは地面に両膝と両の拳をつき、俺に頭を下げていた。
まったく似合わない殊勝な態度に、思考が止まる。
「牢にて首を刎ねられるはブシの恥。あなたは私に、戦場で死ぬ機会をくださった」
「ま、待て、アオイ」
「あなたは我が終生の恩人――あなたは、命をかけるに足る友人です」
顔を上げ、俺を見つめるその瞳に、思わず言葉を失った。
アオイの目は、死を覚悟した者の瞳――そこには助かるつもりのない心が表れていた。
「――ふ、ふざけるなアオイ!」
「なに、アオイも負けるつもりで挑みはしませぬよ。されど、人はサパッと消えるものゆえ、言える時に言っておかねば。ああ、なんと――」
最後に一言、俺に聞かせるためでもない小さな声でアオイは呟いた。
その真意を問おうとするも、それを遮るようにアオイは立ち上がる。
「では、行ってまいります。どうかそこで、アオイの武運長久をお祈りくだされ、フロウ殿」
「待て! まだ話は……!」
俺の言葉を遮って、集落の松明に背を向けて、アオイは走り出した。
矢のように、俺から逃げ出すように、暗闇へ向けて跳んでいく。
視界の先で蠢きながら近づいてくる黒い山へ、アオイは向かう。
小さくなっていく背中に、俺は心のなかで、あの呟きの意味を問わずにはいられなかった。
「――ああ、なんと嬉しや。これでアオイの心は、故郷の御山に戻りまする」
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